笛を吹く少年
きらきらの雪、さらさらの時(5
 
 
 
ごく近くに、僕は諸星と再会することになる。
 
久しぶりに見る彼は、相変わらずきれいな顔をしていた。優しげな雰囲気に加えて、それと相反するかのような見つめるまなざしの強さ、人をそらさない話術、スマートな挙措。そしてこぼれるような笑顔だ。
彼はごく自然に僕に手を差し出した。口角をやや曲げた、多分それが癖の、皮肉げな表情を作る。
傍にいる手鞠や中将を気にして、僕も彼の手を軽く握り返した。
「ねえ手鞠さん、ちょっとゴージャスな宵じゃありません? ふふ、美公達お二人を、わたくしたちで二人占めなんて!」
馬鹿げた中将のセリフに、手鞠は「そうね……」と笑って返し、ちょっと僕を見た。
この晩、僕は中将に呼び出されて、彼女の経営する割烹旅館『ほり川』に手鞠を伴ってやってきた。手鞠の誕生日をごく身内だけで祝う、というのが中将の言う趣旨だった。
ときどきジョロウグモのようになる彼女は、とんだ伏兵を用意していた。
諸星である。
 
十畳ほどの間に、何かの図柄を縫い込んだ几帳と燈台、脇息などの平安朝を意識した設えが並ぶ。
銘々の丸盆に、伏せられたグラスと箸が置かれた机を介して、僕と手鞠の前に諸星と中将が並んだ。
料理が次々と運ばれてくる。
彼はそつなく会話を振っては、中将や手鞠にしゃべらせた。
僕には、「諸星と呼んでくれ」と言った。相続の関係で、最近母方の苗字に変えたばかりで、なじめないからと。
まるで、古い友人であるかのように振舞う彼の厚顔さに、僕の中で、ざらざらと不快感が募った。
「しかし、驚いたな。白水(いずみ:葵の姓)にこんな愛らしい彼女がいたなんて」
諸星はそう言って、傍らの中将に同意を求めた。水を向けられて、彼女は喜色満面の笑顔だ。僕と手鞠の仲を、好みの脚色を交えて第三者に話すのが、楽しくてならないらしい。こうなっては、しばらくおしゃべりは止まらない。「運命的でございましょう?」とか何とかかんとか……。
奇妙な性癖じゃないか。自分がそろそろ実践すればいいのに、とうんざりと思う。
「こんなところで、のんきに本なんか書いていていいのか? 確か、お前は大層な家柄じゃなかったか?」
僕は、ほんのちらりと諸星を見た。
中将が勧めたアルコール代わりの、ワインを煮詰めたシロップ割りだとかいうものが、思いのほか口に合い、
「何の後味? ワインの他何か入ってるだろ?」
「葵、如月先生がおたずねよ」
低い声で僕へ促した後で、「生姜と蜂蜜ですわ」と答えてくれた。手鞠も飲みやすくて「おいしい」と気に入ったようだ。
しばらく黙っていると、中将がすごい目で睨んでくるので、グラスを置いた。
「のんきなつもりはない。それに大層な家柄でもない」
「葵はその人間ですから、謙遜してそうおっしゃいますけど。白水(はくすい)流宗家といえば、伝統といい流儀の洗練や深さといい、香道の要のような大家ですわ」
その分家となる家の出身である中将からすれば、己の家の存在意義に関わるからか。こういった話題には、はっきりと宗家を持ち上げたことを言う。
「へえ」
僕の家が香道をやっていることは、既に知っている手鞠が、気の抜けたような驚きの声を出した。
「葵が、跡を継ぐの?」
それに僕はゆらりと首を振って答えた。跡継ぎとして育てていた理子の件以来、家元である母は、自身が健康でもあり、後継者を決めることを急くことがなくなってきている。
「あら、葵の亭主も、香席ではとっても映えましてよ。わたくし、家元のおばさま以外では、葵のお席が一番好き」
年に数度もないが、母に乞われて香席を持たされることもある。
そこで中将は、僕を「葵」と呼ぶようになったいきさつを、嬉々と諸星に話し出した。単に、随分と前、僕が持たされた香席で使った香が、『葵』という名のものだっただけの話だ。
諸星は、仔細気にうなずいて聞いていた。
 
水菓子が出される頃には、倦んだ気分で僕は煙草を取り出して、火をつけていた。それに中将が「まあ」と眉をひそめる。
「葵、お控えなさいな」
「いや、かまいませんよ。……よかったら、僕にも一本くれないか?」
とりなしに、諸星が中将を遮った。僕はその彼が差し出した手のひらに、煙草の箱を乗せてやった。
普段はきっと吸わないだろうに。火をつけて口にくわえると、これで同罪だと、中将にちょっと笑いかけた。
「如月先生にはかないませんわ」
中将のご機嫌のよいこと。
どうして僕は、諸星などに無作法をフォローされなくてはならないのだろう。親しい年上の友人か、そうでなければ、まるで兄かのように。
 
[ほりかわ]を辞したのは、九時を過ぎていた。
駐車場で、諸星に呼び止められた。
「今度、拙宅で、簡単なパーティーをするんだ。よかったら来てくれないか? もちろん手鞠さんもご一緒に」
驚きと呆れに、短い笑みがもれた。
 
ワインか何かを手土産に?
僕が?
彼のパーティーに?
 
「ね、来てくれるでしょう?」
彼は反応のない僕から、手鞠に矛先を向けた。
彼女は僕を見上げた。屈託なく笑う。
「そうね、葵がいいのなら」
何となくそうしたくなって、僕は彼女の腕を取って、自分のそれに絡めた。彼女の身体が、僕に引き寄せられてぐらりと傾いだ。
「葵……?」
諸星はにやりと笑って、
「今夜は当てられっぱなしだな。まあ、手鞠さん、白水の許可が出たらぜひに」
背中を向けて、そのまま手を振った。
僕は、その千鳥格子のコートの背をちょっとだけ目で追い、すぐに逸らした。
 
帰路、手鞠は何かを言いたげに、ちらちらと僕に視線を向けるのを頬に感じた。
白樺の木立が並ぶ雪道を、ヘッドライトが照らす。さっと何かが茂みに動くのが見えて、彼女に教えた。
「きっと、鹿じゃないかな」
「……何か、今夜の葵、変」
「僕のどこが変?」
手鞠は勘のいい人だ。僕の態度の変化や言葉なんかに、深くは読めなくても、何かいつもと違うものを感じたのだろう。僕が抱える、おそらく諸星への感情の一端なりを。
僕は、彼との確執の意味を、彼女にだって話すつもりはない。
「怒ってるみたいよ、あなた」
「怒ってなんかないよ」
「そう? だったらいいけど」
それから彼女は、料理がおいしかったとか、諸星が紳士だったとか、彼がやっぱり僕に似ているとか、すごく魅力的な人だとか、彼は僕をやや大人にしたみたいだとか……、天真爛漫に並べ立てた。
それを隣りで聞かされた僕は、ひどくいらいらした。
「英検は三級なんだって」
「それなら言わない方がいいよ」
僕は車を路肩に停めた。
彼女に、少し遅くなってもいいかとたずねる。
「かまわないけど……。なあに、葵、もしかして妬いてるの? わたしが如月さんを褒めたから」
彼女の冗談めかした声に、何だと思い至った。
確かに、僕は彼に嫉妬している。
かつて、理子を奪ったあの目や言葉や仕草を、手鞠に向けられたくなかった。それは本能的な厭わしさだ。
彼女が汚されそうで、そしてふわりと気持ちが彼に揺らぐのではないか…。そんな惨めな不安と、得体の知れない諸星と無邪気な中将と 無防備な手鞠に苛立っていた。
「うん、すごく妬いてる」
「おかしな人、どうして? わたしには葵がいるじゃない」
笑って、彼女は僕を見つめる。
彼女の芯の強さは、こんなとき露わになる。まっすぐな瞳。その目は間違いなく僕に向いていて、きりりとした強さをもって、すぐそこにある。
抱きしめると、彼女はすんなりと僕の腕におさまった。
花のような彼女の髪の匂い。
僕は彼女にキスをして、ごく自然に、何度も繰り返した。





        


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