愛とは思いのほか軽いもの 
きらきらの雪、さらさらの時(6
 
 
 
目が覚めると、かすかな電話のベルの音がした。
放っておいて、しばらく彼女の眠るのを眺めていた。ベッドサイドのテーブルや脱いだシャツのポケットに煙草を探したけれど、ないことに気づく。
あきらめて電話に出ることにする。
リビングで受話器を上げた。母だ。
こんな早くに珍しい。僕は、キッチンのカウンターの上の煙草に手を伸ばした。
「何度もお電話したのよ、どうして出ないの?」
「気づかなかっただけだよ。……それで、どうかしたの?」
しばしの間。そういう小さな時間に、感情をにじませるのが、母は非常にうまい。
「近く、大伯父様の五十回忌の法要があること、お話したわよね」
聞いたような、聞かなかったような…。中将辺りが、そんなことを言っていたかもしれない。
「今週末にも、千早(ちはや:中将の名)さんと一緒にこちらに帰っていらっしゃい」
「急だな、法事はいつなの?」
「十日後よ」
ちょっと返事に詰まる。
一拍置いて、仕事が立て込んで、すぐには離れられないことを告げる。けれど、言いながら、説得力に欠けると思った。事実でないこともあるが、そもそも母は、自分の主張があるとき、あまり人の話を聞かない。
ぱたりとドアの音がして、彼女が入ってきた。寝覚めでぼんやりするのか、緩慢な動きで髪をくるりとまとめ上げている。
僕の肩にちょっと手を置き、すぐに離れた。キッチンに立って、やかんを火にかけている。
「あなたにご相談したいこともあるの。たまには母にお顔を見せなさい。いいわね?」
それだけ言うと、電話ががちゃりと切れた。
受話器を戻しながら、思う。中将が一方的なのは、多分にこの母に影響を受けているのだろう。母の場合は、年の功で、更に独裁的がそれに加わるけれど。
手鞠が、僕を見て首をかしげた。
「店に送ってくれたら、ワッフル焼いてあげる。葵はどうしたい?」
 
彼女を店に送ると、店内にすでに人の姿があった。湯気ののぼるカウンターの中で、経済新聞を広げていた。
ドアベルの音に、その人が新聞から顔を出した。
「おはようございます」
ワイシャツにネクタイ、それにエプロンを着けた彼は、僕を見つけて、慌てるようにメガネの目を逸らした。
中肉中背、整っているが平凡な顔立ちの、これといって特徴のない外見からだろうか。どこにいても、違和感なく溶け込んでしまうような雰囲気の男だな、と何度目かの邂逅になるが、また同じようなことを感じた。
たとえば、レストランでソムリエをしていたり、もしくは某国元首のSPでもいい。または、高校で物理でも教えていたり、時代劇の江戸城のお庭番でも……。
「もう来ていたの? 来週になるようなこと言っていたじゃない…」
手鞠が彼へ、ちょっとなじるような声を出す。僕と外泊したことが、ちょっとばつが悪く、照れているのかもしれない。
「若奥様の御用ですから……」
彼はそんなことを返した。押しつけがましさのないその言葉から、時間をやり繰りし、急いできたことがうかがえた。
手鞠はカウンターの中に入ると、さっき言っていたワッフルを作り始めた。彼は傍らで、僕に紅茶を淹れてくれる。
「…ヌ、ヌワラエリヤ、ヤ、でございます」
カウンター越しにが、なぜか震えながらティーカップを差し出してくれた。手鞠が、あら、といった目で、そのカップをそっと眺めた。
「ありがとう」
喉が渇いていたから口をつけると、非常に軽い味でおいしい。確かに以前、ここで飲んだ覚えがある。もしかしたら、彼はそれを覚えていてくれたのだろうか。
「おかしいの、苑田君。あなた前世で、葵の家来でもしていたの? どうして、いつもそんな緊張するの?」
そういえば、手鞠が笑うように、この苑田という二十五歳の青年は、なぜか僕に対してちょっと震えたり、なかなか目を合わせないなど、挙動があやしい。どうしてだろう。彼女の亡夫の弟分のような存在だと聞いているが…。
「な、何を。そ、そんなことはありません! わたしが深く恩義を感じ、生涯お仕えするのは、山品家のみでございますから!」
慌てる大時代的な彼がおかしいが、それをこらえて、彼の経済新聞を見せてくれと頼んだ。
「最近の銀行株の動き、面白いよね。何か注目でも、ない?」
「そ、そうで、ございますね。わたくしの愚見でございますが……」
経済の話になると、やはり社会人らしい知的な意見をくれる。
彼は、手鞠が甘え交じりに気安くものを頼める、亡夫一家唯一の人間だ。資産家だというその家の、書生のようにして育ち、今も執事のような存在で、内向きの仕事をこなしているのだとか。
今回は、彼女が亡き夫君の車を処分する件で現れたのだろう。彼女が煩うだろう雑事を、彼はいつの間にかきれいに片付けてくれるのを、僕は知る。
店がちょっと混んできた。知った人、そうでない人。いくつか言葉を交わして、時間が過ぎた。
店にひと気がなくなると、手鞠がフックに掛けたカーディガンを羽織った。
「ねえ、苑田君。ちょっとお店空けていい? 生クリームが切れたの、買ってくるわ」
「わたしが行きますよ」
「それより、サンドイッチ食べてて。朝食、まだでしょう?」
彼女が店を出ると、僕はカウンターの彼に問いかけた。
「手鞠を、しばらくここから連れ出すことって、できるかな?」
彼は、手鞠の作ったサンドイッチを頬張ったまま、僕を見返した。意味がわからないと言いたげだ。幾度か、目を瞬かせる。
確かに、急にこんなことを問われれば、誰だって不審に思う。
もちろん事情を説明する。諸星という男が、僕が実家に戻る数日間の留守中に、手鞠に危害を加える可能性があるから、と。
大げさな言いように聞こえたかもしれない。説明を終え、唇の端がちょっと笑みに崩れた。
警戒のし過ぎにも思ったが、後悔するよりはるかにましだ。僕は何一つ言葉を訂正しないでおいた。
彼は詮索したりせず、咀嚼を終えた後で、
「そういうご事情なら……。ご協力いたします」
とうなずいてくれた。
こう速やかな反応をくれることを、僕は期待していた。その期待には、数度会ったばかりの彼への信頼があるのだと、遅れて気づく。
「ありがとう。蓼科から離れた土地がいいな。あてはある?」
「はい、山品家の別荘が軽井沢にございます。若奥様とは仲のよろしい末のお嬢様が、ちょうど休暇でいらっしゃるご予定ですので、都合がよろしいかと。いかがでしょうか?」
「ベストだよ。問題は、彼女がうんと言ってくれるかだな」
「それは、白水さまがおっしゃるのでしたら、若奥様も、お聞き入れになるでしょうし……」
苑田君は再び、そこでメガネの目を伏せた。
彼は手鞠の亡夫のごく近しい人間だ。若くして亡くなった馨という人をよく知り、彼の傍にいた手鞠をよく知る。
そういう彼にとって、僕の存在が面白かろうはずがない。
敵意があるようには思えないけれど…。
意地が悪いだろうか、ちょっと踏み込んでみる。
「ねえ君は、僕と手鞠との関係を、どう思う?」
彼はしばしの沈黙の後、途切れながらも、確かな口調で話し始めた。
「はあ、それは……、若奥様はまだお若くていらっしゃいますし、若のお後に、どなたかが現れても、それは……、当たり前のことだと……。と、いうより、その方が、健康的なのでは、と常々、考えておりましたから……。若奥様はしっかりしているようでも、その、線の細いところがおありで……。どなたか、きちんとしたお方が傍で支えて下さるのは、わたしにいたしましても、ありがたいことで……」
「そう。そう言ってもらえると、僕もありがたい」
なぜかそこで、彼がびくりと肩を震わせた。この反応は、いったい何なんだ?
「お言葉、畏れ多く……」
「畏れなくったっていいよ」
性格なのだろうが、相変わらずの大時代がかった返しに、苦笑する。
彼がサンドイッチを食べ終えて、僕が手鞠から「選んで」と、丸投げに渡された車のパンフレットを、一通り眺め終わるころ、ドアのベルが鳴った。
手鞠がマーケットの袋を抱えて帰ってきた。
その後ろからひょっこり現れたのは、
「葵先生!」
黒髪も艶やかな、僕の担当者の南さんだ。ほとんど前の手鞠を突き飛ばすようにして店に入ると、僕の隣に腰掛けた。
さすがに手鞠はむっつりとした顔で、それでも一応彼女の前にグラスの水を置いた。
南さんは今夜、なんと諸星のパーティーに某作家のお供で出かけると言った。そのことを、べらべらとしゃべった。
いつの間にか、僕の煙草に手を出している。
「お料理は、○○ホテルのケータリングらしいんですよ。鴨のパテとヤマウズラのローストが絶品の! わたし大好き」
切れ長の目が、期待にちかりと光るかのように思えた。よほど力を入れているのだろう、パテとヤマウズラとに。
彼女は以前グルメ雑誌の配属だったから、そういう情報には詳しい。誰かが言っていたが、どうも何かそのときしでかして、食べ物には縁のないミステリーの分野に配置換えになったとか。
彼女が重ねてきた手を外しながら、
「ジビエも食べ過ぎると、痛風になるよ」
「まあ、葵先生って、素敵なお顔で面白いことをおっしゃるんですねぇ! そのギャップが、とっても好きなんです」
と、なぜか僕の甲を軽くつねった。
僕は尋常なことしか言わない。面白いのは、間違いなく君だ。
手鞠が彼女にオーダーを聞いたが、僕が外した手をちらりと振ってかわした。
「ここ、紅茶しかないもの。わたし、紅茶は、外で飲む気にならないわ。だって、リプト○のティーパック一つで、六杯は飲めますもの」
だそうだ。
彼女が、自腹で紅茶以外の物も飲み食いするのも、きっと珍しいと思う。
苑田君は、あっけにとられた顔で、彼女を眺めている。初対面にはちょっと衝撃的なはずだ。
手鞠を見ると、買ってきたばかりの生クリームで、ホイップクリームを作っている。ふんわりとふくらんだそれを、スコーンに付けて、こっそりぺろりとおいしそうに食べた。
クリームの残る口のまわりを、ちろっと舐めた。何だか、拗ねた子猫みたいな仕草だった。





        


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