贅沢な時間
きらきらの雪、さらさらの時(3
 
 
 
中将が帰ると、急に眠気が襲ってきた。彼女のあまりに馬鹿げた話につき合って、僕の睡眠不足の脳は、きっと危険信号を出していたのだろう。
………い。葵」
手毬の声が耳元で聞こえた。
いつのまにか広げた新聞に突っ伏しており、自分がうたた寝していたことに気づいた。
「あなた、横になったほうがいいわよ。少し眠っていったら?」
「いいの?」
「いいわよ。でも、どうして?」
彼女が軽く首をかしげた。僕はそれに答えないで、ジーンズのポケットから携帯を取り出して彼女に渡した。
「預かっといて。鳴ったら、出てくれてかまわないから」
手毬はそれをダブリエのポケットに落とし入れた。
カウンターの奥に扉があって、そこからが手鞠の住まいになっていた。リビングに至るまでの短い廊下には、パントリー代わりの棚が並び、食器や食材が収められている。
「ヒーター入れるわね」
「いいよ。少し寒いほうが眠れるから」
「おかしな人」
何がおかしいのか、彼女はちょっと笑う。
タータンチェックの布張りのソファーに僕が寝転ぶと、彼女はキルトのケットを掛けてくれた。ふわりと、彼女の匂いがする。
「お店を閉めたら、中将さんが言っていた、『日本の中心』に連れて行ってくれない?」
「君が行きたいのなら、いいよ」
「行きたいの」
彼女が店に戻りかけたとき、僕の携帯がポケットで鳴った。取り出して渡そうとしたのを、あくびで無視し、僕は目をつむった。ささやかな抗議のような吐息が聞こえ、観念した彼女が、電話に出た気配がした。
……あの、葵はちょっと、今出られません。急用なら、代わって…」
誰からだろう? 誰でもいいけど。
「…だから、本人からそう頼まれたんです」
少し尖った彼女の声が続いて、ぱたりとドアを閉める音が聞こえた。
僕は目を開けた。
二人がけ程度の木のテーブル、そして椅子。戸棚には、小さなビスクドールたちと少しの白い食器、茶葉やクッキーなんかを詰めたガラスビンが、ぽつぽつと並ぶ。床には、造作の途中のリネンと毛糸玉がかごから顔を出している。
多分、彼女の美しさを構成する、そのひとつひとつを、僕は眠りに落ちるまでぼんやりと眺めていた。
 
 
夕刻、店を閉めた後、手鞠にねだられて、白樺湖に出かけた。ちょっとしたドライブの距離で、途中、軽い夕食に、彼女が仕事の合間に作ってくれたサンドイッチを食べた。
夏ににぎわうこの辺りも、人気もなく駐車場はがらんとして、雪に覆われていた。誰が足を入れたのか、不規則な人の足跡が見えた。
冬の白樺湖はとんでもない寒さで、湖がほぼ全面凍結する。冬季のある時期からは、湖面でワカサギ釣りができ、観光客に好評らしい。
外に出た手鞠は、黙って車の周囲をぐるぐると回った。痛いほどの寒さにしっかりと腕を抱いている。僕はその傍らで煙草を吸って、彼女の気が済むのを待った。
空気は凍てつくように澄んで、圧力をもって僕たちに降ってくる。
「そうだ。お昼の携帯の電話、南さんからよ、連絡がほしいって。『どうして葵先生の電話に他人が出るのか』って、怒られちゃった」
「彼女に電話番号を教えていたかな……?」
「あの人、苦手」
「南さん」というのはS社の編集者で、僕の担当をしている。朝に送ったメールを見て連絡があったのだろう。しかし、携帯の番号を教えた記憶がない。
彼女が僕の住まいに来ると、必ず食用オイルやら石鹸やらがなくなるのだと、渋い顔をして家政婦の女性が言っていた。美人だが、ちょっと変わっている (中将とは別の意味で)
手毬が、帰ろうと言い出した。寒さのためか飽きたのか、どちらかわからない。
車に乗り込んでヒーターを強めても、彼女は寒そうに震えている。思わず手が伸び、彼女を抱きしめた。触れた頬がひどく冷たい。
彼女を抱いたのは、去年の夏の頃だ。あまり上手くいかなくて、途切れそうな涙声が「馨、お願い」と言うのを覚えている。
あれ以来、彼女には触れていない。
誰が悪いせいでもなく、彼女を責める気もない。
「大丈夫だから、わたし。……もう」
「温かくなった?」
腕を緩めると、彼女が僕を見つめて首を振った。「そうじゃないの」と言う。僕はジャケットを脱いで、彼女の肩に掛けてやった。最近はこんなことばかりしている。
「大丈夫だから」
彼女が繰り返し、ようやくその意味に気づいた。
 
 
僕の住まいに着くと、リビングのテーブルに、家政婦さんからの書置きを見つけた。電話や来客、余った生活費をいつもの場所に置いてあること、そんな内容の最後に
 
サランラップ 2
トマト缶 1
かぼちゃ 1
がなくなっていました。
先生、いい加減に甘いお顔は止めてくださいね!
 
どうやら、南さんが来たらしい。サランラップやトマト缶はともかく、かぼちゃをどこに忍ばせて持ち帰ったのか? 家政婦さんの目もあろうに。
手毬がそのメモを不思議そうに眺めている。僕はそれを握りつぶしてゴミ箱に投げた。
彼女を抱きしめると、抵抗なく体をこちらに預けてくる。寝室に運んでベッドに横たえたときも、観念したように目をつむったままだった。
彼女は何かを怖がっているかのように寡黙で、会話もなく、ただ互いの熱情と実際的な音が空間を満たした。
眠ってしまうのを待って、寝室を出た。書斎のデスクのパソコンを立ち上げ、原稿の続きを打ち始める。他人が見ても解読不明な乱れた文字のメモを頼りに、僕は机上の密室殺人を遂行した。
煙草の煙で、辺りがねっとりとする。頭の奥がジンと痺れた。
寝室に戻って彼女の隣にもぐり込んだ。彼女は子猫のように身をこごめて眠っている。僕は彼女がこんな姿態で眠ることを、これまで知らずにいた。
ごく早朝、手鞠が僕を起こした。店の準備があるから、早く送れという。
まだ辺りは夜の続きで暗く、路面は凍って、踏みしめるタイヤがばりばりと嫌な音を立てた。
店先まで送った。何となく惜しい気がして、シートベルトを外す彼女を抱き寄せた。
「葵……?」
彼女は驚いた顔をした。
素顔の彼女はきれいで、僕はほんのちょっと見とれた。片頬をふくらませ、バスルームを使った後、「化粧品がない」とこぼしていたのを思い出す。
「電話する」
「うん…」
はにかむように微笑んだ彼女が、車を降りた。手を振ってドアの奥に消える。それを見届けて、僕は車を返した。




        


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