後悔しないための三日間 
きらきらの雪、さらさらの時(7
 
 
 
急ぎの仕事を片付けていると、電話が鳴った。
母からの帰宅を急く催促かと思いげんなりしたが、受話器を取った。出ないと後がうるさい。
耳に入ってきたのは、意外な声だった。
「ああ、僕だ。諸星だよ。邪魔したか?」
「お前が邪魔でないときなど、ないよ」
乾いた、喉が鳴るような笑い声が聞こえた。
「相変わらずだな、白水は」
これからパーティーに出てこないかと、言葉が続く。
わざわざ誘いの電話をくれた訳だ。僕が断るくらい、先刻承知だろうに。
「行かない」
それだけ言って、電話を切ろうとした。
「そう……、かまわないさ。ちょっと不快にしてやりたかっただけだから」
ぷつりと電話が切れた。
僕はテラスに面した窓を少し開けた。雪に覆われたそこには、よくウサギが遊びに来る。今もテラスの端にいて、こちらをびくついた目で見ている。
 
まるで僕みたいだ。
 
心の端にある、彼に対する癪な感情を、僕はそろそろどうにかしなくてはいけない。
ふと思い立って、冷蔵庫を探したが、にんじんがなかった。ブロッコリーでもいいかと、テラスのウサギに投げてやる。
書斎に戻り、煙草をくわえながら、デスクの引き出しから調査報告書を取り出した。知人を介して知った興信所に、諸星の身辺調査を依頼してあったのだ。
届いてすぐに、一度斜め読みしたが、改めてきれいに目を通していく。
僕の知らなかった事実がそこには書かれていて、それから、彼がどうしてここに現れたかが、容易に想像がついた。
内容を確認し終えてから、シュレッダーにかけた。
 
約束の時間に少し遅れて、手鞠が現れた。
僕たちは最近、二人で夜を過ごすことが多い。まるで、これまでを埋め合わせるかのように。キスをして、抱き合って、いろんなことを話したり…。または、黙ったままでいたりした。
「わたし、葵って、理知的な人だと思ってたけど……」
「今は違うの?」
「何のおまじない、あれ?」
彼女は寝室の窓に、顔をぴったりと寄せ、外を見ている。
「え?」
彼女の頭の上から外を覗くと、ぼんやりとした外灯に、僕の投げたテラスのブロッコリーが、小さく見えた。
にんじんの代わりにウサギにやったのだと言うと、なぜか彼女は大笑いした。
「あんな大きな塊をあげなくても……。小房に分けるとか、思いつかなかったの?」
いまだあのままあるということは、重くて持ち去れなかったのかもしれない。なら、また来て食べればいいじゃないか。
「きっと、上手く食べるよ」
よほどおかしいのか、彼女は息をするのも苦しそうに笑っている。
こんなに一生懸命笑う手鞠を見るのは、僕は初めてかもしれない。
彼女をこちらに振り向かせて、髪に唇を当てた。指でいじる首筋がくすぐったいのか、甘くうっすら身をよじらせた。
これから数日後、しばらく会えないと思うと、時間の密度が濃くなる気がする。
「ねえ、どこか行きたいところ、ない?」
たずねると、やっと笑いを収めた彼女が、
「なあに? そうね……。マリー・ローランサンの美術館、近いのに、行ったことないわ」
「そんな近くでいいのなら、明日連れて行ってあげるよ」
「だって、お店があるもの」
「客なんて、数、知れてるだろう?」
失言だったか。彼女は途端に尖った声を出す。
「どうせ決まった常連客と、物好きな紅茶フリークしか来ないわね! フレーバーも、アールグレイしか置いてないし」
「ほら、修学旅行生が大挙して来る訳じゃないだろうって、言いたかったんだよ」
手鞠は猫のような目で、じろりと僕を見た。
「上手く逃げたわね。……わたしは葵みたいに原稿料の他、印税だとかで、いつの間にかお金が入ってくる、いいご身分じゃないの。1500円の紅茶で細々稼いでるの」
「だったら、いつでも僕に甘えればいい」
ぽろりと言った言葉に、彼女が絶句した。
「そばにいてくれたら、君は僕に紅茶を淹れてくれるだけでいい」
「ブランデーのたっぷり入ったダージリンね?」
彼女は軽い口調で答えながらも、僕の目は見なかった。
「そうだよ」
別に返事がほしかった訳でもなく、彼女の心のどこかに置いてもらえればいいだけの言葉だ。必要なときに取り出して、思い出してくれればいい。
明け方、彼女が眠っていた僕を揺さぶって起こした。やっぱり今日は店を休むから、美術館に連れていってほしい、という。
「いいよ」
「あのね……、葵の言葉、どういう風にとったらいいの?」
「言葉? 何?」
「あれ、あなた言ったでしょう? 「僕に甘えればいい」とか……。あれって、なあに? わたし、考えたら眠れなくなっちゃって」
僕はあくびをしながら答えた。
「そのままの意味だよ」
「だったら、何だか、ほら、プロポーズみたいな言葉じゃ、なかった?」
「そうだよ」
「だったら、そう言ってよ。もう、悩んで損しちゃったじゃない」
彼女が僕の胸を軽くぶった。
何を悩んでいたのだか。
手鞠はぶつぶつと、愚痴のように「そんなところが、葵らしい」とつぶやいた。
どこがそんなところなのだろう、と寝足りない頭で考えた。ふと、以前彼女が、僕を評して「労せず実を取る…」などと言っていたことを思い出す。その辺りに、きっと彼女なりの脈絡があるのだろう。
「おかしいけど、苑田君の葵への態度も、わからないではないな…」
今度は、僕に意味不明なことをほっそりと言う。「何?」と訊いても、手鞠は微笑んで首を振るのみだ。
彼女にはぶかぶかのTシャツは、僕の物だ。その肩が寒そうで、抱き寄せた。
ぽつりと彼女がつぶやく。
「返事……、すぐできない」
期待などなかったはずが、彼女の中のためらいに、ふっと胸を塞ぐような、わずかな落胆を感じた。
まだ、何かが足りないのだ。それは、互いに時間であるかもしれないし、愛情かもしれない。そして、彼女自身のまだ消えない過去への迷いでもあるか…。
「いいよ。言いたかっただけだから」
「そう……、ありがとう。嬉しい」
 
寝坊した僕たちは、日が高くなってから出かけた。
蓼科湖の畔までは、ちょっとしたドライブだ。美術館に着いて、流すように絵画を眺めた。建物の周辺を手をつないで歩いて、ときどき思い出したようにキスをした。そして、舌の焼けそうな熱い紅茶を飲んで、二人で笑い合った。
澄んだ冷たい空気、樹氷、頬を切るかのような風。
つかの間の日差しが、雲間に隠れた。
雪がちらちらと踊るように降ってくる。
くしゃみをし始めた彼女に、もう帰ろうと促した。
うなずいた彼女が、
「あ、食器洗浄機届いたの。ありがとう」
「どういたしまして」
友人にメーカー勤めがいるから、手配してもらった。きっと来年は、ドラム式洗濯機がほしいとか言い出すのだろう。
「来年は、洗濯機かな……。ドラム式のアメリカ製がいいな、形が可愛いし。でもあれって、音がうるさいらしいの。ねえどう思う?」
思ったとおりの言葉が彼女の口から出る。相変わらず、高価な割に生活感丸出しの物をほしがるのがおかしい。たまには僕も、彼女の身に着ける物を贈りたいものだけども。
けれど、気安く物をねだる、そんな言葉を聞くだけで、滑稽だがちょっとした満足がいく。
愛情であるとか、恋であるとかの、確かに感じる、幸福の甘さを味わっていた。
「なあに、葵? どうして笑うの?」
返事の代わりに、
「連載を増やして稼ぐよ」
「熱烈なファンレター書いてあげる」
「あはは、中将みたいだ」
彼女の手が僕の手を取り、自分のジャケットのポケットに導いた。結ばった互いの手指は、その小さな空間で、すぐに温もりをたたえていく。





        


『きらきらの雪、さらさらの時」ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、大変励みになります。