噂は違わぬ
きらきらの雪、さらさらの時(8
 
 
 
クローズの札をドアに掛けて、外灯を落とした。
少しドアを開けただけなのに、足元には雪が吹き込んでいて、サンダルの足で、ちょこちょこ外にかき出した。
一日の終わり。
ゆっくりとマグカップにウバのストレートを淹れる。気分にもよるけれど、たいていはこのお茶に落ち着く。味もちょっと濃いめの水色も、数ある中で、多分一番好きなお茶だ。そしてこの香りは、仕事の終わりに何となくぴったりとくる。
午後遅くに薪をくべたばかりの店内の暖かさが惜しくて、ストーブの前のカップを手に、ベンチで一休み。またこのまま、一人の気楽さで、長くぼんやりとして過ごすのだろう。
壁の書架にはまばらに文庫本が並んでいる。常連のお客さんたちが、ジャンルはまちまちで、銘々お薦めの本を置いていってくれたものだ。
読みかけの一冊を手にとって、栞を挟んだページを開く。
時間が許すだけ、おいしい紅茶を飲みながら、本を読んだり誰かと話したり、寛いでもらえる、そんな空間を作りたいと、わたしも彼も思っていた……。
くったりとした文庫本の背表紙が並ぶのを眺めると、いつかの夢が、傍に実現しているのを感じる。確かにこうやって。そこに不思議と、込み上げるような幸福感はないのだ。ただあることを認めるだけ。
真の幸せって、こういうものを指すのかもしれない。意識したときのみ、その存在に気づかされる。いつしか当たり前に享受し、また存在を忘れて、惜しみなく日々費やしていく…。
たとえば、熱い紅茶が満ちたカップの重み、柔らかく身体を包んでくれる火の熱。心地よいくらいの疲労感…。身近な幸福を拾い、それらにちょっと微笑むのだ。贅沢な自分を感じながら。
馨を失いながら、どうしてわたしは店を辞めなかったのだろう。この店は、二人で計画し始めた店なのに…。
熱いカップを手のひらで包み、また思う。何度となく繰り返してきた問いだ。その都度、わたしが出す答えは、曖昧に形を変えてきたもの。
クローズの後の一人の時間、わたしは泣くことが多かった。それが、いつの間にか減り、もうほとんど泣くことはない。
一日の疲れとか、明日への期待、身近なものを感じることに一生懸命になって、いつしか、そう気負っていることすら忘れた。
そうやって、数年をかけて、わたしは何かを通り抜けてきたのだろう。
きっとそのために、わたしは店を必要としたのかもしれない。乗り越えるために。何から?悲しみから? 孤独から? 切なさから? ……、
コンコン、とドアのガラスを叩く音。
本を伏せ、顔を上げた。
その叩く音で、誰だかわかる。返した手の中指の節で、硝子を軽く打つのは、葵の癖だった。
見覚えのあるグレーのジャケットの、フードのファーがふんわり雪まみれになっている。手を引いて中に入れ、ストーブの前で、その雪を払ってあげた。
「もう、帰ったのかと思った」
彼は、午後に実家に行くと聞いていたはず。
「今から向かうところ」
葵は、ちょっと顔を見に寄ったのだと言った。
「こんな遅くから?」
夜間に向けて気温も下がり、雪も多くなるはず。路面だって凍って…、と、口調が不満げなのは、心配だからだ。それを葵は緩く首を振り、遮ってしまう。
寒い方が好きだとか、夜間は道が空いていていいから…。返事にならない言葉が返ってくる。それにちょっと笑みがもれるのは、葵らしい返しだから。
「君はどうするの? 軽井沢」
「うん、苑田君が、明日の午前にはここに来て、送ってくれるって」
「ふうん」
ねえ、と彼が、これから一緒に行かないかと誘った。「うるさいのを、途中で拾うけど」とは、きっと中将さんのことだ。
そう言って、ごく軽く笑うのだ。
切妻屋根が幾重にも連なる、広壮な葵の京都嵯峨のご実家。空薫物がくゆるお家内は、黒光りのする長い長い廊下、さりげなく飾られた仁清の壷、並ぶ絵襖を開けた奥から眺めるお庭の景色も見事で、鑓水がさやさやと流れ、木々に築山、東屋の佇まい、四季折々の風情がそれぞれにお美しいのだとか……(中将さんの受け売り)。
いと雅な白水流香道宗家。
そこで催される、ご一族の法会。
考えただけでも、気が重い。
反射的にううん、と首を振った。
葵はわたしの態度がおかしいのか、「そんな嫌な顔しなくても」と、また笑う。
「ポケットにでも、入れていこうか?」
「煙草とキーだけの?」
「たまにはこんな物も、入ってる」
彼がわたしの手のひらに、ポケットから取り出した、小さな箱のような物を乗せた。本当に小さい。マッチ箱程度の銀のオルゴール。華奢で愛らしく、声にならない感嘆が出る。
蓋を開けると、聞いたメロディーが流れた。『アヴェ・マリア』だ。
「ありがとう」
居間の棚のビスクドールの傍に置こう。ふっとそんなことが浮かぶ。わたしが小ちゃな置物が好きなのを、きっと彼は覚えていてくれたのだ。それは嬉しい驚きで、手のひらのオルゴールが、刹那、手指にじんと重さを伝えた。
「軽井沢では、どうするの?」
「義妹の子が、ドラマのDVD持ってきてくれるの。見ながら飲んで、食べて、おしゃべりよ」
「それはそれは」
彼がちょっとあくびをした。
急ぎのエッセーに、これまで苦吟していたのだという。結局できずに、少しふてくされているのだとか。
「着いたら、深夜になるけど、電話していい?」
うなずくと、彼がわたしを引き寄せた。
ニットから煙草のにおいがする。もう慣れた彼の匂い。
前髪をかきやる仕草。首を傾げ、わたしをのぞくように見る癖。それから、葵のわたしに向ける口調は、いつもどこかからかうように耳に届く。
むっとしているときと、何かを思案中のときの表情が同じで、固まってしまうところ。いけないことを言ってしまったのかと、困っているのに、いきなりほどけるようにきれいに笑うでしょう?
いつもクールな人だけど、一度あなたがカマドウマを見つけてたじろいだの、似合わなくって、あんまり意外で、おかしかった。きっと、大嫌いなのね…。
「何? 何がおかしいの?」
「ううん、何でもない」
いつの間にか笑っていて、彼のちょっとうかがうような視線に、ふっと口元を引きしめた。
こんな今、思い出すのだ。
はじまりに、約束も誓いも添えることがなかったこと。互いにきっと、求めるものなどなくて、強いて言えば、収まりが良かったのかも。どちらともなく寄り添い、何となく距離を置いて……。
優しいのか、冷たいのか。葵には、こちらを遠ざけるような、煩わしがるような気配が、ややもあった。仕事柄か、思索的でやや寡黙で。
そぶりや雰囲気にも、わたしは、ちょっとした気後れを彼に感じていたはず…。
 
あなたは、いつからわたしをこんな内側に入れてくれるようになったの? 
 
そして、わたしは、いつから…?
 
 
目覚めたのは、いつもの時間より遅い七時だ。これでは到底店の準備が間に合わないけれど、これから四日はクローズになる。
着替えてから、いつもの習慣で、店の方で朝食をとる。冷蔵庫の余った物でラタトゥイュを作って、ベーグルに挟んで食べた。紅茶で流し込んで、新聞をめくる。
大きくあくびが出た。店のカーテンを開けようと立ち上がって、今日は必要がないのだと、気づく。リネンのそれは、少し汚れているよう。帰ったら洗おう…。
夕べ、葵から電話があったのは、もうちょっとでベッドに入るところで、深夜一時を過ぎていた。
どうしたの? というくらい不機嫌な声の彼に、中将さんの鈴が振るような声がかぶさった。
『葵、漢方アレルギーなのかしら? 『ほり川』で出す試作品のデザートを食べさせたら、すごくつむじを曲げてしまって…。気分が悪いって、先ほど吐き出しましたの。失礼しちゃいますわ。殿方のくせに、ああも食事に難を唱える性質は、興ざめですわね、手鞠さん』
葵いわく、『臓器を蝕まれるような味がした』そうである。
ちなみに、「センブリベースで、羅漢果を使い、風味付けに養命酒を香らせた」もの、らしい。
聞くだけで、舌先が痺れそう。
とにかく。
兄妹、姉弟のような二人のやり取りは、突き放すようでいて、ほのかに絆を感じて心地がいい。
 
宿泊の用意は済ませた。義妹にメールでも送っておこうか。
その前に、店のドアに休業の貼り紙をしておく。
「お出かけ?」
声に振り返ると、如月さんが立っていた。彼とは、葵と中将さんの所で会って以来だ。黒いコートの下に、黒いスーツの上下が見えた。
ドアの貼り紙が気になるのだろう。彼は革の手袋の手を顎に当て、少し思案する風。
風が強く吹いて、梢の雪がこちらにつぶてを投げる。肩先に雪の飛沫を受けた彼が、軽い会釈をし、踵を返しかけた。
「中へどうぞ、紅茶でもいかが?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「助かった」と言う。実は旨い紅茶がすごく飲みたかったんだ、と笑った。
「ご自分で、淹れないんですか?」
茶葉もあるし、ティーセットも一通り持っていると答えた。
「でも、上手くいかない。何がいけないのか、濃くなったり、薄くなったり。手鞠さんのような、ぴたりとくる味が出ない」
「ちょっとしたコツ。ポットでちゃんと蒸らせば、おいしくなるはずだけど…」
カウンターに座った彼が、ウバを注文した。誰かさんのように、新聞を広げるでもなく、こちらの所作を確かめるように眺める。
「どうぞ。お口に合うかしら?」
受け取ったカップの湯気の向こう、如月さんは薄く笑った。整った顔立ちを、やや歪めるような癖のある笑顔だ。
ちょっと奇妙なくらい、面差しに葵の面影がある。二人が並べば、その影がどんなに淡いかわかるのに…。
けれど、あの人はこんな笑い方はしない。葵は、もっとありきたりに笑う。仕草も何も、てらうところがない。
紅茶にたとえたらアールグレイだろうか、如月さんは。本来の自分に、何か加えているように思えるのは、どうしてだろう。キームンの茶葉に、ベルガモットの香りを添加したように。
ふと葵と比べていることに気づき、自分をたしなめた。無理も虚構も感じない。わずかな違和感だけだ。人それぞれ。おかしなことではない。
如月さんは、お茶請けにサーブするスコーンを弄んで、手で崩してしまっている。
「申し訳ない」
「いいんです、無理に食べなくても。苦手な人もあるから」
慣れたはずの、カウンター越しのお客との沈黙もその間も、この瞬間、思いのほか重く感じた。それは、如月さんが黒衣のためだ。
無視していられなくて、その黒衣のことを訊いた。そう踏み込んだ質問でもないはず。
やはり思ったような答えが、易く返ってくる。
「ああ、これから葬式でね」
手袋を外した手は、歯科医師らしく長くきれい。それで顔を拭うように覆う。「憂鬱で堪らない」と。
悲しんでいるようにも、何かに倦んでいるようにも見えた。
「お身内? それともお知り合い?」
 
「僕の子供。白水から奪った女性が産んだ、僕の子供だよ」
 
答えは、さらりと落ちてきた。
 
え。
 
崩れたスコーンの皿を下げる、わたしの手が止まった。
驚きにひと時、時間が凍る。皿がティーポットに触れ、甲高く鳴った。その音に、はっとする。溶けた時間が、ぐしゃりと流れ出す。
「僕が背負ってきた、これからも背負う事実だ」
顔を上げた彼が、わたしを見た。
一瞬で目をそらし、つぶやくように、できたら一緒に来てくれないか、と言う。





        


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