とおり雨
~長子と伊織の普段着の?毎日~
4
 
 
 
伊織の休暇が明け、またこれまでと同じような日々が始まる。
わたしが子供らに与えた猫じゃらしの音が三つ、邸のどこそこで聞かれるようになった。よく飽きもせずに、互いに振っては遊んでいるらしい。
 
夕刻過ぎのことだ。お城から下がったなりの伊織が、着替えも済まない正装のまま、長子のいる奥に現れた。ひどく珍しく奇異なこと。
彼は立ったなりで、牡丹が火事に遭い怪我をしたことを知らせた。
「え」
彼女の恋人の俊輔殿から、城内で伊織は耳にしたようだ。
大した怪我ではないというものの、よほど動顚していたと見える。廊下で表坊主(剃髪・法服の雑役を勤める者)にぶつかって、その者の手にしていた炉の炭が、辺りに派手にばら撒かれる一騒動があったという。
「俊輔は気の毒に、すっころんで灰まみれだった」
と、他人事ににやにやと伊織は笑った。
俊輔殿の威儀を正したところしか目にしたことがない長子には、ちょっと想像がつかない。
それにしても、親友が恋人の怪我に動揺しているのを笑うとは、意地の悪い。腐れた老中に「ひどい」と文句を言ってやる。
「着替えを貸してやった」
と涼しい顔だ。
ともかく、伊織は、わたしに牡丹へ見舞いをしてやるように告げた。
大した怪我ではない、と聞いたが、身近な人の災難に胸がとどろいた。
江戸は大小と火事が多い。御公儀で、火事に罹災した人々の大掛かりな避難施設を造ったと聞いたのは、いつだったろうか…。
今回の件は、大きな風聞になっていないところから、幸い小さい火事で済んだのであろう。
「ええ、長子も様子が知りたいわ」
翌日にでも足を運ぶ気でいた。が、不意に柚城の母上が遣いを寄越されるなどして日がつぶれ、牡丹の住まいのある深川を訪れたのは、更に次の日となった。
 
 
牡丹の住まう界隈は、表通りが小さな商店が並び、その奥に彼女の住まうこじんまりとしたしもたや風の家屋があった。
問題の火事は、更にその奥の路地を入った長屋が火元だという。
見慣れた小路を入り、目的の牡丹の家に着けば、当の牡丹が箒を持って玄関先を掃いているのだから驚く。
「牡丹」
手ぬぐいを姉さんかぶりにし、こちらの声に何気なく顔を上げた彼女は、「あらまあ」と目を見開いた後で、にっこりと笑った。
「ほお、今日も観音様みたいな」とつぶやくのが耳に入った。この日は、爺やを一人供にしていた。その爺やのつぶやきだ。
長子や伊織が身分違いの交際を立たない意味を、爺やなりに理解しているようだ。
元気そうな様子と、怪我が足首に巻いたさらし程度であるのを認め、とりあえずほっとする。
見舞いに来たのだと告げると、彼女は嬉しげに微笑み、頭を深く垂れた。小腰をかがめて家の中へ招じ入れる。
「ほんとに、お姫様にお気遣いを頂戴するほどの大した怪我ではないんですよ」
小女を急かして茶菓の用意をさせる。「どうぞ」と、土間からの上がり框に控えて腰を下ろした爺やへ座布団を差し出してやり、煙草盆をその脇に添えた。
「ねえ、どこが燃えたの?」
室内を見ても、火に遭った様子も煙に舐められたような気配もない。牡丹は「うちは大したことがないんですよ」と笑んで、裏の壁が少々焼けて黒くなった程度だと言う。
「ありがたいことに、風がない夜で、火も延びずに、裏の長屋の一軒が焼けただけの、ほんの小火で済んだんでございますよ」
「ふうん」
町内総出で火消しに出て、牡丹の怪我も火傷ではなく、そのとき板切れで切ったとかで、切り傷だというのだ。
恋人の被災に、お城の廊下で転んで灰だらけになるほど慌てた俊輔殿は、一体どんな知らせを聞いたのだろう。と、ちょっと首を傾げる。
伊織が、人が悪くにやにやとしていた意味も、わかるような。
「それが姫様、お聞き下さいましな」
「何?」
牡丹がやや身を乗り出し、興奮した様子で話し出した。
長屋に住まっていたのは女子供や力のない老人ばかり。男は行商で留守にしていたりで、煙で火事に気づいたときは、騒ぎ合うばかりであったらしい。
「これ以上手をこまねいては、大火事につながるというとき、そこへ新入りのお人らしいんですが、お侍さんがいらして、声を上げるや、ぱぱっと皆をまとめて井戸の水を汲ませて、火消しの指導をなさったんでございますよ」
「へえ」
「こう、水をかぶるや…」
と(牡丹は頭から水かぶる仕草をしながら)、侍が、火元の部屋に飛び込んで、中の人を脇に抱えて出てきたことを説明した。「二人も、でございますよ」と。
表に面した家の人々が騒ぎに現れたのは、侍が火を鎮火しつつあった頃で、
「あのお侍さんのお陰で、大した火にならずに収まったんでございますよ。皆でそう囃しますとね、ご性分じゃないのか、うるさそうに顔をしかめるばかり。さっさと家に入ってしまいましてね。持ち上げられるのが、よほどお嫌なんでしょうね」
牡丹の声が嬉々と弾んでいる。
「お独り身のご浪人さんらしゅうございましてね、ちょっと見、ぬぼうっとした感じなんですけど。まあ中身は、颯爽とした頼りがいのある、男気のあるお人でございましたよ」
「ふうん。そう…」
そう返しながら、牡丹が以前にも杏絡みで伊織のことを、恋人の俊輔殿が妬くほどべた褒めしていたのを思い出す。
それは、見た目のことではなく、振る舞いや行動であったはず。きっと彼女は、殿方の清々しい行いに、きゅんと好意を感ずる性質なのだろう。
先日伊織から聞いた、牡丹の身を案じて動顚した俊輔殿のお城での話を披露してやろうと思ったが、止めておくことにした。
颯爽と「男気のある」浪人の話題の後では、俊輔殿に分のいい話ではない。
火消しの殊勲者である「お侍さん」の活躍ぶりに相槌を打っていると、表でおとないを求める声がした。
小さな家だ。居間の前がすぐ土間と玄関で、客が男であることも知れる。武家らしい問いの言葉に、おやと牡丹の顔を見た。
「まあ、夕刻とお知らせがあったのに…」
とつぶやくや、こちらへ申し訳なさそうに腰を上げる。長子をはばかって、遠慮がちに「はい、ただいま」と表へ声をかけた。
「お客なの?」
「ええ…、お声の方は…」
俊輔殿の遣わした、彼女を迎える使いだという。火事に遭った家では怪我の癒えも悪かろうと、療養のために沢渡家の別邸へ移す迎えを寄越したらしい。
「え」となる。思わず爺やと顔を見合わせた。
「療養?」
だって、彼女は軽い切り傷程度でぴんしゃんしており、この家も何の被害もないというのに。
牡丹をうかがえば、やや瞳を伏せ、恥ずかしげに頬を赤らめている。
「俊輔様が、どうしても心配だとおっしゃるので…」
「ふうん…」
牡丹が土間を降り、玄関の扉を開けると、羽織袴の侍の傍らに中間らしい姿も見えた。彼女の身の回りの荷を運ぶのだろう。
牡丹が詫び声で、使いに「今、大事なお客様がいらっしゃって…」と、出立の遅延を告げているのが聞こえる。
「しかし、若様が夕刻前までにはご到着あるようにと、固く仰せで」
「はあ、それはご苦労様にございます」
まあ。「夕刻前」って、今はまだ昼前だというのに。
使いを前に、牡丹がうなだれて弱っているのが知れ、わたしは爺やを促し、立ち上がった。
「また来るわ。俊輔殿に、長子がおよろしく、とお伝えして頂戴」
「まあ…、慌しいことで、申し訳ございません」
「ううん」
話を聞きながら、供された「淡雪せんべい」を五枚も食べるゆとりもあった。牡丹の元気な顔が見られれば、それでいいのだ。
それにしても、俊輔殿の気の回しようは、ほんわりと、おかしくて頬が緩む。けれども、牡丹の上気した頬やうっすら染まった襟足を見れば、その過剰な配慮にも、彼女の嬉しさがうかがえるというもの。
長子にはちょっと大げさにも思える、俊輔殿の心配や優しさは、肝心の牡丹にとっては、じゅんと女心をときめかせるものであるのかもしれない。
 
ぺこぺこと詫びて見送る牡丹の家を辞し、ほどなく。
爺やがいまだ手に包みを持っていることを知らせた。爺やの抱えた風呂敷には、見舞いには食べ物だろうと思い立って作らせた、海苔巻きなどが詰まっている重だ。
「あ」と、今来た彼女の家を振り返ったが、戻る意味がないように思われた。今から行き届いた沢渡家の邸に移る牡丹には、迷惑でしかなかろう。
かといって持ち帰るのも、物足りない。
ちょっと悩んでいると、長子の脇を、裏の路地から子供が駆けていった。その勢いに裾がはためいた。
あ。
悪戯心からか、ふと、頭に浮かんだ。
そうだ。
牡丹が絶賛した、火消しに大活躍した「お侍さん」を見てやろう。なに、昼前のこと。勤めなどで浪人といえども留守やもしれないのだ。
なら、それはそれでいい。その辺の長屋の住人に、怪しまれないよう牡丹からだと言い、海苔巻きの重をくれてやったらいいのだ。
爺やにそう告げ、歩の向きを変えた。                       
狭い路地の向こうに、小さな家が寄り合って建っていた。家の前には銘々が、軒に紐を渡して物を干している。井戸端で話す女のかしましい笑い声が届く。
こう家屋が密集していては、火事などあれば容易に火も移るはず。問題の火元と見える、真っ黒に煤けた家も見つかった。
物珍しい光景に、目が吸いつけられる。
きょろきょろ辺りを観察していると、女たちのやや警戒した目が自分に注ぐのを感じた。武家の女子が何用だろう、と不審がっているのだろう。
とっさに、爺やがわたしの前に出た。
そのとき、がらっと引き戸が開くのが聞こえた。端の家のもので、何となく目をやる。そこには、黄ばんだ障子戸に『手ならい よみ書き』と崩れた汚い字であった。
その戸から、幼い子が二人こぼれてくるのだ。ここの教え子らしい、
「先生、さよなら」
と、可愛い声が、戸の奥に向かって叫ぶように言う。先ほど長子の脇を駆け抜けていった幼子も、この一人なのやもしれない、と思い出す。
ふらりとそこへ人影が現れた。侍だった。鬢があちこち伸び、よれた着流しに袴もない。士官先を持つ武士の姿でないのは瞬時にわかる。
牡丹のいう「お侍さん」は、きっとあの人物ではないか…。
彼女の使った「ぬぼうっと」といった表現は上手く、まことにぴたりと、彼の人物にあてはまるのだ。
爺やの肩越しにぼんやり見ていると、頭のどこかをくすぐられるような気がする。さわさわ、と。
彼を知っているようなのだ。
長子の世間など狭い。知っている殿方など知れた数だ。
どうして?
同じ顔を何度も浮かばせ、その狭間に、ひょいとある記憶がこぼれてきた。瞬時に、そのときの感情や温度までもが胸にあふれ、感ぜられるような気がする。
あ……。
『手ならい よみ書き』と崩れ書きした戸に佇む浪人は、四谷の道場で伊織を打ち負かした、あの男だ。
凝らして見つめるが、間違いがない。鬢もひげも、あのときより伸びむさくるしい感があるが、間違いない。
どれだけ見つめていたのか、ふと、男と目が合った。
「何かご用か?」
「あの…」
用などない。牡丹の賛辞に煽られて、火消しの「お侍さん」を、ほんの興味でのぞきに来ただけだ。
そこで、海苔巻きの重を思い出す。爺やから受け取り、進み出る。「そこの…」と、牡丹の家を指し、
「近火見舞いに参ったのですけれど、牡丹さんがちょうど出かけるところで、折り悪く、持ち帰ってきたのです。海苔巻きが詰まっていますから、よろしかったらお召し上がりになりませんか?」
男は(確か松岡と名乗ったはず)、こちらの口上にきょとんとした顔をした。長子の指した牡丹の家をちらっと目で追い、ぼそりと、
「あの別嬪の…」
とつぶやく。
「友人ですわ」
風呂敷を解く長子に、松岡浪人は、怪訝そうな顔をした。そういう表情をすれば、はっとするほど焼けた面差しに、道場で見たような粗い剣客らしさが匂う。
その目をあけすけに向けられ、剣を持ち立ち合っている訳でもなし、なぜだろう、胸の鼓動が跳ねる。
彼の側は、長子のことなど記憶にもないのか、武家の女子と市井の牡丹との関係が、ただ解せないだけのようだった。
「ねえ先生、あの別嬪の三味のおっ師匠さんは、偉いお侍の縁故だって噂だよ」
離れて訳知り風な女の声がかかった。先ほどの井戸端の女たちだ。彼はこの辺りで、「先生」と呼ばれているのか。妙なところで、へえとなる。
女の言葉に、武家の女子の見舞いの合点がいったようだ。そういうものか、というように頷き、
「では、遠慮なく」
と、差し出す重を受け取った。
そこへ、戸の奥からまた小さな声がする。「先生、なあにもらったの?」、「それなあに?」と。食べ物の気配に、はしゃいだ声がかわゆい。
「海苔巻きだと。待て、今分けてやろう」
と首を奥に突っ込んで答えてから、こちらに顔を戻し、
「少々お待ちいただければ、すぐに中身を空けて、重をお返ししますが…」
「え」
どうしよう。
瞬時迷うが、「あの…」と、答えが出せない。
海苔巻きに待ちきれない子供らが、表に出てきた。彼の袖を引き、または足元にまとわりついた。
警戒やはにかみに、長子をちらっと盗み見ながらも、
「すぐに、食べてね」
「返してあげる、よ」
「早く、ちょうだい」
井戸端の女たちが、子供の様子に微笑ましげにからからと笑う。長子の唇も笑みに緩む。よくなつかれているようだ。
「お前ら…」
苦笑して、彼が「ほら」と重をちょっと肩の上に掲げた。児戯を出し、子供に応じてやっているのだろうか。伊織も、杏や双子を相手にこのようなことをする。
それで、肘からが袖口からこぼれた。引き締まった腕には、塞がりかけた新しげな切り傷が目に入る。先の火事の際のものかもしれない。
 
この腕が、伊織を倒したのだ。
 
甦る記憶に、頬が熱くなる。
巧緻でありまた大胆な伊織の剣先を、この腕は、あたかも紙のように破った。
それは、まるで長子の黒髪が、手繰られざっくりと切り落とされてしまうような衝撃に似ていた…。
鮮やかに甦った心の揺れに、うっすらとしためまいが走る。
 
この腕が…。
 
逸らそうとして、目を伏せた。
けれども再び、不思議な磁力に吸われるように、瞳が戻ってしまう。
伸びた手首までの線に、目が離せない。はしたないと知りながら、瞳は伏せがちに、やはり見つめてしまうのだ。
 
この指が、
この手が、
 
この男が、伊織より強いというのか。
 
「もし…」
声に、我に返る。
知らず、胸の前で握りしめていた縮緬の風呂敷に気づく。それを畳む風で目を伏せ、長子は自然に返していた。
首を軽く振り、
「ごゆっくり、どうぞ。また…、こちらに参りますから」



        

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