とおり雨
〜長子と伊織の普段着の?毎日〜
6
 
 
 
爺やがしとどにぬれ、牡丹の家の土間に飛び込んでくるまでの間に、わたしは、幾つかのことを松岡浪人より聞き出していた。
 
彼は先に、仇を討たれるため、国許より追われる身であるのだとぽつんと告げた。
『仇討ち』は、普通父君を殺された者が、殺した相手(敵)を討ち取る復讐のことだ。
もし、敵が報復を恐れて国を出奔なぞすれば、それをどこまでも追い目的を果たさねばならない…。藩により制度に細かな違いはあれ、長子の知る『仇討ち』とは、こうしたもの。
知識として知ってはいても、身の回りに縁遠い話で、まるで絵草紙の中の物語に似て、わたしにはふわふわと実感がわかない。
「どうしていらしたの?」
その渋りがちな口に問いを重ねれば…。
国を出た後、江戸の地を踏むまでは上方に潜んでいたこと、
「持参の路銀などすぐ消えてしまった。ただ腕には少々覚えがあったため、それで何とかしのいで…」
「それで?」
そして、あるとき下りの街道沿いで知った国の顔を見、急ぎ江戸を目指したこと、などを語ってくれた。
以前、伊織がこの彼のことを指して、旅の最中には「あちこちで、稼ぎに荒いことをして流して来たのだろう」などと、さらりと評していたのを思い出す。
彼を前にし、その言葉が決して違わないのだろうと、長子にもやんわり想像ができた。追われる窮した身であれば、稼ぎの手段など、意に介していられないのではないか…。
けれども、やはり、この彼を前にして、それらの過去を難じる気になどなれなかった。
問いの挙句、黙り込んでしまったわたしへ、彼が瞳を向け、薄く笑った。
「これで満足ですか?」
「え」
「国許の、まだ藩士であった頃は、固い縛りを感じることもあったが、あれは、紛れない安寧の如実な形だった…。すべてを失ってから、そういったことに気づくのは、皮肉なことです」
そう、と返しながら、彼の言葉が、長子の耳に長く尾を引いて残るのを感じていた。ひどく重く、そして大切なことを含んだもののように響いたのだ。
つなぎの言葉も探せず、返すべきそれも見つからない。
代わりに、やっと胸にその輪郭をおぼろに描き出せそうなこの人の存在が、わたしのほんの傍で露わになっていく。ちりちりと肌が日に焼かれるように、ほのかに痛むのだ。
それに、居心地の悪さと妙な不安に似た胸の昂ぶりを知って、尚のこといたたまれない。
爺や、まだかしら。
焦れながら、先は敢えて自ら遣いに出した爺やの戻りの遅いことを、ちょっとなじった。
そのとき、不意に、松岡浪人が口を開き、「この冬の終わりのことです…」と、前置きした。
相槌も打たずに、わたしは瞳だけでその先を促した。
「十余年も恐れて逃げ続けた相手を、わたしは斬った」
 
「え」
 
口の中にころころと碁石でも転がすように頬を歪め、「弱かった」と短くつなぎ、
「沈みの浅い腰の…、青眼に構えた太刀の先が、すすきの穂のように揺れていたのを、斬りました。…己は、あのような者に…」
そこでたしなみ、相手をはばかるようにやや首を振り、言葉を切った。
わたしは意外な話にあっけにとられ、彼の顔をまじまじと見つめた。
「仇を打つ打ち手にしても、敵を斬るまでは国にも帰れず、家督もお預けのままでは、武士の習いとはいえ、あまりに過酷、気の毒。若いはずが、精も根も尽きかけたような、疲れた侘しい佇まいでした…」
彼はそこでまた、ぷつんと言葉を終えてしまったが、わたしはその先を自分の胸の中で補っていた。
剣を交え斬り合うことで、打ち手にも追われる身にも、彼らのある時代のけりをつけたのだろう…。
切なく壮絶であるけれど、そこには一つの救いがあったはず。長子はそう思う。
そこで、疑問が浮かぶ。では、逃げることなど、追われる身に悩むことなどもうないではないか。
そうであるのに、彼はまだ江戸藩邸よりの密偵だのと、仇討ちに「追われる身」を引きずっているのだ。
「どうして? もう逃げも隠れもしなくてよいのでしょう?」
「そうくると思いました」
ははは、と今度ははっきりと笑う。
「まあ」
「長く、ひどい暮らしを過ごしてきました。習い性だと己でも恥じます。まあ、可能性は低いでしょうが。それに、わたしの風貌も、昔とは随分変わったことでしょうし」
彼は斬り返した相手の骸を、寺に委ね弔いを頼むに止めたという。そのため、連絡の途絶えた彼の者を捜す、別の追っ手が万が一来ないとも限らない。
「その旨を藩に申し出ては?」
また藩に戻ることが叶うやも……。
わたしの言葉に彼は首を振った。そもそも、彼が斬ったのは上司であるらしい。仇を討とうとしたその子息をも、また斬り返した…。
「もうそれを願うこともない。慣れれば浮き草めいたこの暮らしも気楽なものです」
そんなことをきっぱりと告げ、卑しさのない、どこか澄んだ笑みを浮かべる。
「あの…、あなたがわたしを見かけたという、四谷の真新しい道場で稼ぐ気になったのも、もはや仇を討たれる身ではないのだという、ささやかな自負であったのやもしれません…。これまでの自分を消し去りたいというような」
「ふうん…」
あきらめ、ではなく、この人は、今いるこの現実を自分で選んだのだ。
そのことに気づき、長子はやはり彼を見つめてしまう。
たとえばそれは…、
池にたゆたう数多の金魚・鯉の中、決まった柄しかその身に纏わないものばかり。その群れに外れ、珍妙な色彩をうろこに乗せ、ゆらゆら泳ぐものがある。
もし、そんな目を引く珍かな一匹を見つければ、わたしの目は「あ」とそれを追ってしまうだろう。面白く池をのぞき込み、または贔屓にし、餌を特に与えてやりたくなるかもしれない。
そんな心境に、もしかしたら似ているのかもしれない。
浪人とはいえ、立派な剣の腕を持つ殿方を、ひっそり金魚・鯉にたとえる内緒のおかしさに、わたしの唇に笑みが上る。
また、「旨い」と言っていた海苔巻きを詰めて持ってこようか…。
密かな企みに、胸がとんと跳ねる。
そこに、爺やがぬれねずみで飛び込んできた。
 
 
朱里大橋からほどなく伸び出す神社の境内のつつじが盛りで、美しいと口にしたのは、松岡浪人だった。
深川の繁華な町からほんのちょっと抜け出すと、それはある。
以前この辺りに詳しい牡丹が、時期には花見客があふれるのだと、噂していたことがあったような。
つつじなら、我が邸にもこんもりと見事な花をつけているのがたくさんある。義母上が好んだ花であったそうで、春爛漫にもなれば、それらは当たり前にまばゆく目に入ってきた。
けれども、彼の言葉に心が動いたのは、境内の露天もにぎやかな花見に繰り出した人々の、喧騒の華やぎを思えば。この彼が、その案内をしてくれるというのだから、嬉しくなる。
簡単な約束を交わし、牡丹の家を出た。駕籠を調達してきた爺やは、ぬれたせいか、しきりにくしゃみを繰り返した。
「大丈夫?」
蓑笠(牡丹の小女が出してくれた)を頭にのせ、「平気でございます」と言った終わりから、慌てて顔を背けくしゃみをする。
「鍛え方が、常人とは隔たっておりますから…」
と、またくしゃみだ。
忍びで鍛えた頑健な身体が身上の爺やのこの様子に、風邪を引かせたのか、と心配になる。
帰路、駕籠ののぞきから目をやれば、駕籠かきの若い衆の小走りに、確かな歩調で、けろりと爺やは付いてきた。
それにほっと心が緩んだ。長子の幼い頃から、気づけば、爺やはいつもこんな風にそばにいる。
この日の翌日も、爺やの具合に変わったところはないようで、安心した。
 
叔母様からお便りがあり、それには近く大奥に参上し、御台様のご機嫌を伺うから、とお誘いだった。大奥の御庭は、つつじがそれは豪華に咲き美麗で、眼福であるのだ、とある。
「眼福…」
わたしはお文に目を落としながら、大福を口に運んだ。舌にしっとりと溶ける餡を含んだ餅は、とても美味で、そしてこの榊の邸の物は、なぜか異常に伸びた。いつも、五寸ほども指で引っ張ったところで切れる。
庭へ開け放した障子戸から、子供らが遊んでいるのが知れる。ちょうどこんもりした山のように色とりどりの花をつけたつつじの陰に、杏がいた。
ふと、彼女は、ちょいとつつじの花を小さな指でむしり、それを唇に持っていく。ちゅっと蜜を吸う様子が見てとれた。
蜜はもうないだろうに、いつまでもそれをくわえている。その様が、小ちゃならっぱを吹いているようで愛らしい。
芋虫のように、その下に双子の尚と誓が転がっている。彼らの口にも花のらっぱを与えようとして、乳母にやんわりと制止させられている。
その一瞬くしゃんと悔しがる顔が、まことにかわゆい。伊織に似ているのだと合点し、ふとなぜか、鏡の自分にちょっと通うような気もする。その気持ちは嬉しく、また面映い。
あ。
敢えて、口にのぼぜることはない。
けれど今更に、わたしは確かに、杏という娘をもたらしてくれた伊織を、ありがたく思うのだ。
義母上は、いつかこう諭すようにおっしゃった。「儲けものとお思いなさいな。おなかを痛めず、娘が授かれる」と。
当時わたしは何を思ったのか。おとなしく聞き流しはしたが、面白くはなかったのだろう、だからよく記憶に留めてあるのだ。
けれども、それは、義母上自身の述懐でもあろう、とわかる。あのお方は、ご自身のおなかを痛めて嫡男の伊織を産んでいらっしゃらない…。
頬をふくらませ口に含んだなりの大福を、こくんと喉に押しやった。
時を置き、諸々は長子の胸に形を変え、まあるくつながり、収まっている。
光を受け、おかっぱの黒髪をふさふさと光らせた杏と目が合う。
「母上」
声に、盆の大福を、と手が伸びたが、やると乳母が渋い顔をする。夕餉の食に障り細るのだ。
今も唇に桃色の小ちゃならっぱをくわえた彼女を見つめ、己を、やはり果報者と思う。
 
その日、明けきらぬ内降った雨も、日が差す頃には止んだ。邸を出たのは日が高くなってからだ。
特に行き先は告げず、夕刻には戻るとのみ言い置いて、やはり爺やを一人連れ、深川に向かった。
爺やが手に提げる風呂敷包みは、土産の海苔巻きだ。松岡浪人をおとないに長屋へ向かうから、その際渡そうと持参したのだ。重は一人には多いだろうから、また近所の子供らに分けてもらえばいい。
暖かい日で、着く頃には額際がうっすらと汗ばんだ。
重を渡せば、彼は「かたじけない」と頭を下げつつも、嬉しげに受け取ってくれる。持ってきてよかったと思った。
海苔巻きを子供らに振舞った後で、つつじの境内へ足を向ける。
「今日は日和がいいから、人が多いでしょう」
「そうね」
と、爺やが、牡丹の家に借りた蓑笠を返しに礼に行くと言う。「すぐ、お後を参じます」と長屋を出たところで別れた。
とろとろと歩く。
「あの爺やさん、かなり使うのでしょう?」
剣客らしく、爺やの腕前が気になるのだろう。
「さあ」とわたしは首を傾げた。爺やが、腰の脇差よりも短い剣を抜き立ち合うのを、これまで見たことがない。そもそも、彼らの使う忍びの剣法は、武家のそれとは違う。
何より、父上が幼い頃より長子につけた、特別な護衛であるから、その腕前云々より、長子は深く信を置いている。
小半時もせず、朱里橋を渡った。
楽しげに人が行き交う。子供を連れたの、夫婦連れとわかるもの、一目で玄人といった装いの美しい女子を連れた、どこぞの旦那らしいのもある。
ふと、わたしたちはどういった取り合わせになるのだろう。そんなことを思い、ほんのり気まずくなる。後ろをうかがうが、爺やの姿はまだない。小女に茶でも馳走になっているかもしれない。
境内に足を入れれば、両脇からわっとつつじの群れが、美々しく妍を競う華やかな様が広がっていた。邸のそれとは違い、匂いもないのにその寄せ集まった花々の群れに、むせかえりそうになる。
長く続く境内にはずらりと露店が並び、客引きをしている。茶屋に、団子や、お面などのおもちゃなど、まことに様々。楊枝など、日用品を商う店もある。
松岡浪人は、長子に串に刺した飴を買って与えてくれた。
「ありがとう」
「こんなもので…」と、何やらつぶやくのを待たずに口に含んだわたしを、彼はおかしそうに見つめた。
人が多い。そのため、つかず離れず歩いた。
盛りと咲くつつじなど、申し訳程度にしか、人は見ていない。皆長子と同じように、露店や人々の様を見、その賑わいを楽しんでいるのだ。
「すりにご用心、すりにご用心」
町の衆か、警戒の呼び声をかけて歩いている。この人出では、紛れて袂に入れた財布を抜き取る輩もあろう。
と、隣りの彼にぶつかった者があった。ありふれた町人の姿をしていた。
「ご免なさいまし」
ぶつかった相手が浪人風のちょっとこわもての侍だ。恐縮したように腰を屈め詫びた。松岡浪人は返事もせずに、構わん、という風に手のひらを振った。ぶつかった男はそれに、急ぎ去っていく。
このとき、彼が、「ん?」とでもいう怪訝な顔をした。さっきの「すりにご用心」の警戒を受け、わたしは、
「まさか懐中を?」
「いや、ああいった連中は賢いですよ。すかんぴんは狙わないもの。金持ちの厚い財布しか…」
そう言いつつも、何が気になるのか袖を探っているのだ。ほどなく取り出した紙片にさっと目をやると、それをまた袖にしまった。長子がのぞき込む間もなかった。
「何?」
彼はそれに答えず、傍の茶屋に長子を伴った。朱の敷物を敷いた腰掛に掛けさせるや、
「申し訳ないが、ここでちょっと待っていて下さい」
「何?」
「いや、ちょっと用事を…」
すぐ戻ります、と言い置き、彼は人ごみに戻った。見る間にその背が消えるのを見送る。
何だろう? やはりすりに財布を狙われたのだろうか…。では、密かに見ていた紙片はどういう…?
不審なものの、茶屋に一人所在無く、飴で喉が渇いたのもあり茶をもらった。温いそれを半分も飲む頃、
「姫様、こちらへ」
いつ現れたのか、いっかな牡丹の家から戻って来ない爺やの声だ。爺やは店の女にちゃりんと小銭を渡し、わたしを促した。
「松岡殿がここで待てと…」
それには首を振るばかり。やんわりとわたしの手を引き、人ごみを抜けさせる。
「ちょっと…、どこに?」
怪しいが、爺やのなすこと。警戒する必要はない。それでもやはり訳がわからず、わたしは頬をふくらませ、その導きに従った。
本殿のある表の喧騒を逸れ、境内の裏手に来た。木立を抜ければ、こちらにも小さなお社が見えた。灯篭もある。
表があの賑わいのため、人出はほぼない。木陰にひんやりと風が心地よい。
ここに何が?
そう、爺やに改めて問おうとしたとき、やや苔むした石灯篭の傍に人の姿を見つめた。こちらの足音に、大小を差した着流しの男は、灯篭にもたせた青藤の背を上げた。
 
あ。
 
長子の唇から、問いが泡のように消えた。
 
それは、伊織だった。



        

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