ジキル氏の告白
きらきらの雪、さらさらの時(9
 
 
 
「僕に付き合ってくれないか?」
如月さんは繰り返した。今度はわたしの目を見て。
彼の瞳は少し茶色がかった色。その目で、こちらを強く見るのが特徴的だった。凝らすように、何か、ちょっと訴えたいことでもあるかのように。
そのくせ、口調はとても柔らかい。その落差に、この人の意志の強さが、ちらりと見え隠れするよう。優しげでスマートな、その自分の持っているものを、全てきちんとわかっている、余裕のある人。
その彼の瞳が、今はぼんやりと強さがない。
それにわたしは、つい引き込まれたのかもしれない。この人は、きっととても辛いときでないと、あんな目をしない人なのではないだろうか……。
そんな勝手な解釈をしてしまうのは、きっとわたしのセンチメンタルなのだろう。そして、多分葵が知ったなら、彼は理解などしてくれず、「おやおや」とでも言いたげに、でも口にせず、ちょっと呆れたように笑うはず。
 
『白水から奪った女性が産んだ、僕の子供』だと、彼は言った。
 
その言葉を、わたしは上手くのみ込めず、信じ切れないでいた。
彼と葵との間には、淡い友情と、懐かしい恋の思い出があって、他には……。自分の知る、二人の関係をさらってみる。一瞬でそれは終わるほど、あっけなく、短く、そして頼りないのだ。
わたしは、何も直接葵から聞いていない。
葵は、如月さんのことに話を向けると、いつも自然に話題を変えなかった? 彼の過去の女性の話が絡むから、根っからの紳士の葵は、避けたのだと思ってた。
中将さんの所でも、如月さんとは久しぶりの再会のはずなのに、葵はちっとも嬉しそうじゃなった。時間を持て余すように、黙って、詰まらなさそうに……。
振り返れば、如月さんの話を裏付けると思われる節は、ちゃんとあるのだ。
 
でも、まさか?
 
考えが乱れるのを抑えられず、とにかくスコーンのくずを始末して、彼のカップにウバをもう一杯注いだ。
「僕は、如月が最も嫌う人間だろうね。卑しくて、ずるくて、意気地なしだ」
カップを両の手で挟む彼の仕草は、寒さに暖をとっているみたいに見えた。
この彼を責める資格を、当事者でないわたしは持たない。
「そんなに素敵な女性だったの?」
少し話せば、彼が楽になるだろうと思っただけ。それに、少しの好奇心が混じる。この二人の間にいた女性に、やはり興味はわいてしまう。
彼は軽く首を振った。
「あんまり覚えてないんだ、彼女のことは。でも、白水のことはよく覚えてる。有名だったから」
「ふうん」
「あの外見に、金のある抜群の家柄だろう? どこかの国のドラマみたいじゃないか。気どらなくても派手で目立ったよ」
「それを言うと、むっとしそう」
「見ないよ、あいつは。ああいうの、僕と違って」
逆に、如月さんの、「どこかの国のドラマ」も、ちゃんと見ているようなまめさが想像できて、こんなときにおかしい。
汚れた実験用の白衣、ジーンズと踵のつぶれたスニーカー。芝生で、くわえ煙草で寝ていたこと……。如月さんの話す、かつての葵を示すイメージは、やや褪せて感じるだけで、今と容易につながりそう。ふと、知らない彼が、まぶたに浮かびそうになる。
「あんまり、かっこよくないわね」
微笑みながら返す。
「女の子にはもててた。何だかやたらと爽やかだったから。冷えた三ツ矢サイダーみたいに。美人の彼女もいたしね。僕は彼女の方と先に知り合いで、彼女に白水を紹介されたんだ…」
如月さんはそこで、切り、わたしに『面白い話じゃない、きっと』と断わりを入れた。
「ううん、続けて」
彼はうつむいて、カップの紅茶をティースプーンでゆっくりかき回している。砂糖もミルクも入っていないのに。
「忙しい奴で、しょっちゅう時間を気にして、研究室に戻って行ってた。そう、かかっていた実験の反応が終わるとか、始まるとか言っていた…。専門じゃないからよくわからない。まあ、データ取りに明け暮れていたみたいだ。平気で何日も泊り込むし、…彼女はちょっと、気の毒だった」
わたしは時折、邪魔にならないよう、相槌を入れながら、彼の話を聞いた。
「彼女の隙になんてつけ込んでないんだ。あいつはそう思っているだろうが。つけ込んだのは、白水の隙なんだ。誰でもよかった、あいつの彼女であるなら、僕は誰でも奪っただろう」
「如月さん……?」
彼は唇だけでわずかに笑った。
それは寂しげで、少し自虐的な笑い方だ。彼の胸の中は見えないけど、後悔と傷は確かにあるように思えた。
 
葵はそれをきっと知らない。
 
「僕にとって、いろいろ癪に障る奴でね、白水は。澄ましていて、いつも全てが自分のまわりにあって当たり前みたいな……。とにかく、あの頃の僕には、嫌な奴に映ってしょうがなかった」
「それは、嫉妬?」
「そうかな、多分そうだろう。僕の手にないものばかりだった。バックグラウンドの違いや、だからか、気負わない透明な雰囲気。多忙な実験の傍ら器用に、ミステリーを書く才能……。そしてそれが今、ちゃんとものになっている」
「如月さんこそ、今、何でも持っているように見えるわ」
「あはは、あちこち継ぎ貼りばかりだけどね。……ただ、その頃の僕には、本当に、妬ましかったんだ。それを言いたくて……」
ちりんと、スプーンがカップの淵で鳴いた。
葵の彼女だった理子さんという人は、案外あっさり如月さんにつき合ったという。
「身体を合わせるまでは、だけど。今思えば、寂しかったのかもしれない、彼女は。僕はありったけの言葉を尽くして、彼女をくどいた。途中、自分が恋をしているような錯覚に至るくらいね」
前もって彼が断わった『面白い話じゃない』というのは、理子さんに触れる部分のことだろう。実際聞いて、同性として楽しくはない。
「彼女の存在が少し重くなったのは、いつだろう? 僕も授業が忙しくなって、連絡も取らなくなって、それから……、どのくらいの時間がたったのだろう。気づいたときには、彼女はもう隔離施設に入れられて、僕の子供を出産したと聞いた。堕胎の処置を行うには、時間が経ち過ぎて、どうしようもなかったらしい」
「どうして、隔離施設に?」
「彼女の家は名家でね、大事な娘に醜聞が立つのを嫌ったんだろう。婚約していた白水の家に迷惑も掛かるだろうし。それに……、少し精神を病んでしまったから」
思わず、わたしは唇に手を当てた。
葵が如月さんを避けるには、きっと十分過ぎる理由になる。
「向こうの弁護士に、慰謝料の代わりに子供を引き取ること、彼女との件を他言しないことを強要されて、事実ほっとしてた。そんなことくらいかと。子供は何とか父の養子とできたし、後は黙っていればいい。簡単なことだと思った」
「そうじゃ、なかったの?」
「ああ」
紅茶を飲み込んだ彼の喉がこくんと動いた。
ちょっとためらうように、彼はわたしを見た。
「告白ついでに、約束してほしい、これから……、つき合ってくれるって」
「ずるい、それは」
「はは、卑怯なのは僕の個性だから、許してよ」
くすりと笑う。
この人は……。喉元まで出かかった言葉は、肩透かしに遭いそうで、結局口をつぐんだ。代わりに、
「でも、ブラックフォーマルを持っていないの」
言いながら、気持ちはもう承諾してしまっているのだ。ここまでの告白の代償に、それくらいの価値はあるのじゃないかと思う。まして、彼は、握ってくれる誰かの手を求めているはず。
「かまわない。付いてきてくれるだけでいいから」
わたしはうなずいた。
 
理子さんとの間に生まれた子は、先天的に重度の脳障害をもっていたという。何も理解できないまま、身体じゅうに管をつながれ、数年生きてきた。
そして、瞳も開けなることなく、夕べ逝ってしまった……。
 
フォーマルの代わりに、濃いグレーのワンピースを着た。同系色のコートを持って、出かけようというとき、東京からこちらに向かっているであろう苑田君のことを思い出した。
携帯は案の定つながらず(ドライブモードで)、メールもできず(彼の携帯にはメール機能がない!)、店にメモを残しておくことにした。彼は待つことは厭わない人だから。
 
如月さんが車の助手席のドアを開けた。わたしに、乗るように促す。コートのタッセルを結び、乗りかけて、ちょっとためらう。彼を見た。
「ねえ、どうしてわたしなの?」
「気を悪くしないでほしいけど、頼み易そうだった。多分、僕は手鞠さんが好きなんだろう」
「嘘ばっかり…」
「ほら、断らなかったじゃない」と、わたしを見て、ちょっとだけ笑った。「それは…」と言葉を返しかけるこちらを封じて、彼が、
「大丈夫。タイプでもないし、それに焦がれるほどではないから」
「冗談は止めて下さい」
「僕に今、そんな余裕はないよ。まあ、白水に飽きたときの控えだと思ってくれたらいい。さあ、もう乗ってくれるかな」
乗り込んでドアを閉めると、滑らかに車が発進した。
「白水にまた恨まれるな」
つぶやくように、彼が言った。なら、わたしを誘わなければいいのに。
けれども。
彼にとってまだなじまない土地だ。ふと気弱くなるとき、色恋とは別の意味で、誰かを求めることはある。その気持ちはよく理解がいく。
偶然そこに、わたしがいた。それだけに過ぎないのだ。きっと飲みたくなったと言っていた紅茶の連想で、わたしがぽんと浮かんだのだろう。
彼のその行動に、不快感はない。自分が、誰かのちょっとした気持ちの支えになれることを知るのは、嬉しいこと。
ドライブ中、それ以上如月さんはわたしに話しかけることもなく、まっすぐに前を向いたままだった。
その横顔は、どこか凛として、何かを乗り越えようとしている人のそれらしく……。
わたしは、安心した気持ちになった。





        


『きらきらの雪、さらさらの時」ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、大変励みになります。