記憶の眠り
 
きらきらの雪、さらさらの時(10
 
 
 
昼前なのに、どんよりと曇った暗い空。
降り出しそうな空の深いグレーが、似つかわしい気分になっていく。
雪をかぶった木立を抜けて、たどり着いたのは、表を鉄の柵が閉じた古びた石造りの建物だった。
「元は、修道院だったらしい」
やっと口を開いた如月さんが、ぽつりと教えてくれた。
うなずける雰囲気ではある。
門を抜け、駐車場に車が止まる。車を降りた彼が、リアシートから花束を取り出した。ここまで、静まった車内には、むせるような強い花の匂いがしていた。
わたしも降りて、コートを着込んだ。
「手鞠さんはここで待っていてくれてもいい」
「行くわ。心細いのでしょう?」
「確かにね」
そこだけは新しいガラスの扉を押し、中に入る。つんとする消毒臭。どこからか、子供の泣き声のような音がする。
受付で用件を言い、目的の場所は別館にあると教わった。彼の後に付いて、歩く。外からはわからなかったけれど、ちょうどロの字のような形をした建物で、右手に雪に埋もれた中庭を見ながら、ぐるりとリノリウムの廊下をめぐる。
ぎしぎしと鳴る、取って付けたような渡り廊下の向こうに、礼拝堂のような部屋があった。その扉を前に、この場所を説明した、彼の重い言葉が甦った。
『その施設は重い障害をもった子供たちの特別な施設なんだ。親元では養育の難しい子供たちが、入っている。入れられている、と言うべきか……』
如月さんが扉を開けた。
案外広かった。やわらかいオレンジじみた光が満ちている。中央の祭壇にはたくさんの花が飾られていた。痛ましいほどの小さな棺の周囲を、ろうそくの火が取り囲んでいる。
彼はためらいもせず棺に近づいた。膝をついてのぞき込んで、しばらく動かなかった。
わたしは動くことすらはばかられ、入り口付近に立ち、短い儀式が終わるのを、ただ眺めた。
 
「送ろう」
促され、車に乗った。
如月さんが助手席のヘッドレストに手を掛け、後ろを見ながら大きく車をバックさせた。
車の向きが変わる。なぜか、そこで前に進まず、止まった。
不意に、彼の腕がわたしを引き寄せた。
慌てて身をよじる。
「止めて」
突然のことに抗いながら、気持ちは落ち着いていた。この行為が、何かに似ているから? 涙をぬぐうとき、ポケットのハンカチを探ることに。または、強い風を受けて、目の前を手で覆うことに…。
「頼むから、少しこのままでいて。何もしないから」
その腕の力は強く、身じろぎもできず、じいっと息をひそめるように堪えた。
ちょうどわたしの肩に置いた彼の額から、何がしかの重さが伝わってくるように感じた。
これまでの悔いと呵責…。押し殺して吐き出される吐息に、その堪らない気持ちの切なさが、触れる肩から届くのだ。
変わらずに慈しんだ人の愛情と、失うことで大切さに気づいた人の愛情。その二つがあるとして、同じく喪った場合、どちらがより、酷なのか…。
そんな問いかけが心に浮かび、それを自分で嘲笑って消した。馬鹿げている。
 
ましてや、優劣など……、あるのだろうか?
 
空が割れるように雷が響く。ばちばちと硬い雪が、車体を激しく叩く音。
「悲しいのでしょう?」
「……罪悪感でいっぱいだった。申し訳なくて、可哀そうで…。でも…、疎ましく思う気持ちもあった。…逝ってくれて、ほっとしている部分もある」
「でも……、愛情もあったでしょう?」
「愛情? どうだろう、わからない……」
「蓼科にわざわざクリニックを造ったのは、あの子のためでしょう?」
「少しでも、そばにいてやりたかったんだ。何もできないから…」
「それは、きっと愛情よ」
「だったら、いいね」
如月さんはそこで腕を緩め、「ありがとう」と言った。そして、何の意味か、軽く頬にキスをした。
何も、しないって言ったのに。油断も隙も……。
「これくらいいいだろう? 握手みたいなもの」
照れ隠しもあるだろう。その悪びれない口調に、ちょっと笑みも出る。上辺であれ、この切返しの速さは、こちらの気持ちを軽くしてくれた。
 
「葵には、謝ったの?」
「あいつが許すと思う?」
「……彼女には、それ以来会っていないの?」
「一度会った、出産の後に。でも、僕がわからないようだった。白水だと思っているようだった。頻りに詫びるんだ、『ごめんなさい、許して』って。取り乱して、泣いていた。僕の顔がわからないくらい錯乱しているのは、彼女にとって幸いだった。僕のことなど、わからない方がいい」
 
見慣れた『Orange pecoe』の看板が見えた。
店の前で如月さんが車を止めた。
「今日はありがとう。何かお礼がしたい」
「じゃあ、うちの常連になってくれたら嬉しい」
「それなら、簡単だ」
車を降りて、彼を見送った。シルバーの車体が遠くなる。
衝動的に、彼に付き添ったけれど、間違ってはいなかったと思う。
少しでも、支えになったろうか?
これ以上は、彼の問題だけど。
「若奥様!」
振り返ると、苑田君が立っていた。ワイシャツを腕までまくって、ネクタイは、シャツの間にねじ込んで。掃除でもしてくれていたみたい。
随分待たせたので謝ると、
「そんなことではございません! 今のお方は、一体……?!」
「うちの常連さんになってくれる人よ」
「まさか、諸星とかおっしゃるお方では?」
なぜ、苑田君が如月さんを知っているのだろう。しかも、葵しか呼ばない旧姓の『諸星』という名で。
ここに至り、頭の中でいろいろとつながっていく。
急に、軽井沢行きを提案してきた苑田君。仲のいい義妹も来るというのでうなずいたけど。葵が京都の実家に帰っているときと重なっているのは、偶然ではないのだ。きっと葵は、わたしを如月さんから遠ざけるつもりだったのだ。
ここしばらく、心にかかっていたことが消えて、ずうっと停滞気味だった葵との仲が、急に進展して……。
うっかりあの優しい笑顔に騙された。
『そう、軽井沢? 義妹さんに会いに? いいね。行ってきたらいい』
軽井沢からの帰りには、迎えに行こうか、とまでさらりと言った。
葵に会えないのなら、蓼科を離れるのもいいかも…、彼の言葉の後には、そんな気持ちになった。
いつしか彼が胸に宿って、やんわりとしたあの誘導にも気づかなかったのだ…。
わたしが気づかぬ間に、この苑田君もあっさり手なずけていたはず。葵の前に出ると、変に畏まってしまう彼の癖を利用して。
「どうでもいいから、お塩を持って来て」
「塩?」
「早く!」
「は、はい?!」
ばたばたと苑田君が店の中に戻った。
その背をちょっと目で追い、ほろ苦く、ちらりと思う。彼は、葵のどこかに馨を見ているのかもしれない。系統は違うといえ、馨も特別な出自を持っていたから。
生い立ちは、その人の面差しや雰囲気に少なからず影響する。これは学生時代の葵を指し、如月さんも言っていたことだ。そこに、堪らなく嫉妬してしまったことを、彼は露わに話していた。
まとう空気や気配に、どことなくにじむ何か。
気づけば、ちょっと雰囲気の似た人を好きになっている。顔も好みも、そのスタイルも、ばらばらなのに。けれど、恋のいりくちは、きっと馨の持っていた、ある種の空気感だろうから。
店のカウンター内で、苑田君が塩の入った容器を慌てて探すのが、音で伝わる。何かを床に落とす派手な音がして、びっくりした。
「冷蔵庫前の棚の二段目にない?」
声をかけながら思った。
彼は、葵の中のわずかな馨の影に、何を思うのだろう…。
決して問わない問いに、ちくんと胸の奥が痛んだ。





        


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