焦りは禁物
きらきらの雪、さらさらの時(11
 
 
 
ウイスキーソーダーのグラスが唇に触れてすぐ、胸の携帯が鳴った。
シャツのポケットから取り出すと、左右人に囲まれた母へ視線を向けた。話に集中しているようで、僕は、この広間から続く開け放されたサンルームへ移った。
ガラス張りのそこは、昼に溜め込んだ熱気が残っており、まだ暖かい。
『申し訳ございません。そ、そ苑田でございますが……、今、およろしいでしょうか?』
震えたぎこちない彼の声が聞こえた。
着信の見慣れないナンバーを見たときから、嫌な予感はしていたのだ。
「ああ、構わないよ。何?」
『あの…、で、で、ございますが……』
口調とは裏腹に理路整然とした話を聞き、礼を言って電話を切った。
頻りに彼は詫びていたが、彼に無論責任などない。どうしても心配なら、やっぱり僕が、ポケットにでも入れて、手鞠を連れてくればよかっただけのことだ。
腕の時計を見ると、午後四時を少し回ったところ。
今から立てば、蓼科に着くのは七時を回るかな……? あいつのクリニックも、ぎりぎり開いているかもしれない。
僕は番号案内で諸星のクリニックの番号を知り、それを頭に叩き込んだ。
 
そうか、あいつの子供は亡くなったのか……。
 
部屋に戻り、母を目顔で呼び、急用で辞去する旨を告げた。
母は途端に渋い顔をする。
「ごめん、どうする? 駅まで送るけど」
「結構よ。タクシーを呼んでもらうから」
声がぶすりとしている。僕など端からあてにしていない、とつんけんと言い添えた。母もう少し話してから暇する、という。
ここは母の古い友人の屋敷だ。神戸へ母孝行に買い物につき合った帰りに「久しぶりに」と引っ張ってこられた。ついて間もなく、その友人が友人を呼び、ちょっとした会になった。
「そうそう…」
奥様方に相槌を打ち続けるにも、いい加減、面倒にもなってきた折りで、苑田君からの連絡は、ありがたい口実になった。
「あのシルバーフォックス、母さんによく合うよ」
あのシルバーフォックスとは、母が、今日さんざん迷った末買った襟巻だ。その言葉に、母はほんのり口元を緩めた。
僕も幼いころから知る母の友人に礼を言い、急に帰ることを詫びた。そのとき、別な和装の女性が、傍らの若い女性の背を、僕へ押し出すように何度も押した。親子だろうか、にしては似ていない。
「由良ちゃん、お送りして差し上げなさいな。今日はせっかく葵さんにお会いできたのに、何のお話もしていないでしょう」
粘着質な声でそう促す。由良と呼ばれた二十歳ほどの同じく和装の女性は、困ったように目を泳がし、母の友人にも軽く促され、「はい」と僕へぎこちなく笑みを浮かべた。
玄関を出たとき、彼女に一件電話をかけてもらうことを思いついた。彼女は簡単に受けてくれた。
「はい、あの、ちょっと、あ、奥歯が痛くて……。……ああ、七時までなんですか。わかりました、それまでに行きます」
七時までに入ってくれれば、初診でもOK。保険証を忘れないこと。ついでに『はい、先生はおりますよ。診療中です』だそうだ。
受け取った電話を胸のポケットにしまう。どうして自分でかけないの、不思議なのだろう。もの問いたげな彼女の視線に、
「ありがとう」
とだけ答えた。彼女はそれ以上興味はないのか、曖昧にうなずく。「いいえ」と。
この場にいることが、詰まらなさそうで、また居心地の悪そうな。そして、何かを堪えたような表情をしていた。
何度か背を変にすられたせいか、帯を結んだ上がよれてしまっている。ちょっと気になり、
「ねえお嬢さん」
と、僕は彼女の背を指した。「え」と、彼女はびっくりしたように僕を見た。
「八ツ口から手を入れて、引いて直したらいい」
自分の脇を挙げ、「こう」と示す。
「ああ」
と、彼女は合点がいったのか、何度もうなずいて答えた。恥ずかしそうに自嘲気にやや笑っている。男に指摘されて、面白い類のことじゃないだろう。
「ごめん、余計なことだね」
詫びると、大げさに首を振って答える。「いいえ、そうじゃなくて…」。
「ねえ、お嬢さん。あなたはどういう…」
関係でこの屋敷に…、とつなぎかけ、僕の問いが止まった。目の前の彼女が、瞳から大粒の涙を流し始めたからだ…。
 
 
もっと早くこうすべきだったのではないか?
まったく僕はどうかしている。興信所の報告書を読んで以来、諸星にどこか、甘い見方をしていた。だから、手鞠を置いてきた。
的外れな慈悲深さに、苦笑する。単に詰めが甘いだけのこと。
油断しただけの話だ。
 
『ですから、若奥様は、わた、わたくしがお迎えに上がった日、も、諸星さまとご一緒だったのです。……問い詰めても、あのお方のお身内の、の、ご葬儀で、同行することを頼まれた、とかしかおっしゃらないの、です。何でもないと、おっしゃるばかりで……。ええ、その日、軽井沢には予定通りお連れいたしました。で、でも、どこか、ぼんやりとなさって、少しで、でございますが、お元気がないようで……』
 
彼女が諸星と出かけた日から、五日のタイムラグがある。
当日僕に連絡をしなかったのは、その日がうちの法事の日であることや、彼女の身に被害を受けたような雰囲気が見られないこと、そして離れた僕に知らせても、事態をどうしようもないことを考慮してくれたのだろう。
 
手鞠は、自身も夫を亡くし、喪失を経験している。きっと諸星の申し出を断れなかったのだろう。その優しさはわかる。情をかけやすい人であるし。
しかし、おかしいじゃないか。
『気の毒な諸星』が、芯に過去を悔み、その死を悼むのなら、どうして一人で行かないのか。男らしく、立ち向かえないのか。
更に、なぜ僕の手鞠を連れに選ぶのか…。
 
 
高速道路は思いのほか空いていた。夕日がまぶしく、めったにかけないサングラスをかけ、僕は落ち着きなく、幾度も追い抜きを繰り返した。
サングラスが必要でなくなるのには三十分もかからず、没してゆく太陽を視界の端に置いて、ひたすらアクセルを踏んだ。
途中、ネクスコのパトロールカーが現れ、かなりの減速で、舌打ちと共に、煙草の消費が増えた。
ノンストップで走り、目標の七時にはやや遅れたものの、見覚えのある街並みに着いた。
ナビであいつのクリニックの位置を把握し、向かう。
窓を開け、すっかり汚れきった車内の空気を追い出した。きんとする冷たい空気が流れ込んでくる。痺れた頭の中が澄んでいくような錯覚。
僕はこの空気が好きだ。
 
瀟洒な石造りのクリニックは、通りに面して大きく窓を取ってある。今はシェードが下ろされ、中の明かりがもれている。
ステンレス材に刻印した『如月デンタルクリニック』の看板。〈院長 如月優祐〉とある。その空いたスペースに、僕はダッシュボードの油性ペンで、大きく〈?〉と書き加えておいた。
トランクのキャリーバッグからヘッドの重いクラブを抜き出し、手に持つ。ダースベイダーのような諸星とやり合うには、ライトセーバーが必要だろう。
クリニックの扉を開け、中に入る。
暖かでやわらかい照明。靴音を吸収するフロア。受付の女性の美しく優しげな笑顔。
「あの……、今日のご予約のない方の診療はもう終わりました」
僕はその声を手で制し、ぐるりと室内を見渡す。
広く取った空間には、ガラステーブルの上の灰皿、キャメルの革張りのソファ、ガラスの書架には『ヴォーグ』や『マリ・クレール』といった外国雑誌が並ぶ(歯医者なら、『新潮』か『文春』、もしくは『女性セブン』や『ジャンプ』でいいじゃないか)。高級感のある設えだった。
極めつけに、低く流れる女性シンガーのヴォサノヴァ。
特定の女性層を目論んだ空間なのが知れた。
「あの、これから新規の患者様が見えるので……」
「ちょっと、こちらの先生に話があるんだ。あなたは……」
受付の奥に扉が見える。
「その奥は、何?」
「えっ、お、奥は、倉庫ですが……」
「あなたは、その中にしばらく入っていてくれないか? 先生は、僕が呼ぶ」
きょとんとした表情の彼女を放って、僕は手のクラブでガラスの書架を叩いた。その壊れる音よりも、女性の悲鳴が耳を貫く。
「せ、先生!! 来てください!!!!!」
ややして、前方のドアが開いた。そちらが診察室らしい。
グリーンのユニフォームを着た諸星が現れた。不思議と、よく似合っていると思った。まるで『ER』のドクターじゃないか。
彼は僕を見て、少し目を見開いた。
僕は震えて動こうとしない女性に、着ていたジャケットを脱ぎ、彼女の頭からふわりと掛けた。
そうしておいて、もう一度クラブを、今度は、クリスタルのグラスを飾ったシェルフに振りかざした。





        


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