硝子の指先
きらきらの雪、さらさらの時(1
 
 
 
何度目の冬になるのだろう。
 
 
 
フロントガラス越しにハザードランプがちかちか光るのが見えた。路肩に寄せ停車しているそのブルーの車には、見覚えがある。
僕はすぐ後ろに車を止め、リアシートに放ってあるスコップを手に車外に出た。途端に、頭や顔に容赦なく雪がまとわりつく。本格的に降り出したようだ。
固まった雪の轍に動かなくなったタイヤを相手に、プラスチックのスコップで格闘しているのは、やっぱり彼女だった。零度近い気温に、馬鹿らしいほどの軽装だ。
「手鞠、君には無理だ」
「葵…」
振り返った彼女は、僕にぼんやりとした視線を向けた。
黙って彼女の髪や肩の雪を払い、自分のジャケットを脱ぎ、羽織らせてやる。運転席に入るように顎で示せば、彼女はおとなしく車に戻った。
僕がタイヤの周囲の雪をかきやり、車のドアをノックすると、手鞠はうなずいてアクセルを踏んだ。きゅるきゅるとタイヤが雪を噛む音を立て、車体がゆっくりと前に動き出す。
運転席の窓が開き、彼女が顔を出した。羽織ったままのジャケットを返そうとする。
僕は首を振り、
「着ていたらいい。僕はかまわないから」
「そう…、じゃあ、ちょっと借りるわ。後でお店に寄って。おいしいダージリンを淹れるから」
彼女はそう言い、僕がうなずくのを待ち、するりと窓を下ろした。ややぎこちなく揺れながら、車が遠ざかっていく。
僕はスコップを助手席に放り込み、車に乗り込んだ。社内の温度に、髪の雪がしっとりと溶け出した。しずくの落ちる前髪をかき上げ、前にも同じようなことがあったのを思い出しておかしくなった。
やはり、馬鹿みたいに薄着をして震えながら、彼女はちょっとぼんやりとした瞳をしていた。その白い頬とほっそりとした頼りなげなおとがいに、僕は、ふと雪うさぎを連想していた……。
 
 
手鞠は、ここ蓼科の別荘地に紅茶の専門店を開いて四年目になる。
幾種類もの銀の缶から迷わず茶葉をポットにすくい入れ、熱湯を注ぐ。彼女のその仕草は、流れるように、ひどくしなやかだ。数分待って、広口の薄手のカップに注がれた紅茶は、確かにうまい。
彼女の店には、僕ら別荘族の常連客の他、紅茶好きな観光客が遠方からも訪れていたりする。
くすんだベージュのレンガ建ての『Orange pecoe』の駐車場には、数台の車が見えた。雪をかぶったRV車の隣りに、無造作に停めた彼女の街乗りのクーペがあった。
こっくりとした色合いになってきたパイン材のカウンター席には、長野市内で雑貨店を経営する内藤夫妻。他、ボックス席に、旅行客らしい若いカップルの姿がある。
「葵先生、外はどうです?」
人懐こい笑みを浮かべて内藤さんが話しかけてきた。二人は、この店がオープンしてすぐの頃からの常連だ。親しみのある人たちで、手鞠など「パパ」、「ママ」と呼びなついている。また、それがおかしくない年配でもある。
「ああ、強くなってきましたね」
「わたしも途中でタイヤが動かなくなって、葵に助けてもらったの。ねえ」
カウンターの手鞠が、僕の前にティーカップを置いた。それがダージリンなのかは、飲んでも僕にはわからない。
煙草に火をつけ、片隅の新聞を手に取る。誰かの紅茶じみの付いたそれを広げ、適当に目で追った。内藤夫妻と株の話や僕の新刊の話などをして、それに時折手鞠が加わる。
窓を叩く雪の音が激しくなった。店内のまきストーブの、ぱちりと火のはぜる音がする。
ボックス席の客が帰り、内藤夫妻も天候を気にして帰って行った。
新聞をたたんで戻し、カップに二杯目の紅茶を注いでくれた手鞠に、日中どこへ行っていたのかをたずねた。この店は、彼女が一人で切り回している。留守にすれば、店を閉めなくてはならない。
「中将さんのところ。忙しいから、しばらく出られないらしいの。それで、いつもの紅茶を届けてほしいって頼まれて」
「言ってくれれば送るよ」
そこで、手鞠はふふっと笑う。小首を傾げるから、肩に乗った黒髪がさらりと前にこぼれた。
「彼女ねえ、ぼやいてたな、「最近葵はつれない」って。これまでの密な関係を思えば、随分情のないない態度なのじゃないか、なんて」
「これまでの密な関係を思えば」など、まるで深い仲にでもなっていたかのような言われようだ。
中将の言うことには、いつもちょっと、すぐ二の句が継げない。
彼女は、僕の書くミステリーのファンで、ファンクラブを立ち上げてくれている。ちなみに、またいとこにあたるし、赤ん坊の頃からの幼馴染でもある。
かなり年上の夫君に先立たれ、未亡人になったのは五年前だ。現在は、その彼の遺した観光旅館を整理し、会員制の高級旅館に転向させ、見事軌道に乗せている。なかなかのキャリアウーマンだ。僕と同じ年だから、三十二歳になったはず…。
五つ年下になる手鞠とは親友の間柄で、僕は中将を通じて彼女と知り合ったのだ。
「あなたたちって、お似合いなのにね」
中将とは、幼稚園から小中高と同じで、大学で辛くも別れたが、親戚ということもあり、何かとよくかち合ってきた。彼女とどうかなれば、といった勝手な周囲の話は、ある時期よく耳にしたが、互いにそんな気にもならず、いつしか薄らいで、もうめったに耳にしない。
「人類が僕と中将だけになって、どうしても彼女が子孫を残したい気持ちになったら、可能性はあるよ」
手鞠はまた笑い、
「中将さんも似たようなことを言っていたわ。「宇宙ステーションに葵と二人きりで、更に地球が核戦争で消滅してしまった状況なら、改めて考えたい」って。たとえ方が、葵より壮大ね」
「…どうして、僕がつれないんだって?」
「ファンクラブに協力的じゃないんだって。賞をもらって「いい気になっている」のじゃないか、って」
やっぱり二の句が継げず、僕は新しい煙草に火をつけた。
大体、中将の考えつくアイディアが、僕にはついていけない。それでも、これまでかなり協力したつもりだ。彼女の開くファンの集いや、ミステリー談義、食事会やワインの会…。常識的なもの(そうでないものは、忙しいと断った)には参加して、時間を割いてきた。
それというのも、以前中将から運用を頼まれた株を、忙しさにかまけて放っておいて、ほとんどすってしまったという弱みがあるからだ。
穴埋めできない金額ではなかったので、フォローするつもりでいたところ、「葵とわたくしの仲じゃない。水臭いわ」などとかわすから、贈与の絡みが面倒で、親戚の気安さで甘えてしまっていた。
まったく様にならない話で、手鞠には言っていない。
「『葵先生と巡る名作ミステリーの旅』なんて、企画中だって」
「はいはい、前向きに考えておくよ」
きっとその頃には、僕は息をつけないほど忙しくしているのだろう。
「晩ごはん、食べていかない? ビーフシチュウを煮込んでいるの」
手鞠がこちらに背中を向け、カウンターの片づけを始めた。六時を回り、もう閉店だ。
僕は、彼女と一緒に夕飯をとることがよくあって、そんなときは店の片づけを手伝った。小柄な彼女が届かないところに物をしまうのを代わりにやったり、ボックス席の椅子をテーブルにあげたり、表にクローズの札をかけたり…。
外はすっかり雪景色で、朝の様子とはすっかり違ってしまった。もう積もった雪が、暗がりに白く浮かび上がっている。
手鞠へ、「車をいいかげん変えた方がいい」と、ふと口に出しそうになった。僕は、これまで何度もこの言葉を口にしかけ、それを声にせず、飲み込んできた。
返ってくる彼女の声が、わかるような気がするからだ。
 
「そうね、でもあれは、馨の車だから…」と。
 
馨とは、手鞠が亡くした夫の名だ。この店を一緒に始めたその彼を、彼女は四年前に事故で亡くしている。スリランカへ商用に行った際の出来事だった、と。その説明を、僕は手鞠本人から、また中将からも、同じ程度の濃さで耳にしている。
「ディンブラ」。彼が買い付けるはずだった紅茶の名だ。ついでのように彼女が教えてくれた。そんなこともよく覚えている。
 
「でもあれは、馨の車だから…」。
 
頭の中の彼女の声にうんざりとなり、やはりまた、言葉を飲み込んでしまうのだ。
手鞠は、やや隅に据えられた薪ストーブに、指先をかざしていた。絞った明かりに、彼女の横顔が柔らかく照らされている。眠気が差すのか、小さな可愛いあくびをもらした。
その背は無防備なようで、ちょっと侵し難い。そんなことを思うのは、魅かれている弱みなのかもしれない。
「手鞠」
軽い咳払いで気まずさを破り、僕は、彼女が火にかざす冷えた指を、自分の手のひらに包んだ。





        

 
『きらきらの雪、さらさらの時」ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、大変励みになります。