とおり雨
~長子と伊織の普段着の?毎日~
5
 
 
 
その日は雨が降った。
柔らかい小ぬか雨が、最初まつげの先にしずくを作り、じき、しとしとと肩先をぬらした。
わたしは傘の用意を持たないで来た。
見覚えた牡丹の家の裏の路地に足を踏み入れて、そこに、でこぼこの地面のあちこちに水溜りができているのを見てしまう。白足袋の足が怯んだ。
雨の湿気で、先日は匂わなかった香りが流れてくる。粥のような匂いであり、干し魚のそれも混じっているような。生活そのもののような、生々しい匂いだ。
ためらう長子をうかがって、後ろの爺やが「伺って参ります。お待ちを」と、するりとわたしを残し、松岡浪人の家の前に立った。優しげな声でおとないをかける。
更に二度三度、ほとほと戸を拳で打った。例の『手ならい よみ書き』と記した障子張りの戸が、それでことこと揺れるのが見えた。
留守のようだ。軽く首を振って、こちらを見返す。
約束もなく来たのだから、しょうのない結果である。
であるのに、当てが外れて肩透かしであり、それで却ってちょっとほっとしたような、妙な安堵の気持ちもあるのだ。
自分の心が鮮明でないことにほんのり焦れた。それでも、せっかくの外出がこうでは、面白くない。
わずかに唇を尖らせ、爺やを伴いまた道を戻る。その背に、誰かが声をかけた。「あのう」と。
女の声に振り返れば、長屋の者らしい女が、
「先生なら、そろそろ帰りの時刻ですよ」
その女は長子を覚えていた。裏通りまではめったにない武家のしかも女子の出入りだから、目に付いたのかもしれない。
聞けば、「先生」と呼ばれる松岡浪人は、この先にある線香問屋で、夜警の仕事もしているのだという。
「昼を出してもらって、そろそろ帰る時刻でしょう」
更に女は、先日長子が松岡浪人に渡したままにした海苔巻きを詰めた重を、自分が洗って預かってあるのだ、とも言った。
「留守の間に、お武家のお姫様のお使いでもが、また取りに来なさるかもって、あたしが先生に言っておいたんですよ」
「そうなの…」
長屋というところは、こうも個人の生活を把握して、寄り添って暮らすところなのか。思いがけないことに、面食らう。
榊の丸の内本邸の隣りは、同じく大名屋敷の高杉家であるが、長子なぞ、その家内のことはほとんど何も知らない。そういったことを外に洩らす家風が、武家にはそもそもない。
「ちょっとお待ち下さいよ」
と家に飛び込み、すぐに重を持って引き返してきた。この女の子供も海苔巻きを食べたとかで、その慇懃な礼に、「いいえ」と答え、またきびすを返す。
爺やがわたしが雨にぬれるのをはばかって、駕籠を拾うよううかがいを立てた。
それに生返事をし、わたしは何も決めないまま歩を進めていった。普段から余計口を利かない爺やは、それ以上を言わず、後をついてくる。
ふと、自分が、さっき長屋の女が教えた、この先にあるという線香問屋を目指していることに気づく。
あら、と思い、自分が何をしようとしているのか、今頃悟り、おかしくなる。
重を返してもらうという用は、既に果たした。元より、先の女が言ったように、使いの者を遣ってもよかったし、実は、重など放っておいても、ちらりとも惜しくない。端から、あってないような用事だった。
それでも自ら足を運んだのは、心のどこかで、もう一度あの浪人者を目にしたかった、そういう動機があったのだ。
そこまで認めながら、
どうして?
と、わたしは自分の心に問う。
伊織を打ち負かしたあの男に、牡丹の見舞いの後で、思いがけない再会をした。そのときあの浪人者に、捉えどころのない、けれども大きな興味を持ったのは事実だ。
けれども、会って、どうしようというのか。改めて目にすることで、わたしは何を知りたいのか…。
雨粒が、こめかみを伝った。目を上げ、指先で弾いたとき、雨降る雑踏に、その姿を見つけた。
あ。
強まりかけた雨に、歩を速める人に混じり、その人は、組んだ腕を懐手にし、ゆらゆらと悠々と歩いてくる。
この日は袴を着けていた。わたしが家内で見慣れた、折り目のきれいに整ったそれではない。
あちこちにしわが寄り、着古したものだが、それが伸びた月代に、ややすくめた首に、そしてあの寄り添って住まう長屋などに、ぴたりとはまるようで、妙に目に心地がいい。
やはり、長子に気づく素振りもない彼を、ややぼんやりと見ていた。
それだけで、ここまで足を運んだ甲斐があったような、ちょっと満足な気分なのだ。肩透かしの不愉快さも、雨が襟をぬらし始めた不快さも、価値があったのだと感じられる。
せめて、声なりと、かけて…。
それでこの妙な冒険を、お仕舞いにしよう。
こだわりなく、わたしはそう考えていた。長子には、これ以上を続ける理由がないではないか。
そのとき、彼の肩を呼び止めるように、強引に引いた男があった。松岡浪人と似たなりをしている。他にもう一人、彼の背に回った者がある。こちらは町人風の、けれどちょっと崩した風体だった。
松岡浪人は、自分を囲む男二人に厄介げだ。やり過ごそうと、振り払う。親しいというより、乱暴な雰囲気に、何だろう、と眺めるわたしが小首をかしげたときだ。
町人風の男が、いきなり松岡浪人の腹を拳で殴ったのだ。拳が強かったのか、彼は歩を止め、背を折り身を屈めた。
あ。
と息を飲んだすぐ後には、わたしは走り出していた。「姫様」と、爺やの制止の声を背に聞いたが、何も返さない。
雨の中、いきなりの喧嘩の様子に、通りの人々は遠巻きに、そして足早にやり過ごそうと通り抜けていく。
駆け寄るや、わたしは松岡浪人の前に立ち、男二人をにらみつけていた。傍には爺やがいつ控えたのか、これもすでに鍔口に手をかけ、鯉口を切ろうとしている。
「一人に二人がかりとは、卑怯ではありませんか」
不意に現れた女子の、しかも歴としたなりの武家に怯んだのか、傍らで身構え、瞬時にも抜刀できる爺やに気圧されたのか。
男どもは「ちっ」といった舌打ちをし、意味ありげで嫌な視線を松岡浪人に流して、小走りに去っていった。
「お怪我は?」
「いや…、どうも」
急に現れたわたしへ、彼はぽかんとした顔を向ける。急を救われる意味がわからず困った風に目を泳がせる。ともかくも頭を垂れ、
「みっともないところを…、いや、かたじけない」
と礼を口にした。
爺やが例に似ず割って入り、「先の者共は?」と彼に問う。
「お恥ずかしい。借金取りの連中で…」
そして、今頃気づいたのか、彼はふとわたしをまじまじと見つめ、「あ」の形に唇を開いた。
「あなたは、先日の、あの海苔巻きの…」
「ええ…」
わたしが頷いたところで、雨脚が強まった。襟足を雨が伝い背に流れ、その冷たさにぞくっと寒気が走る。
「…今日は、お預けしたままの重を受け取りに参ったのです」
「自ら、わざわざ?」
「え…」
それに、返答ができなかった。いけないのだろうか。武家の女子が出歩きしては、江戸の法度に触るとでもいうのか。
立ったなりでいるわたしへ、ぬれ始めた彼が、ぼそりと、
「ぬれますよ」
と言う。
そんなこと承知している。既にぬれてもいた。
おずおずと、爺やがわたしの袖を引くのも感じた。屋根のあるところへ、と促しているのが知れた。
「牡丹さんの家に雨宿りを願いましょう。留守でも、小女ぐらいは残してあるはず」
「…そうね」
このまま往来でぬれていても、詮がない。わたしが爺やに導かれ、元来た道を戻れば、ほどない距離を置き、彼がついてくる。
「え」と、驚いたが、当たり前のことだ。彼も同じ帰路なのだ。
しかし、雨に冷やされた頬に、彼の注ぐ直截な視線を感じ、気持ちがざわめいた。この女子は何者なのだろう、そう訝っているような。
また、長子の心中を透かしのぞくようであり、まことに落ち着かない。
牡丹の家の軒先で、爺やが戸を叩いた。主がいないせいかしんとし、人の気配がうかがえない。
牡丹は、自分の留守には小女も薮入りで帰しているのでは、とあきらめた頃、内側からがらがらと戸が引かれた。
爺やが見覚えのある小女に雨宿りを請うた。
「はいっ。ただいま」
声ははきはきと元気がいいが、慌て者か粗忽者か。長子らを中へ招じ入れれば、勝手の方で盛大に躓く音が聞こえた。
これまでもちょいちょいと顔を出した、彼女の主人の言う「それはお偉いお武家のお姫様」の不意の来訪に、気が動顚しているらしい。
それでも乾いた布を渡してくれ、温かいお茶を出してくれたので、ほっと息がつけた。
「こちらから、辻駕籠でも拾いましょう」
額の雨粒を布で拭っていると、爺やが言う。「そうね」とぼんやりわたしは返した。いつものことではあるが、帰りの算段など、念頭になかった。
ふと気づけば、妙なものが目に入る。土間に、肩先と袴の裾を派手にぬらした松岡浪人の姿があった。
どうして、こんなところにまでついてきたのだろう。自分の家はここのすぐ裏の長屋だ。
と、目が合う。
長子の瞳に気づけば、ふっと彼は視線を逸らし落とした。何だろう、先ほどまでは、露わに視線をぶつけていたというのに。
幾つもの疑問が浮かび、じれじれと気持ちが妙に乱れた。それでいて、理屈に合わない彼の行動が、不快ではないのだ。
爺やが、小女に駕籠屋までの使いを頼んでいる。それを耳にし、わたしはつい、
「爺やが行って。その方が早く駕籠を調達してもらえるでしょう」
わたしの言葉に爺やは、歯切れ悪く「はあ…」と頷き、渋々と腰を上げた。爺やはいつだって、わたしを一人にしたがらない。
「平気よ。どこにも行かないで待っているから」
それでも出て行ったのは、命の他、わたしの言が的を射ていたこともあるだろう。こんな雨には駕籠屋は大繁盛だ。小女が頼むより、武家の爺やの注文が早く通るのは間違いない。
襟足から入った雨で肌着までじっとりとぬれ、少々気持ちが悪い。布で首の辺りを押さえ、我慢するよりない。
所在なく瞳を動かせば、また、彼と目が合った。長子とは違い、ぬれた鬢も何も、拭おうともしていない。小女が渡した布を、手持ち無沙汰に捻ってなぞいる。
茶菓子を探しに下がり、小女が勝手からまだ戻ってこない。身分の開きがあり過ぎる長子といるのが辛いのだろう。殊に、主人の牡丹が留守ときていれば…。
不意に声がかかり、わたしは彼へ目を戻した。
「え」
「何のおつもりです? 最初は単なる偶然と思いました。しかし、二度も重なれば不審です」
声の色の暗さに、冷えた身体がちょっと慄然となる。はっきりと訝った瞳を向けた。
「え」
たった二度(道場を含め、長子にとっては三度)会っただけで、不審がり忌避した目をされるほど、迷惑だったのか…。
ほんの興味に惹かれただけの話だ。海苔巻きを振る舞い、今日は無頼に絡まれるのを救いもした。彼にとって、何の損があるのか。
いつしかわたしは唇を噛んでいた。明らかにつむじを曲げ、なのに傷つき、泣き出しそうになってもいる。
「江戸藩邸よりの密偵でしょう。いや…、名乗りは不要。名乗れる任務でもありますまい」
失笑をもらし、こちらを冷たく見据える彼の言葉に、わたしはこぼれかけた涙を引っ込ませた。
江戸藩邸?
密偵?
言うまでもなく、江戸藩邸とは藩が御公儀の許しで置く江戸屋敷のこと。なぜここにその名が? 更にその密偵とは…?
「何のこと?」
問うわたしに答えを返さず、彼は手の布を、上がりがまちにぽんと投げ捨てた。
その仕草に、わたしは腰を上げ、居間を出た。土間の傍まで行く。そこで、松岡浪人がやや腰を落とし差した剣に手を伸ばす。
威嚇であろうが、まさか斬られては敵わない。わたしは慌てて、
「四谷の道場のことを覚えておいで? あなた、そこで立ち合いをなさったでしょう?」
剣の手は置いたままに、松岡浪人は、わたしの言葉に「四谷の道場?」と、記憶を探る風を見せた。
わたしは追って、それを見物していたのだと言った。敢えては、その立ち合った相手の係累だとは告げなかった。
あの場には、剣士を目当てに若い娘などが大勢いた。その中に紛らそうとしたのは、伊織の存在を出す必要を認めなかったのと、そして、ほんのりとした後ろ暗さを感じたからだろうか…。
松岡浪人に打ち負かされた彼が、思いの他恬淡とし、剣を「余技」の「道楽」と、負けた悔しさをあまり見せないのにわたしは腹を立てた。
その負かした相手に、不思議な興味を覚え、今ここにいることを、わたしはやはり、伊織に後ろめたく思うのだ。
合点がいったのか、「ああ」と目の前の彼が頷く。
「後は、これまで通り。ここの、…牡丹の近火見舞いに来て、彼女から火事の話を詳しく聞いて、ちょっと裏の長屋をのぞいてみたくなっただけ。そこに、偶然あなたが…」
そこで四谷の道場のことを思い出し、奇妙な縁に、不要になった海苔巻きを振舞うつもりになったのだ、と。
彼は納得したのか、そうでないのか。
しばし黙り込み、わたしをじろりと遠慮なく見回していた。胸の懐剣の他、まったく丸腰であることをようやく認め、腰の手を外した。
「して…、あなたは?」
当然の誰何に、わたしはちょっとためらい、瞳を伏せた。実際の身分や名を告げることがはばかられ、瞬時に答えが浮かばない。
左右に瞳を泳がせたわたしへ、
「いや、結構。いずれかご家中のお嬢様でしょう。あなたのようなお人が密偵である訳がない。…そういえば、あの新しい普請の四谷の道場には、見物の若い娘御が多かった」
彼はちょっと笑み、ふらりと首を振る。それで、追求を止めにしてくれた。
嘘をつかないで済んだことがありがたく、ふっと、ほんのり心が軽くなる。けれどもそれは、わたしのごまかしに、この彼が気づいてくれないでいるだけ。「さっきはおかしなことを申しました…」
そう前置きをし、彼が語った多くない身の上話は、わたしの胸を揺すり、ゆらりと波立たせせた。
「わたしは、人に敵を討たれる身なのです」
ある諍いで、子のある人を斬ってしまった。それで国許を出て、あちこちを流れ江戸へ…。出奔から、もう十余年にもなろうという。
「風聞で、国許からは、わたしが殺めた人の子息が、敵討ちに出たと聞きました」
それで、警戒心が強くなり、誰彼をも疑ってかかるようになってしまったのだ、と。
あ…。
驚きに、ちくんと胸を刺したはずの罪悪感の棘を、わたしはすっかり忘れてしまう。
国許から敵を探して追っ手が旅をするのなら、遠からず江戸に至るだろう。江戸に来れば、藩士が捜査に藩邸の力や伝を頼るのは常識だ。
そこで、彼が口にした「密偵」という言葉が、腑に落ちる。
敵に追われる身にとって、潜むにもってこいの人のあふれる江戸ではあるが、だから決して安全なのではない。
だから、わたしの登場を怪しみ、そのまま帰らず、ここまでついてきたのだろう。
何の言葉を返してよいかわからず、わたしは沈黙を溜めた後で、おかしなことを問うていた。
「あの…」と言葉を切り、彼が上がりがまちに捨てた布を拾う。手を伸ばし、ぽつぽつと鬢から頬へ伝うしずくを拭ってやる。
どうしてだろう、無造作にぬらしたままを見ているのが忍びなかったのだ。
驚いた視線が降ってくる。
それに構わず、わたしは瞳を自分の指に据え、
「…先の、海苔巻きの味はいかがでした?」
「え」
ややの間の後、返った声に、わたしはしんみりと胸を笑みでほころばせていた。
 
「旨かった、…まことに」
 
まるで今も口中に含んでいるかのような、実のある応えのおかしみに、わたしの頬が緩んだ。
 
雨の打つ音が、今もまだかしましい。



        

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