対価
見つめるだけの(10)

 

 

 

「お城で、榊殿お会いしました」

母上のお点前でのお茶の席をすべり、雨上がりの庭を歩くわたしの隣りで、静香さまは、お名前のように静かにおっしゃった。

きらきらとした雨の粒がしずくになり、昼から差し始めた日の光を受けて枝や常緑の葉がちかりとまぶしい。ぴかぴかと邸の黒瓦が光っている。

わたしは静香さまのお声に、ちょっと瞬いて応えた。

顔を上げ、ほんのそばにある彼の切れ長の瞳に会い、「そう」とだけ口にした。

「詰め所〔大名の控え室〕へ参るお廊下で、擦れ違ったのですよ」

そこで静香さまは、くすりと笑みをもらされた。すっきりとした若菜色のお羽織が、お顔から喉元の線に流れるようにまとまり、涼やかで凛々しく、とてもお似合いだと思う。

目にしむほど、まぶしい。光を受けたしずくのように感じた。

「何ですの?」

「おかしな御仁だ。あの方は…」

擦れ違う際、伊織は静香さまに「ときに、御家の跳ね駒はいかが?」と問いかけたという。なぜ伊織が柚城家の馬〔駒〕などを訊くのか、静香さまには意味がわからずにいると、伊織の扇子の手を頭の後ろに当て、「このようなの」との返しがあった。

「まあ」

それはきっと、わたしの出稽古のときの束ね髪を示しているのだろう。ちょうど馬の尻尾のようだと、伊織は言うのだ。しかも、「跳ね」と加える辺り、じゃじゃ馬であるとも言いたいらしい。

「妙なことを口にされました」

「え」

わたしは足元の飛び石に目を向けていた。履物がぬれた石にずるりと滑る。身体をくらりと揺れさせると、静香さまのお手が伸びた。

すんなりと伸びたその手は大きく、すっぽりとわたしの手のひらを包んだ。同じく剣になじんだ手であっても、伊織の指はもっと節高く、長いその先に大きな爪があった。

そんなことを思い出し、不意にそれが余計な記憶を呼んだ。あの満月の宵の、重なった唇が、今静香さまに預けた手の温もりくらい切実に、甦った。瞬時に顔が熱くなる。

嫌だ。

まぶたをぎゅっとつむる。そんなことで、わっと甦る記憶を逃れようとしている。

「『いつでも手綱は替わる』と、榊殿は言われた」

わたしはうつむいて、顔の赤さと、胸の動悸を隠そうとした。

返事をしないわたしに、静香さまは、わたしの様子をうかがい、

「あなたを駒になどに喩えて申し訳ない。気を悪くされましたか?」

と、おっしゃる。

「いいえ。だってそれは伊織が言ったのでしょう? 静香さまのお言葉ではないわ」

「随分仲がよろしいようですね。あの重責の方を、名で呼び捨てになさる」

口調はやんわりと優しい。いつもの静香さまの穏やかで静かなお声。けれどその中には、微かにわずかな問い掛けが混じるのを感じる。

なぜ? と。

「わたしは、返事をできなかった。彼の方でもそんなものは期待していなかったようで、目礼をしただけで、すぐに去って行かれた」

あれは…、と静香さまが言葉をつなぐ。「言葉のあやなのか、冗談なのか…」。

気まずさに、走り出して、どこかへ消えたいと思った。静香さまに預けた手が、ふうわりとした束縛の中でぎごちなく固まるのだ。

「それとも、言葉通りの意味なのか…。わたしには、そちらに取れてならない」

「違うわ。あれは伊織が冗談で言ったのだわ。いつもそうだもの、…」

「冗談で口にできる種のことではない。わたしは柚城へ来て歳月も浅い。しかし、跡目として据えられ、あなたの背となる以上、あのような言葉は聞き捨てならないのです」

静香さまのお言葉の一つ一つが、胸につぶてのように打ち付けられる。

「妻になる人には、誰であろうと、無頼のような声を受けてほしくない」

どこまでも穏やかなその声は、つきん、つきんと胸を刺す。責めるのではなく、諭す風なそのお言葉は、わたしを恥ずかしさと気まずさで、泣きたいような気持ちにさせる。

長子のせいで、静香さまはご不快だったに違いない。大身の藩の、わがままばかりの跳ねっ返りの姫と、呆れていらっしゃるのだろう。

「詰まらぬことを申し上げた。あなたを守る義務があると、心得ているのですよ。義兄としても、許婚としても…」

柔らかな笑みをにじませた声に、ようやくわたしが顔を上げると、静香さまの瞳はこちらを離れ、遠くを見つめていた。

頬に浮かぶ、その淡い一抹の色。あえかな、けれどの絶えない寂しさの色。切なさの色。ちょっとばかし、不意に戸惑ったような表情をされるときがあるのだ。

自分のいる場所に、ほんの少し困ったようにわずかに表情を凍らせる。

そんな静香さまの横顔に出会うとき、そんなときわたしは、悲しくなる。

そして、長子のものではない静香さまが、恋しくなる。

その憂いの瞳の先にきっとある、長子の知らない彼のお方の影だ。

 

決して長子ではない。

これからも。

この先も、きっときっと……。

 

静香さまが、つぶやくようにおっしゃった。

「榊殿は、きっと長子殿をお好きなのでしょう」

それにわたしは何も言わなかった。聞こえなかった振りをして、そばの枝をいたずらに引き、飛沫を弾かせて笑うのだ。

何でもないかのように。

胸の痛みなど、自分で押しつぶして消すように。

遊ぶようにそうやって、するりと指を静香さまの手のひらから外した。手を取って下さるお優しさも、その温もりも、長子に辛いから。

ふと、そこへ静香さまを呼ぶ近習の者が現われた。静香さまが橘家からお連れになった供の一人だ。

控えた彼は、「何か?」のお声に、耳打ちをすべく立ち上がる。

わたしはその気配で、「では」と、踵を返しかけた。内密のお話でもあるのかもしれない。

「よい、そのままで」

静香さまの声は、わたしの動きを止めた。敢えて、わたしの前で聞こうとなさったのだ。その思いやりに、頬が緩むほどに嬉しい。

振り返ると、近習は、ちらりと視線がうかがうようにわたしをのぞいた。

「構わぬ。申せ」

繰り返す静香さまに、近習のしばしの呼吸の後、声が聞かれた。

「彩成(あやなり)君が、篤きご病気にて…」

耳にしたことのない名がほろりと飛び出し、虚をつかれたけれど、すぐにそれが、静香さまが橘家に残された幼い御子のことだと気づいた。

絶句した静香さまの前に、高熱が長く続くこと、衰弱されていること、寝もやらず付き添うご生母の元奥方のお困りのご様子などを、近習は告げた。

わたしは思わず、静香さまのお顔を見上げた。動かない瞳は何を見ているのだろう。少し開いた唇も、言葉がこぼれずにそのまま。

ややあって、珍しいほどの怖いお声が唇を発した。「わたしに何ができる?」。

「なぜ、知らせる」

きつく寄せられた眉根。そこからにじむやるせなさ。色をなくすほどに噛んだ唇も。

そのご様子を、わたしは一番お側で見つめている。

堪らなくなった。

長子には、何もできない。

して差し上げる術がない。

こんなお側にいながら、静香さまはとても遠い。

 

 

静香さまの御子のご病状のことは、すぐに邸内に広まった。父上もお聞き及びになり、不憫がり、様子なりと探らせるよう、静香さまに言われたという。

「こちらからも、匙〔医師〕なりと遣わせよう」と、指図される。それを静香さまはどんなお顔で、お気持ちでお聞きになったのだろう。

いとけない若君のお身体を思い、そして寝食を捨て看病に当たられるという先の奥方を思えば、柚城にあるご自身の身の隔たりが、いたたまれないようにお苦しいのではないか。

そして、それらを思い、耳に『なぜ、知らせる』という、低い静香さまのお声が甦るたび、わたしも気持ちが沈んだ。

あのご様子を知らなければよかったと、どれだけ思ったか。あのお声を、聞かなければ、どれほど楽だったか…。

そうして、やはり結局、自分の都合ばかりを考えてしまっていることに気づき、嫌気が差すのだ。真の意味で、わたしは静香さまのお心を思いやって差し上げていない。

 

伊織からは「念のために、出稽古はしばらく控えろ」と言われていた。それももっともなこと。あの恐ろしい目に遭うのは、確かにもうたくさん。

けれども、すべきこともなく、鬱々と邸の中で過ごす日々に気が滅入った。

梅の花がちらほらと咲く頃合になり、叔母さまから不意にお遣いがあった。彼女の庵で咲いた梅を愛でようというお誘いに、二もなく頷いた。

早春の縮緬の振袖に着替え、帯を締めると、娘らしくどこか気分が華やいでくる。

そんなことに、やんわりとした後ろめたさを感じる。静香さまは、病の御子と先の奥方を思い、今もお心を痛めておいでなのに。お悩みであろう、と。

爺やのみを連れた出稽古とは異なり、この日は供もそろえた駕籠に乗る。

頭の物思いの靄を、駕籠の揺れと、のぞく外の景色の清々しさで紛らそうとするのだ。

白金の叔母さまの庵につく頃には、ほどなく気持ちが上向きに、軽くなってきた。

どうにもならないことを、詮無く悩むのは止めよう。

静香さまのお心もお悩みも、感ぜれど、所詮長子の見えない世界にある。形のないお化けのように、思い込みで胸を勝手に不快で巣くわせているだけだ。

そして見えないから遠く、あの方の本音の声が怖いだけ。

 

叔母さまの居室に案内されると、桟を幾筋か渡した丸窓から、ちょこちょこと芽を吹いた梅の様子が見て取れた。

叔母さまと供にそれを眺め、他愛もないことを喋った。

「わたしはあれを見ると、猫の脚のまめを思い出すわ。ほら、指で突くと弾むみたいな、柔らかい、ほら」

朗らかな叔母さまのお声はその後で、思いがけないことをあっけなく告げる。「そう、先ほどまで、伊織殿がいらしていたのよ、ちょっとした御用で…」

「ふうん」

「徒歩のお一人でいらしたから、まだ恵向院の森を通っていらっしゃる頃でしょう」

そんなことまでおっしゃる。まるで、わたしに追えとでも言うかのよう。知らぬ顔で、お茶を飲んでいると、

「あなたは「巻き込まれた」、「迷惑だった」と考えているだけでしょうが、伊織殿はあのお立場で、長子の跡を追い、危険のないように図って下さったのですよ。お礼は申し上げたの?」

伊織が話したのだろうか、叔母さまはわたしが襲われかけた一件を、すっかりご承知のようなのだ。

「申し上げていないのでしょう? 長子のことだから」

叔母さまの呆れを含んだ声音に、はっとなる。

確かにあの夜、伊織がわたしの前に現われたのは、絶妙過ぎる頃合だった。様子を見ていなければ、あの場にあの瞬間に現れるのは、難しい。

しばらくしてやってきた沢渡家の侍たちといい、周到だ。

叔母さまは、伊織がそのように計らってくれたのだという。

そんな素振りは見せなかったけれど。ただ、爺やの手柄のように褒めただけで……。

そうなのだとしたら、ありがとうの一言もないのは、やはりはしたなく、恥ずかしいかもしれない。

唇についたお餅のきな粉を指で払うわたしも、叔母さまのやんわりと厳しいお声に、そろそろ居心地が悪くなってきた。懐紙で口許を押さえ、しぶしぶという形で腰を上げた。

そういえば、伊織には訊きたいこともある。

 

 

叔母さまの庵の裏手から入る、恵向院の広大なお社は木々がよく茂り、足を入れると、まるで森に入ったかのような錯覚をするけれども、境内には、小道が幾筋か通り、その上には砂利もまかれ、幟や順路を示す立て板の類も見える。

裏手からほどなく、大きな緑色の水を湛えた池があり、それを立派な橋が渡っている。その橋を渡る手前で、向こうに一人、伊織らしき背中を見つけた。

息も上がっており、何より着物の裾が割れそうで、走りにくいことこの上ない。どうして袴で来なかったのかを悔やんだりした。

そこで、屈んで小石を拾った。それを背中目がけて投げた。外れたそれは、かんと木の欄干で跳ね、ぼちゃりと池に落ちた。

もっと大きな石を、と再び屈み、手に握る。ややして手の中の物を投げつけようと腕を上げたところで、振り返り、数歩こちらに踏み出した伊織と瞳が合った。

「おい、殺す気か?」

それが癖の、こちらを見るやんわりと凝らす瞳。唇の端に浮かぶ薄い笑み。

「え」

伊織の声に手の中の石を見ると、確かに大きい。当たったならば、ひどく痛いに違いない。

 

伊織は側まで来ると、欄干に羽織を纏った背を預け、「何の用だ?」と訊ねた。

わたしは手のひらの石を捨て、代わりに両の指を組んだり解いたりしながら、叔母さまの許を訪れたことと、彼女が伊織に以前の宵の件で、きちんと礼を言うように告げたことを話した。

「ありがとう」

それに伊織は、言葉ではなく唇に乗せた笑みで応えた。

言いたいこと、訊きたいことを口にしかね、ちらりと伊織を見る。目が合うと彼は、やっぱり憎らしいことを口にする。

「そんなものほしそうな目で見るな。いつも俺が、姫に団子をやれる訳じゃねえ」

「団子なんか要りません」

伊織は薄花桜色の羽織を着ている。そんな藍ににじむ色が、彼にはよく似合う。わたしを見る、笑みを含んでほっそりと凝らす瞳の加減で、ふわりと和む、涼やかな面差しに映える気がするのだ。

彼は袂に手をやった。煙管を取り出すのだろうと思った。火を点けていないでも、よくくわえていることがある。

「ほら」

不意に取られた手のひら。その上に、彼は紙で織った小さな鶴を置いた。

自分で織ったのだろうか。それを伊織のような人が、どういう経緯で袂にしまいこんでいるのだろう。

おかしさが込み上げ、どうしてだろう、ほっと気持ちが楽になる。

わたしはその鶴を眺めながら、彼に訊いた。なぜ、お城で静香さまに妙なことを言ったのか。何のつもりだったのか、と。

伊織は事もなげに、

「気分を悪くさせてやりたかっただけだ」

「あんなおかしなこと、言わないで。静香さまは、伊織の言葉でご不快だったわ。冗談で口にできることではないと、お困りで…」

「知るか」

「まあ」

伊織のこういう不遜なところが嫌い。わたしはふくれ、彼から顔を背けた。

ふと、ぢぢっという鳥の声に混じり、冷たい風が吹いた。それに呼ばれるように、ばらばらとにわかの雨がざっと通る。

「あ」

伊織の腕がわたしの肩を抱いた。

その仕草に身体が揺らぐ。引き寄せて、自分の胸に頬を預けるようにさせた。驚いて身を離そうとした。それに彼の腕が強く長子の背を押し、

「じっとしてろ、すぐ止む」

その声に、わたしが髪や肩をぬらさないように、自分の袖で雨をしのいでくれているのがしれた。

伊織のくれる優しさは、呆れるほどに唐突で、そしてちょっとわかりにくい。

それでも、気持ちがざわめいた。不意に、以前の宵を思い出し、ほんのり怖くなるのだ。

一瞬で過ぎた雨の後、その優しさの礼を述べようと、彼を見上げた。わずかに口を開いたと同時に、「あまり、見るな」と言う。

嫌な目の色をしているから、と。

彼の視線は、やはり少し凝らし、池の長く続く波紋を見ている。そう見える。

「…ほしくて、焦れている」

「え」

言葉に詰まり、わたしは返事をしなかった。

わたしは伊織のくれた直接な声の熱に、うっかりとのぼせたように、頬を赤らめているばかり。彼の腕を解く余裕がない。言葉が、頭を胸を、ずきんとずきんと響いている。

嬉しいのだろうか。

唇が重なる。それを避ける、抗う力は、彼の胸に押し当てた指先から溶けた。

 

それとも悲しいのだろうか。

 

頬を滑る彼の指が、輪郭をなぞる。

ほんのり離れた唇が、吐息と共にまた戻るとき、わたしの瞳から涙があふれた。

伊織の指がその涙を払う。「泣くな」と、まぶたに暖かく口づける。

涙の意味は何だろう。自分でも心の探りようがない。わからない。

「どうした?」

「……静香さまの…、橘の御子が、篤いご病気になられたの。それを…あの方がお知りになって…」

なぜと涙の訳を問う伊織に、粗く探した一番適う答えが、静香さまの憂いだった。だから、わたしは叔母さまのお誘いに、憂さを晴らすため、一も二もなく足を運んできたのだ。だから、今ここにいる。

そう思い至ると、あのお庭での鋭いお声が容易に耳に甦る。『なぜ、知らせた』。あのときの静香さまのお顔。見たくない、痛々しいばかりの……。

それがお可哀そうだから。辛くて、長子はお側にいられないから。

ふっと、腕が解かれた。

あ。

「その涙なら、俺は拭わない」

伊織は言葉短かにそう言った。「送らない」とも。

瞳の色を見る暇がなかった。あっさりと彼が翻した背に、それも消えたから。

手のひらの折鶴。

残ったそれをわたしは潰さぬよう、けれど握るのだ。




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