とおり雨
~長子と伊織の普段着の?毎日~
7
 
 
 
どうして?
 
なぜ、この場に伊織がいるのだろう。
ここにきて、わたしは、爺やが牡丹の家に寄ると離れ、「すぐ後を」と言い置きながら、なかなか姿を見せなかった時間のことを思い出す。
あの間に爺やがしたことは、その用事だけではなかったのでは…。
でも、なぜ?
頭の中を不意の疑問でいっぱいにしている間に、伊織の姿は長子のほんの傍にあった。
彼は組んだ腕の、指の節を顎に当てながら、こちらを見、
「鳩が豆鉄砲食らったみたいな面だな」
そんなことを言う。
驚いたのだ。
まったく意図しない場で彼に会い、面食らうのは当然ではないか。その声音が不機嫌な色をしていたのも、深く探らずに、わたしはようやく、
「どうして?」
とのみ問うた。
その問いには、幾つかの意味があるだろう。彼がここに現れた手段と意味と、その目的…。
問いの答えのように、伊織は長子の後ろにいる爺やへか、ちらりと目をやる。その視線の流れが、長子にはわずかに不快だった。
知らぬ間に、爺やに無理を強いたのに違いない。
わたしは唇を噛み、頬をふくらませ、
「爺やを問い詰めたのでしょう。何のためにそんな…」
そこで伊織は、ちょっとだけ笑った。それでできた会話の切れに、爺やが声を挟んだ。「畏れながら…」。
「姫様、この爺やめが自ら、殿様に申し上げたのでございます」
「え」
わたしはその言葉に慌てて振り返り、爺やを見つめた。かしこまって俯く爺やを見、それからまた振り返って、伊織を見た。
そのときの彼はもう笑みを消していて、ややも硬い声で、
「お守りの爺やに姫は可愛いだろうが、どちらの命を聞くかといえば、俺だ。だから、ここへ案内させた」
「まあ」
爺やはわたしの輿入れに伴って、現在は榊の邸にいることが多い。けれど、代々の禄を食むのは、我が里の柚城のはず。
そもそも、長くわたしに直接仕える爺やが、その長子の命より、伊織のそれを重んずるのだと言うせりふが、憎たらしい。
続けて伊織は、わたしが「ある浪人者に執心している様子」であることを、爺やが告げにきたのだと言った。
「えらく心配していたぞ。許してやれ」
「し、執心だなんて…」
それでは、長子は誰か殿方に懸想でもしているかのようではないか。ひどい、となじりたい思いで、爺やに恨みを込めた目を送ってやる。ただ、誘われて、つつじを見に出かけただけ。やましさなどない。
伊織も伊織だ。
「違うのか?」
「まさか…」
ぶるぶると首を振って見せた。
そんな爺やのたわ言を真に受けて、忙しい身がこんな場にまで足を運ぶなんて。
悔しいやら、…おかしいやら。
馬鹿。
そう心で毒づいてやりながら、目の前にある伊織の姿に、やや気圧されるような後ろめたさがあるのだ。それがしっとりと身に張りついて、心地悪い。
罪などないのに。
長子は、悪くなどないのに。
「爺やめは、姫様が、以前の雨の日、あの浪人とお話になるご様子を、すべてうかがっておりました…」
え。
決して大きくない爺やの声は、なのにいつも途切れず耳に届いた。その声に驚き、わたしは爺やを凝視した。
「以前の雨の日」とは、強まった雨脚に、牡丹の家に雨宿りを請うた日に違いない。爺やはわたしの命で、駕籠を調達に出ていた。そして、あの家には、いっかな勝手から戻ってこない小女とあの松岡浪人がいた。
ほぼ、二人きりに出会った時間が、長くはなくとも少なくなくあったのは、事実だ。
そこで、駕籠屋から戻った爺やがやたらと雨にぬれ、くしゃみばかりしていたことに合点がいく。忍びに出自を持つ爺やらしいその細心は、今思えば当たり前かもしれない…。
わたしは、あの人と何をあのとき話したのだろう。
何を思い、何を感じていたのだろう…。
そこへ風に乗り、表の参道から祭りの囃子に似た、ひゅーいといった軽い調子の笛の音が飛んできた。
その音に、約束のあの茶店で待つわたしを探しているやもしれない松岡浪人の顔が、ふっと頭に浮かぶ。
あ。
瞬時、頬に冷たい熱が上り、わたしは意図せず両の指で頬を覆った。
あの雨の日の午後。わたしは彼の話を、一心といっていい興味を持って聞き、またぬれた彼が気になり放っておけず、手ずから布を取り、鬢から伝う頬のしずくをぬぐってやりなどした…。
それら記憶をめくるように、あの影ある面差しが、朴訥とした声が、するりと胸を過ぎっていくのだ。
 
あ。
 
その長子の内なる衝動は、胸のどこか奥を、柔な鳥の羽でもってちょんと撫でるように去っていく。くすぐったく、おもはゆい。
痛みはない。
あ、と言うほどの間。
瞬く間の歯がゆい波が過ぎれば、あふれるような羞恥が、同じ胸を刺し、きりきりと焼くのだ。
好ましかったのだ。ほんのりと、わずかに、かすかに。わたしのどこかが、あの人を慕わしかったはず……。
 
わたしは恋をし始めていた…?
 
珍しさや好奇心…、理由に意味はない。
けれど、想いの兆しが根なのであれば、嬉々と海苔巻きを携え出かけた、これまでの意味も、我ながらすとんと腑に落ちる。
爺やに、敢えて外出を秘させることはしなかったが、誰でもない伊織に打ち明けられたのを知り、動顚し憤った。わたしは心の内で、伊織に知られたくなかったのだ。
伊織は、長子の背の君だから。
いたたまれない恥じらいに、瞳を伏せ、わたしはうろたえ、しゃがみ込んでしまう。
「姫様」
気遣う爺やに応えができない。
声が出せなかった。
「あの男には…」
伊織の声は、随分と高いところから降りてきた。立ったまま、みっともなくうずくまるわたしを見下ろしているようだ。
ほしくもないが、いたわりもない。長子の心中などとうに知り、不快に気分をねじ曲げているのだろう。そして、伊織の「あの男」という言葉に、松岡浪人のことを既に把握しているのもうかがえる。
と、彼の足先が、わたしのすぐ傍の小石をもてあそぶんで蹴り転がした。
いつしか、自分でも知らず芽吹かせてしまっていた想いの種が、もし目に見えるのであれば、それは、このとき伊織が見せたごく簡単な動きに、馬鹿みたいにぐしゃりとつぶれ、ついえてしまうのだ。
それが、露わに確かめられたような気がした。
ふしだらな姦婦など、己とよほど遠い者だと、これまで意識にも留めなかった。けれども、その萌芽の種は、長子の身にもちゃんと備わっていたのだ…。
自分を愚かでふしだらな女子だと、強く恥じた。
「消えてもらう」
え。
その言葉に、わたしは伏せた顔を上げた。
伊織は詰まらなさそうに身をあちらに背け、風に乗って届く表の喧騒に気を取られてでもいるような様子だった。
まさか。
まさか、伊織は…。
わたしは、背後から身を受け止める爺やに助けられながら、立ち上がった。伊織の袖を取り、引いた。いつもよりそれは気安く触れない。気が咎めるからだ。
そんな自分が惨めでもあり、そして今更の罪悪感が胸に重い。
「斬るの?」
「気になるのか?」
「だって…」
「ものには、代価がある」
「長子のせいだもの。長子が勝手に…」
「はは、姫は斬れない。…あれこれもう枷があって、離縁も難しい」
え。
伊織の口からあっさりと出た「離縁」の言葉は、わたしを打ちのめした。
彼の言う「枷」とは、子らを指すのはわかった。そして、柚城の父上と彼は、婚儀に際して、何か政治的な密約を交わしてもいるはず。
それらがなければ、彼はわたしをふしだらな女子と切り捨てる気だったのだろうか…。
松岡浪人の身が案じられるその脇で、わたしは自分のしでかした事の大きさに、今更ながら愕然とし、震えていた。
恐ろしさにぽろぽろと涙をこぼし、そのにじむ瞳で伊織を見つめた。
「お願い…」
せめてできるのは、松岡浪人に、迷惑がかからないこと。彼の人は、長子が人妻であることすら承知していないのだ。必要もないと、何も明かさずにいた、わたしの罪だ。
「ねえ、斬るなんてしないで。…あの人は長子のことも、何にも知らないのだから」
「そうであっても、事実は変わらんだろう。運が悪い者は、どこにでもいる」
突き放すようにそう言い、「放せ」とぱちんと長子のつかむ袖の手を叩き落とした。
「安っぽく泣くな。みっともねえ」
初めての冷たい仕草と吐き捨てるような言葉に、払い落とされた手のやり場を失う。怒りを大きく上回る驚きの後で、言いようのない悲しみがあふれた。
さっきとは別の涙が頬を伝う。
それでも、幾ばくかの意地だ。伏せがちな瞳でわたしを見下ろす伊織のそれを、逸らさず見返した。
「松岡殿は、ひどく腕が立つことを、伊織だって知っているでしょう?」
ごく不快げに、彼がちっと舌打ちをした。
「なぜ、俺がわざわざ一人で出張る必要がある?」
失笑のような軽い笑みを混ぜ、彼が口にしたのは恐ろしいことだった。刺客を送り、必殺の殺陣を組めば事は易い、と。
「なにも、鬼や天狗じゃない。世過ぎの太刀と小ずるさがあるだけだ。知れている」
「ひどい…」
いまだ乾かずに瞳に残る涙の向こうで、伊織が遠くにじんだ。
彼はしばし黙ってわたしを見下ろし、ふと、唇の端を曲げる。皮肉にも、やや呆れたようにもとれた。
 
「誰の妻だと思っていた?」
 
あ…。
伊織は、言葉を発せずにいるわたしから、見飽きたように、ついっと視線を逸らす。
「姫の周囲には、常に十人から人がいる。爺やの他にだ」
「え」
わたしは、爺やを振り返る。小さな頷きが返ってくるから、爺やにはとうに承知のことであったらしい。
「いつから?」
「いつからもない。初めからだ。俺が、姫が出歩くのを、野放図に許していたとでも?」
「そんなこと、一度も…」
言ったことがないくせに、と続く言葉は波立つ気持ちに削がれ、途切れて消えた。
唇を噛んでうつむく。
その間に、わたしは松岡浪人の先ほどの仕草を思い出した。懐中から紙片を取り出し、それを目にしたときから、彼は急用を思い立ったと、長子を残して去っていたのだ。
あの後すぐに、爺やが現れ、わたしをここへ導いた。今考えれば、あの紙片すら、伊織が仕込ませたものに思えてくる。
だとすれば、彼はどこへ…?
にわかに、恐怖と不安が胸に押し寄せる。
「まさか既に斬られて…?」と、声にならない問いを込め、伊織をうかがえば、いつかの不思議な手妻のように、彼は長子の問いを察してしまう。
短く首を振り、
「救ってやりたければ、このまま帰れ」
「本当に、それで斬らない? ねえ…」
「くどい」
伊織は問いかけを素気無く遮り、既に背を向ける。長子が、離せずその背を見つめると、ふと、彼は片手をすっと肩ほどに挙げるのだ。
どこに潜んでいたのか。
瞬くほどの間で、わらわらと人が集い、彼の足元に跪いて控える。数はきっかり十人あった。
下士であろうか。いずれも大小を帯びているが、見たこともない者たちだった。
展開した光景にあっけに取られ、やや放心する中、伊織が彼らに命じた声にはっとなる。
「連れて行け。許しがあるまで外へ出すな」
誰のことを指しているかなど、この場にいれば、身に痛いほど知れる。
そのまま、彼は長子へ一瞥も与えず、背を翻すこともなく、足早に遠のいて去っていくのだ。
 
もう、見えない。



        

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