いばらの森
見つめるだけの(9)

 

 

 

重なった手はすぐに離れた。

 

ひゅんと空を切る音に続き、耳に轟くように剣の奏でるざわめきが届く。触れ合い火花を散らすそれを、わたしは肌が粟立つほど恐ろしいと思った。

自らも竹刀を振るい、まるでいっぱしの使い手であるかのように自惚れていた自分が、伊織の背中で震えている。腰に帯びた脇差など、まったくの飾りでしかないのに、このとき気づいた。

泣き出したいほどの恐怖を、わたしは唇を噛んで耐える。真剣のやりとりなど長子は知らない。恐れと怯えに、まなじりに冷たい涙が浮かぶ。

宵にきらりと閃光を走らせた伊織の剣が、高い位置から相手の斜めに袈裟がけに斬り下げたのが見えた。

瞬時に呻くような声がもれ、ずさりと地面が擦れる音がした。伊織の肩の向こうに、地に膝をついた男の影がうかがえた。

思い切った踏み込みとそれによる威嚇、大胆な剣使いは見事なほど危なげなく、まるで目の前のあっけない埃でも払うかのよう。

幾度か彼は、道場でわたしに剣の稽古をつけてくれたことがある。けれどもその際彼が長子に見せた剣技は、わたしの力に合わせあしらう、まるで小手先の、上っ面のものであったと知れるのだ。

まったく違う。鋭さも迫力も、強さも。

「次」

目が目の前の光景に吸いたように離れない。怖いのに、目が離せない。鮮やかで、見ていたくなる。

『俺に任せろ』。

伊織の言葉には何の脆さもない。するりと心の大きな恐れが、緩みそうになる。

徐々に慣れ始めた暗闇に浮かぶ伊織の衣の桔梗が、ちょうど相手方の剣を払って揺れた。かんと薙ぎ飛ばされた刀は、数歩向こうへ、がちゃりと音を立て落ちた。

「二度目は斬る」

その声とかぶるように、背後から足音が続く。

新手かと、芯から震えたけれども、歴とした家紋の入った灯りを持ったその人々は、早足にこちらに向かって来るようだ。幾人いるのだろう。伊織の名を呼んでいる。

灯りに晒された四人組は、頭巾で覆面をしているものの、思いの他身なりが卑しくない。誰なのだろう。いずれかの家中の者に見える。

受けた太刀は峰打ちばかりか、各々腕を押さえ、または地に膝を着いたりするけれど、大きな怪我がないようだ。「二度目は斬る」との言葉通り、敢えて伊織は深手を負わせる気がなかったように思える。

伊織はそろった柏紋灯りの人々に、振り向きもせず、四人組の前に立った。刀は右腕に鞘に収めずに提げたまま。なぜか、覆面を外すことを求めない。

彼は自分の名を名乗り、

「お前らの主人に伝言がある。これ以上の手出しは無用。お門違いだと」

そう言い、彼はまるで去れとでも示すかのように、剣を腰の鞘に収めた。かちゃんとその鍔鳴りがした。

 

「俊輔は?」

伊織はわたしに振り返ったが、瞳がちらりとわたしを撫ぜただけ。その後ろの柏紋の侍に声をかけた。

「邸でお待ちになっておいでです」

「そうか、じゃあ邪魔するぜ」

その声に頷いた侍が、先ほどの四人組が去った、境内を抜けた藪に灯りを向けている別の侍を呼んだ。

この彼らは誰なのだろう。榊の紋所とも違う。それにわたしを襲った四人組は、何者なのだろう。何の目的で?

そして、伊織はどうしてここに現われたのだろう。

疑問と謎で、頭の中がくるくると回りそうに混乱している。

不意に、頭をぽんと手のひらの感触が叩いた。

顔を向けると、伊織がわたしの前に背を向けて屈んだ。「乗れ」と言う。おぶってやると。

「大丈夫、歩けるわ。それより…」

「遠慮するな、甘えとけ」

「え」

「いいから早くしろ。まだ震えているくせに」

袴の中の二本の脚が、思いの他ぎこちないのだ。ぎくしゃくしているみたいな、ふわふわとおかしな感触。

「う、うん…」

わたしはおずおずと伊織の肩に手を置いた。甘えを許してくれているその広い背が、ほんのりと嬉しい。

身を預けると、暖かな伊織の温もりが伝わる。それに、思わず引きずられるように、ほろほろと気が緩み、瞳を涙がほとばしった。それは背の衣をじゅんとぬらした。

伊織が実に具合よく現われたのは、わたしの爺やからの連絡があったのだという。

「ここ数日、姫の跡をつける侍がいるって、な。忠義者の爺やに、礼を言っておけよ。俺に知らせに走るなんて、なかなか目が利くじゃねえか」

そうだったのか。それで今日出歩きの際に、爺やがいなかった訳だ。きっとその頃、伊織の許に参じていたのだろう。

「うん…」

涙の気配が伝わったのか、伊織がちょっと歩を止めた。「おい…」

「怖かった。斬られるかと思った、怖かったの…」

しゃくり上げるわたしの声に、伊織が顔をややこちらに向けた。

「悪かった。俺のせいだ。すまん」

「怖かった」

「すまん」

どうして謝るのだろう。危ないところを助けてくれたのに。伊織が来てくれなかったら、わたしはきっと斬られていた。

なのに……。

なのに、涙が引き出してくるやり場のない気持ちの昂ぶりは止まらず、嗚咽に引き攣れた声で、

「父上にお叱りを受けたわ。…長子は、わがままだって、無理を言うなって。春には祝言を挙げるのだって、ご公儀にも、もうお許しをいただいたのだって…」

なじる思いと甘えが混ざったそれを、伊織は沈黙で返し、やはり、

「すまん」

と言うのだ。

わたしはその詫びに返事もせず、彼の背に頬を預けたまま、心地のよい安堵の涙に埋もれていた。

 

 

伊織がわたしを連れたのは、叔母さまの庵ではなく、武家屋敷の体裁を取った小ぶりな館だった。門を入り、中には確かに灯された灯に柏紋が見て取れた。

その館に着くと、伊織はわたしをお玄関に下ろした。土間には既にその主と知れる人物が腕組をし、落ち着かなげに立っていた。

「ここは?」

と問うと、伊織が

「沢渡家の邸の一つだ」

「今はあの」と腕組みをした殿方を顎で示し、「俊輔がたまに使う」と言った。近いからとっさにこちらを選んだと。

俊輔と呼ばれる殿方は、自分は沢渡家の子息だと言う。年頃は伊織と似たようなものだろうか、肌の白い理知的な印象の人物だ。彼はわたしの素性を了解しているらしく、細々と具合を聞き、部屋に落ち着けるように取り計らってくれた。

通された墨絵のお軸の掛かる間は、華美さのない設えが施されていた。少し湿気たにおいがする、と思えば、いつ振り出したのか、外から、雨戸を打つ雨の音がぱらぱらと聞かれる。

「大変な難儀でございましたな。お楽になさいませ。姫のお父上はよく存じております」

「お世話をかけます」

「こいつは、御小姓頭取〔小姓をまとめ将軍の側に仕える〕で、周旋に慣れている。気にするな。少し手間をかけてやった方が喜ぶ性質だ」

「お前は、人に手間を掛けさせるのを喜ぶ性質であろう」

伊織のこんなところでも偉そうな言に、俊輔殿もあっさり返す。彼の無作法に慣れたごく親しい間柄なのだろうと、知れる。

お座布団に座るわたし、縁側の敷居際に立ち懐手に腕を組み、やや背を向ける伊織。その間の俊輔殿は、落ち着かない様子で伊織に視線を流し、

「おい伊織、事はどうなっているんだ?」

伊織はそれに応えず、ちらりとわたしに向き、「姫、俊輔に『馬面』は禁句だ。怒り出すからな」などと、にやりと唇を曲げて笑う。

「何を馬鹿なことを」

「真実だろうが」

「狐顔が何を言う」

二人の明け透けなやりとりに、親しげな雰囲気が漂う。きっとごく親しい友人でもあるのだろう。

それにしても、細面の俊輔殿は、馬になど似ていない。伊織は何をもってそんなことを言うのか。

「若林さまは、どうなのだ?」

ぽんと出た老中である若林さまの名に、わたしもきょとんとなる。彼のお人が、何か今回のことで絡むのだろうか。

次々に急くように問いを重ねる俊輔殿に、伊織はなぜか珍しく不機嫌に焦れて、

「うるせえな」

と声を尖らせ睨む。その斜めに向けた頬からの鋭い様子が、意地悪な狐に似ていなくもない。俊輔殿は上手いことを言う。

伊織に乱暴に話を打ち切られた俊輔殿も、黙ってはおらず、

「こちらは心配して言っているんだ。お前は、身を考えない軽々とした振る舞いが過ぎる。今夜のことも、彼の御仁が関与するならば…」

「うるせえな、馬面」

また伊織が、俊輔殿の話を無茶に遮った。自分で禁句だと言っていた『馬面』を連発するから呆れる。

「黙りやがれ、馬面」

「何を」

そこで俊輔殿も声が荒くなった。片膝を立て、今にも伊織につかみかかるような仕草を見せた。

二人の剣呑な雰囲気に、長子の居心地が悪くなったのも束の間、俊輔殿のお顔を見て、思わず頬がほろっとおかしさに緩んだ。それまでは感じなかったのだけれど、怒って歯をのぞかせた横顔は、細面と相まって、確かに少し、ほんの少し馬に似ていなくもないのだ。

いけないと思い、すぐに手で緩む口許を押さえた。

「やっと、笑ったな」

つぶやくような、微かな伊織の声。それが聞こえた。

「え」

わたしを笑わせようとした……?

瞬時彼と目が合った。伊織はそれをすぐに外し、組んだ腕を解き、ぱんと両の手のひらを合わせ、俊輔殿に向かい、頭を下げた。

「すまん、俊輔。悪い、この通りだ」

伊織の急であっさりとした詫びに、俊輔殿はきょとんとし、すぐ硬い表情を緩めた。

「気が立った。すまん」

「ま、…わかればよいのだ」

お優しい気性なのだろう。そして伊織のこういった態度にも慣れているみたい。さらりと剣呑な雰囲気を流し、俊輔殿は改めて問う。

「それで、お前の考えは図に当たったのか? 確かに若林さまが?」

「ああ。あの侍の一人は、見覚えがある。間違いない」

今夜のことは、老中である伊織が、江戸の花街に関する御定めを起草したことが、事の発端という。

「簡単に言うと、あれだな。苦界に生きる者たちに、雇い主が読み書きを習わせるということだ。遊廓、置き屋、陰間など、いずれも。区別ない」

わたしが不審な顔をしたのだろう。俊輔殿が補足してくれた。

「姫は想像もつかないでしょうが、花街には、読み書きのできない者も、多くいるのですよ」

確かに想像もつかない。どういう生活を営んで、どういう人生を辿るのか、どれほど自分と違うのか、そんなこともわたしにはわからない。

「そう…、あの『おきや』と『かげま』の意味がわからないわ。遊廓は吉原などのことでしょう?」

置き屋は、芸奴を置く店のことで、陰間は男娼がいる店のことだという。

「え、男? そこへは女が通うの?」

目を丸くするわたしに、伊織が笑った。

「男が通うのさ。そっちが好きな男もいる。若林さまの趣味はそっちだ。ある陰間の常連であるらしい」

「あ」

そういえば、伊織はそんなことを言っていたような気がする。若い元服前の男が好きだとか……。

「俺が今度の案の起草に当たって、いろいろ町奉行に調べさせた。それを面白く思わなかったのだろう。今の上様はそっちがお嫌いだ。俺が上のお指図で、身辺を探っているとでも勘繰った。そこに、姫の登場だ」

伊織の行動を見張らせるうち、剣士姿のわたしが現われる。それを、若林さまは早飲み込みで陰間の少年男娼の一人だと思い込んだ。

「世間は狭い。御大尽の頻繁の贔屓は、隠しても話題になる。自分が上客の一人だと露見してしまう。だから早いうちに、俺が握る証人を消してしまおうと思ったのだろう」

それで、今夜の襲撃につながると。

わたしはうつむいて、伊織の話をよく咀嚼した。つむじに、

「すまん、だから、今夜のことは俺のせいだ」

と、伊織の声が聞こえた。

よくわかった。

でも……。

「ひどいわ、男娼と間違えるなんて。わたしは女子です。それは袴も着けるし脇差も挿すわ。でもひどいわ。遠目でも間違えるだなんて、無礼だわ」

伊織がなぜか大笑いした。肩を揺らすほど笑い、「そっちかよ」とおかしそうにしている。

 

「俊輔、ちょっと外してくれ」

 

そんな声が聞かれたのは、伊織が笑いを納め、ほどない頃だ。「ああ」と頷いた俊輔殿が、するりと部屋を出て行った。

足音が遠ざかると、伊織はわたしの前に屈んだ。

「悪かった。怖がらせた。ぶってくれて構わん」

灯に浮かぶ伊織の表情は、わたしの知るこれまでの彼とは、微かに違う色をしている。僅かに凝らした瞳も、結ばれた唇も。鼻梁も頬も……。

何が違うのだろう。

「もういいわ。助けてくれたし…、いいわ」

わたしは首を振って応えた。伊織をぶつ気などにならない。彼に怒りなどない。けれど、殿方に手を上げたなど知ったら、母上はどんなお顔をするだろう。凍ってしまわれるかもしれない。

「父上に叱られたと言ったな?」

「ああ…、うん。わがままは許さないって。お怒りだったわ。初めてぶたれた」

何となく、午後父上に打たれた頬に手が行った。痛い訳ではないのに。指で触れる。

「え」

その指を伊織がつかんだ。そのまま引き寄せられた。暖かで、強い腕の感覚は嫌ではない。嫌ではないけれど……。

不意に訪れた口づけに、頭が真っ白になる。思わず、自由の利く手が伊織の頬を打とうとした。それを彼の手がつかむ。

「忘れろ、誰かのことは」

その誰かが、誰であるか。

それ故に胸が痛いのに。

忘れることができたら、どれほどいいか。

承知で敢えて口にする伊織を、嫌な男だと思った。ずるいと思った。

重なる、噛んだ伊織の唇から血の味が舌にしみた。

 

「惚れてる。何度言わせる気だ?」

 

伊織が去った後、わたしは重なった唇に指を置いた。何気なくそれを耳許に流すそのとき、指の腹についたわずかな血が目についた。

「ごめんなさい」

とっさにもれた言葉は、きっと伊織へのもの。

まだ彼の腕の暖かさが残る。まだ唇にも気配を感じる。

なのに。

なのにわたしは、今宵守ってくれたのが静香さまだったら、と。なぜ静香さまでないのだろう、と。

どうして、と。

そんなことで、長子は泣きたくなっているのだ。




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