とおり雨
〜長子と伊織の普段着の?毎日〜
8
 
 
 
ちょっと時間の流れがわからなかった。参道からの明るいにぎやかさは、もう耳に届かない。
わたしは呆然となったまま、爺やに支えられ、伊織の配下の者たちの否やを言わせぬ圧力で、駕籠に押し込められた。
またこの駕籠が、邸から用意させたいかめしい紋入りの大仰な女駕籠だ。こんなものに乗り、十人もの家人が付従えば、誰の目にもちょっとした行列に似て、仰々しい。
薄暗い駕籠の中で、揺れに身を任せながら、わたしは伊織が突きつけた言葉の数々を反芻していた。その痛い一つ一つは胸を刺し、更に目の前を暗くする。
折りに、爺やが物見の窓から声をかける。その声は、伊織への告げ口をはばかってか、遠慮がちに響いた。
「姫様、おかげんはお悪くございませぬか?」
口の中に土の塊でも入れられたよう。重くて言葉にならない。首を振り、返事に代えた。見えぬかもしれないのに、構わない。
同じ口中に、串の甘い飴を転がしていたのは、ほんの半刻も前ではないのに…。
自分の行いを、軽率であったと、今は恥じることができる。せめてもの自制心からか、松岡浪人には、身分も名も告げずにいた。だからといって、長子がしたことには違いがない。
妻の身で、知らずふらふらと他の殿方に好意を抱き、束の間の忍び逢いめいた行いに、心を弾ませていたのだ…。
己の軽はずみを振り返れば、羞恥に首筋から熱がのぼる。その堪らない無様を、しばし目をぎゅっと閉じてやり過ごした。
やがて、瞳を開いたとき、自分を包む同じ暗がりが、以前よりやや薄らいで感じられる。家人の足音と駕籠かきの声、そして物見の窓から外の光が筋になり、差し込んできた。
当たり前の出来事。それら当たり前の事ごとが、いつもと違った長子の心をさらりと一撫ぜしていく。
ふと、気づいたことに、はっとなる。
わたしは、武家の妻の身にあるまじき行いを、恥じはした。けれど、悔いていないのだ。
 
「あ」
 
吐息に混じった声がもれた。驚きと、心からあふれた何か。吐き出してしまいたいもの。
長く息を吐く。耳聡い爺やが、こちらの気配に窓から静かに声をかけた。
「姫様、いかがなされました?」
その問いに、わたしは物見の窓に顔を近づけ、駕籠を止めるよう命じた。怪訝がる爺やが更に問うのを許さず、
「松岡殿の長屋に寄って頂戴」
「なりませぬ、姫様。殿様のこれ以上のご不興を買われては…」
「何もしないわ。お願い」
何がしたいのか、自分でもわからなかった。ただ、薄暗い中視界を閉ざされ、このまま邸に帰り着いてしまうことが、もどかしく、耐え難いのだ。
爺やが駕籠を止めさせた。
それに、ほっと心のどこかが、ちょっとほころんだ。「どちらの命を聞くかといえば、俺だ」と偉そうにぶった伊織の厳命を違え、この期で長子に従う爺やが嬉しいのかもしれない。
家人の頭らしいのが、窓の外に控えるのが知れた。硬い声で、爺やと話すのが聞こえる。
爺やの言葉に、「殿より直々の命が…」と、粘っこく抗う家人に焦れ、わたしは常ない行動に出た。帯に差した懐剣を抜き、そのまま窓の外へややかざして見せる。
「くどく止めるのなら、髪を切るわ」
切る気などない。
けれど、効果は劇的だった。はっと息をのむ気配ののち、「多々良殿(爺やの姓)の他それがしと、もう一人がお供を仕り…」と承諾が出た。
「けれども、あまりお時間は…」
「ええ、ほんの少しでいいの」
もし、この彼がごね、わたしが苛立ち、懐剣で髪を切ったのなら、伊織はどんな顔をするだろう。そんなことをふと思った。
彼が、宵に好んで手に巻き絡めた長子の髪が、結いもできない童のようになったら……。
その想像は、ほろ苦く胸を揺すぶった。
そして、別な殿方に惹かれ、それを恥じこそすれ、悔いていないわたしを、伊織はどう思うのだろうか。
 
ものものしい駕籠が、牡丹の家の前に止まった。わたしはそこで降り、爺やと家人二人を供に、路地を奥に入った。
湿った土が踏み固められた匂いに、ぬれた衣をほしたもの、それに何かを炊いだような香ばしいものが混じる。普段、おそらく長子が嗅ぐことのない生活の香りだ。
初めてこの場に足を踏み入れたときにも、またこれと似た匂いがしたはず。自分の属する世界との違和感ともの珍しさに、わたしはちょっとたじろいだのち、好奇心に胸が騒いだのを覚えている。
もしかしたら、何もかも、生々しいこの匂いを感じたことが、始まりなのかもしれない。好ましいとか不快とかではなく、それは直接に心に触れてくるから。
居並ぶ障子戸の端、『手ならない 読みかき』と崩れた文字で記されたあの人の家は、その扉が開け放されていた。
長子の歩が進むのを、まず家人が抑え、先にその家をのぞきに行った。軽く中をうかがい、すぐこちらへきびすを返した。
「おりません」
と首を振る。わたしは爺やを見、参道で彼の袖に紙片を仕込んだ者があった、あれが何か知っているのかを問う。
爺やは静かな声で、伊織の命で人を使い、彼より渡された紙片を袖に仕込ませた、と確かに言った。
「内容は存じませぬ」
伊織は何を紙片に記したのだろう。
あのとき、紙片を目にした松岡浪人は、「用事が…」と急に慌てたように姿を消した。読んだ者を慌てさせる、何かが記されていたはず…。
今は知る由もない。
ここへ無理にでも来たのは、松岡浪人に会いたかったというより、この場に来たかったと言った方が、きっと正しい。
しばらく、障子戸の『手ならい 読みかき』の文字を目で追い、ぼんやりとしていた。
長屋の住人が、こちらを遠巻きに見ているのは気づいていた。界隈に珍しい武家が、彼らには奇異なのだろう。
そのとき、「もし…」と声がかかった。顔を向ければ、いつかの海苔巻きの重を返してくれた女だった。
「松岡の旦那なら、お嬢様…」
その女の声を、家人が低く遮った。
「無礼な、こちらのお方はお嬢様などではない」
余計な制止に、女が萎縮し、身をちぢ込ませてしまった。一番聞きたいことを、この女は教えてくれようとしていたのではないか。
「黙りなさい」
わたしは家人を叱り、女を促した。
「あの…、旦那は、急いで帰ってきたと思ったら、旅支度して、すぐに飛び出していきなすったんで…。「世話になったな」とだけ…、どこへ行きなすったのかも…」
え。
絶句するわたしの前で、女はやや愚痴っぽく続けた。
「あんなに急に出て行くなんて、やっぱり、厄介事でも抱えてたんでしょうかねえ。頼りになる、いい手習いの先生だったのに…」
それでは、ここも出てしまったのか。
長子と別れた後で、彼に何かが起こったのは間違いない。逃げるようにではなく、正しく、彼は逃げ出したのだ。
あまりの事態に、膝から力が抜けた。
女は、この日長子が持参した海苔巻きの重を、また預かって洗ってあるのだと告げた。それに返事をする気にもなれず、わたしはゆらりと首を振った。重など、どうだっていい。
爺やに促され、身を通りの方へ帰したとき、再び、女の声が背に聞こえた。
「人捜しをなすってたから、そのお人が見つかりでもしたんでしょうかねえ…」
そのせりふが、ふと気になりはしたが、目の前に現れた意外な人の姿に、わたしはもう振り返ることはなかった。
路地をゆるい足取りでこちらにやってくるのは、牡丹だった。目が合えば、ほろっと花がほころぶような笑顔になる。
「やっぱり。うちの前にお駕籠が止まったから、てっきりそうじゃないかと」
わたしは黙ったまま、彼女の前に立ち、何となく目を伏せ、縞の袖をつまんだ。確か、随分前のいつかの日も、彼女が左褄を取る袖を、こうやってつまんだ気がする。
「帰っていたの?」
牡丹は、火事の療養にと、しばらく恋人の俊輔殿の別宅に移っていたはず。もっとも火事の怪我など、本当に些細なものだったのだけれど。
「ええ、長くご厄介になるのもご迷惑ですし。ご立派なところにおりますと、ほら、育ちでございますねえ、何よりあたしが窮屈なも…」
朗らかな牡丹の声が、と、しぼむように途切れた。わたしの様子がおかしいと気づいたようだ。背後の爺やへ視線を向ける気配がする。
ぱちぱちと瞬きをし、牡丹がわたしの顔をのぞくようにうかがう。
「どうか、なさいました?」
問いに、首を横のように縦のように振る。胸の堰が切れた。わたしは彼女の袖をつかんだまま、泣き出してしまった。
「まあ…、一体…」
「どうしよう」
悲しいのではない。困惑していた。
重さも深さも自覚せず、わたしには何もかも、ほんの気まぐれの範疇だった。
己の行いの真の意味に気づいたのが、ほんの先のこと。それも、伊織に心の内を鷲づかみに引き出され、目の前に晒されたに等しい。「離縁」という信じ難い彼の言葉も耳にした。
そして、今、松岡浪人もいずこかへ逃げ、姿を消してしまった…。
さまざまな渦が長子を取り巻き、その流れの急に、わたしはひどく戸惑っているのだ。
 
長子のせい。
みんな長子のせい。
 
「どうしよう」
唇からこぼれるのは、途方に暮れた泣き言ばかり。
「お姫様…」
わたしは涙声で折りにしゃくり上げながら、いきさつを端折りつつ牡丹に打ち明けた。言葉にして吐き出すことで、楽になりたかったのかもしれない。
そして、愚かな長子を知ってもらうのなら、牡丹がいい。
彼女は話の内容に驚いたのか、「まあ」と絶句し、しばし口をつぐんだ。言った自分ですら、馬鹿な女子だと思う。
空いた袖を長子の顔にあてがい、涙をぬぐってくれながら、ややもした後で、牡丹はほんのりと唇に笑みを浮かべた。
「お姫様は、ちっともおかしかありませんよ」
傍の供をはばかって声を潜め、耳打ちする。
「そりゃ、当たり前のことでございますよ。女子ですもの。誰にだってあること。あたしにだってありますよ」
「え」
「鳶のお兄さんや、火消しの威勢のいいのなんか、あの男ぶりを眺めるだけで、こっちの胸がときめきますもの。頬がぽっとして」
「まあ」
「それと同じこと、でございましょう」
「でも、長子は…」
牡丹の慰めのたとえは嬉しいが、何より彼女と違うのは、わたしは行動に出てしまったこと。会いたいと望み、その場に臨んだ。やはり、それは罪なのではないか。
やはり牡丹は笑んで、やんわり首を振り、
「それだけでございましょう? 他には何もございませんでしょう?」
「まさか」
わたしは首を強く振った。それ以上の何を考えたことがあろう。
「やっぱり。お姫様らしい」
なら、と彼女はわたしのまなじりに残る涙を袖の先で吸い上げ、ぽんと優しく抑えた。
「なら、同じこと。よろしいじゃあございませんか。お姫様には、ちゃんと正しいご分別がおありなのですもの。ほんのちょっとの脇見くらい、あの榊の殿様なら、きっとお目こぼし下さいますわよ。ふくれ上がった焼きもちがしぼんだ頃には」
「だって、伊織は離縁なんて…」
わたしはそこで唇を噛み、牡丹を恨めしげに見つめた。彼女はあの伊織を目にしていないから、そう軽く言うのだ。
思い出すのも目をつむりたくなるほど、あの場の彼は冷酷だった。まるで、悪しき罪人でも眺めるような目をしていたのだ。仕草も何もかもが、長子を突き放して見えた。
「いつぞやも、あのお方は、そんな素振りをなさったのじゃあありませんでしたっけ。お灸を据えてやるおつもりなんじゃございません? お姫様がいたずらなさったときの、殿様のとっておきのお癖なんですよ、きっと」
「癖?」
牡丹にかかれば、伊織の冷たい拒絶も「離縁」も、彼の行儀の悪い寝煙草と一緒の癖になってしまう。
励ましが多分に混じるだろう彼女の明るい応えに、涙は乾き、少しだけ頬が緩んだ。
「ありがとう」
礼を言い、わたしはようやく彼女の袖を離した。
「お姫様のお気持ちは、少しもお変わりじゃありませんよ。ただ、ほんの少し揺れただけ。そこを、さあっと通り雨に降られたようなもの」
牡丹のたとえに、ふと、後ろの長屋を振り返る。あの長屋の湿った土の匂いと、履物がそれを踏んだときの、ちょっと怯むような違和感を思い出すのだ。
「松岡殿は、いなくなってしまったわ…」
それをつぶやくとき、胸の奥が湿った痛みを感じた。切なさだったと、遅れて気づく。
「もし…」
と、その先の何か言葉を発しかけ、そのままに唇が閉じた。
牡丹の指先が、わたしのそれをきゅっと包んだ。
 
「そんなお人もありましょう、ここは江戸ですから」



        

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