子羊の大罪
きらきらの雪、さらさらの時(4
 
 
 
このところ仕事ばかりしていた。
執筆の他に、軽い気持ちで受けたインタビューや別の作家の本の書評、そしてサイン会(ついでに強引に組まれた、中将の件)…、そんなものが重なって、とにかく忙しく、疲れていた。
そんな最中、手鞠の誕生日が近いことに気づいた。何かほしい物はないか、メールで訊くと、
『食器洗浄機をちょうだい』
と返ってきた。
値が張る割に色気がない物をねだるのが彼女らしい。その前の年は加湿付き清浄機、クリスマスは除湿付き清浄機だった。
贈ると喜ぶし、ありがとうと反応もある。でも、本当にほしいのか、僕に贈らせたいだけなのか、よくわからない。彼女の気に適うのなら、どちらでもいいのだが…。
 
 
仕事がひと段落着けば、これまでの代価のように風邪を引き込んだ。
ひどいときは寝てやり過ごし、少し楽になると、頭を使わなくてもできる作業を、ちまちまとこなした。
きっと中将に聞いたのだろう、手鞠が夜更け、「お見舞い」と現れた。夕飯にクラムチャウダーを作ってくれて、一緒に食べた。
「よかった、思ったより元気そうで。中将さんったら、ひどい重症のように言うのだもの」
「あれは、いつも大げさなんだよ。おとといも、SARSが流行ったときみたいなすごいマスクを着けて来たよ」
手鞠は笑って、「こういうの?」と両の手で顔を覆って見せた。
「そういうの」
それから彼女は、眠れるようにと、僕にリキュールの入ったミルクティーを淹れてくれた。二人で飲みながら、会わずにいた間の近況をつらつらと話し合う。
僕は他出していたことや、原稿にまみれていたことなどを。
彼女は、ル・クルーゼの鍋を五つも衝動買いしてしまったこと、中将が、如月という例の歯科医師を店に連れて来たことなどを告げた。
「葵の学生時代の知り合いなんでしょう?」
やはり、僕の記憶違いなどではなく、名刺の男はやはり諸星本人だった訳だ。彼であると半ば確信していながら、そうでないことを、僕は願ってもいたのだ。
手鞠は、彼が二月ほど前に、こちらにクリニックを開いたばかりだと言った。中将曰く、固定の患者がもうでき、なかなか繁盛しているのだとか。
「すごく礼儀正しい人。愛想もよくって、誰かさんとは大違いね」
僕は(誰かさん)のように、思ってもいないことは口にしないだけだ。
「……あいつ、何か言っていた?」
「そうね、いろいろ聞けて楽しかった。葵とは、一人の女性をめぐって、ちょっとしたドラマがあったとか……」
手毬はそこで、楽しげににんまりと笑った。妬くような次元の話ではなく、ただ僕の過去みたいなものに、興味を感じているのだろう。
その場にいた中将なども、らんらんと目を光らせ、ミルクを舐めた猫のような顔をしたに違いない。本当に、同じ空間にいなくてよかった。
「その女性の気持ちが葵に向いているのがわかって、悩んだ挙句、如月さんは身を引いたのだってね。ふふ、葵ってそういうタイプよね、クールで、労せず実を獲るというか…」
「何が…」
僕は、手鞠に空になったカップを差し出し、お替わり(もっとリキュールの濃い)をせがんだ。
「風邪なのに……。もう」
「治っているよ、きっと」
僕が寝転ぶソファーから、リビングとつながったキッチンで、彼女がお茶を淹れるのが見える。見ていて、そういう所作がきれいなものだと思った。
「はい」と彼女が渡すカップからは、ブランデーの匂いが濃い。
「ありがとう」
口をつけると、自然に顔がほころんだ。彼女はあきれたように僕を見た。
「食器洗浄機、楽しみにしていてよ」
「そういうところが…」
「労せず実を獲る」ゆえんだ、と言いたいのだろう。そんな風に自分が見られていたことに、小さな驚きがある。あまりいい印象には思えない。まるで、カラの約束手形を切っているようではないか。
手鞠は、帰りに、車を手放すことにしたと、ちょっと急いだ口調で告げた。「あれじゃ、雪道に弱いから」と。僕の返事を待たずに、「いいときに、ショールームにつき合って」と言う。
「いいよ」
何かが彼女の中で終わり、その途切れた先に、または空いた場所に、多分自分が収まるのを感じた。
その長く塞がったスペースに、僕は焦れていたはずだ。けれど、こうして不意に「どうぞ」と席を譲られると、やや羞恥に似た居心地の悪さがあるのだ。落ち着かない。
手鞠が帰った後で、僕はキッチンからウイスキーのボトルを持ってきて、生のままカップに注いだ。飲むと、少し咳き込んだ。
彼女の前では控えていたが、煙草にも火をつける。
僕には嫌いなものが幾つかあって、諸星はその一つだ。
ついでに、次点がカマドウマだ。生理的にあれは堪らない。みっともないが、ちょっと固まってしまう。以前、どういう状況か、中将にあれを部屋から出してくれとすごい目でせがまれ、刹那、男であるのを止めたくなった。
諸星だ。
時がたち、当時ほどの嫌悪感は保っていないはず。だが、関わりたくないという点だけは、変わらない。
何の自覚もなく、ごく自然に他人のものを奪ってしまえる人間というのが、確かに存在する。自覚がないだけに酷薄で、当然罪の意識もない。諸星とはそういう人間だ。僕は蛇蝎のように彼を嫌っていた…。
鮮やかに、自分の中に黒々とした悩ましさが甦り、大きく吐息した。
 
当然だが、理子を思い出す。
僕の大学時代には、常に彼女の影があった。いつの間にか、当然のように僕の隣にいた。そんな女性だった。
友人たち、周囲から公然の仲だったろう。親同士の思惑が絡んだ、仕組まれた仲だったが、彼女に何の不足も僕は感じなかった。
理系の人間は忙しいものだ。特に院に進んでからは、実験ばかりで、それがひどくなった。平気で大学に泊まり込む。会えない日が当たり前に続いた。
それでも、話が進み、婚約者となった彼女は、何の文句も言わなかった。友人にはもらしもしたのかもしれないが、少なくとも僕には、そんな気振りさえ見せなかった。
研究の分野に夢中になっていた僕は、それに罪悪感も抱くことはなかった。控えめで、また聡い彼女の持つだろう寛容を疑いもしない。その優しさにきっと甘えていたのだろう。
突然、理子が僕の前から消えた。事情を知ったのは、連絡すら疎くなっていたため、かなり後からになる。
諸星という男が、彼女の前に現れ、その隙に付け込んで、騙して、遊んで、捨てた、と。
彼女は身ごもってもいた。悩んだ末に自殺を図り、未遂に終わったが、かなりの期間地方のクリニックに療養に入ることになった。
一度面会に行ったことがある。あの言葉は、とても忘れられない。
 
『あなたを見ると、彼を思い出すの。二度と会いたくない』
  
彼女との婚約は、沙汰やみになった。
理子の家庭は、いわゆる良家だ。また我が家への慮りもあり、彼女の災禍をなかったように装った。僕もそれを強いられた。彼女を思うのなら、黙っているのが一番だ、と。
彼女の身に起こった突然の不幸に、僕はただ信じがたく、驚いて、うろたえて、周囲の張り詰めた困惑にのまれていた…。
そう遠くないのち、彼女の噂は、母を通して耳に入った。療養生活の後、見合いをして結婚し、ご主人と共に赴任先のアメリカで暮らしているという。
僕はそれを、苦い安堵で胸に押し込めたのだ。
諸星へのたとえようのない厭わしさと憎しみに、自分の不甲斐なさと悔いが、詮なく混じり出したのはその頃からか…。
僕との時間は忌まわしいものだ、と彼女は言う。なぜなら、僕と諸星が似ているから。僕を思い出すと、彼もまた思い出すからだ。
 
『だから、葵のことも封じ込めたいの。そうじゃないと、おかしくなるのよ』
  
彼が言う「一人の女性をめぐって」とは、理子のこと以外にありえない。手鞠や中将を通して、僕の耳に近く入るのを承知で口にしたに違いない。
人を舐め切ったあいつらしい図々しさ。
怒りを感じる前にまとわりつくような、ぞろりとした不快感があった。
 
いったい彼は、何をしにここに現れたのだろう。
 
僕は、ウイスキーの刺激で喉を焼きながら、過去の痛みが思いのほか生々しいことに、ちょっと苛立った。
今更……、何を。
舌打ちで、胸の重さのあるざわめきをやり過ごし、押しやる。
ちょうど、手鞠から、帰宅を告げるのと一緒におやすみのメールが携帯に入った。その液晶の文字を眺めながら、彼女が残した告白を、僕は思い出してみる。
「いいときに、ショールームにつき合って」。
ほんのりと、今頃笑みが頬をくすぐる。
 
嬉しいのだ、僕はきっと。




        


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