愛情と怠惰
見つめるだけの(11)

 

 

 

伊織の背中が、潅木に消えた。

わたしは身を返し、ゆっくりと叔母さまの庵へ歩を進めた。びゅっと時おり雨を含んだ風が吹き、縮緬の肩先に水玉を作る。

急に冷えたように感じた。

それに気づいて、ぼうっと頬に熱が上る。さっきまで誰の腕の中にあったか、誰の衣を頬に感じていたか。そして、口づけた鮮やかな余韻は、まだ唇の上に熱い。

それらがさっと目の前からかき消すようになくなり、冷たさを感じているのだ。肩にも、頬にも。

長子は、何を……。

結い上げた頭を、思い切り振る。どうしてしまったのだろう。何をしているのだろう。

唇を両手で覆い、そのとき手のひらから白いものがこぼれた。

地面に落ちたのは、伊織がくれた折鶴だった。ぬれた砂利の上に転ぶそれを、そのままに目を逸らし、やはり戻る。

わたしは折鶴を拾い上げ、帯の間に挟んだ。捨てることは、できないように思えた。

 

庵では叔母さまが、白い飼い猫をお膝に乗せかまってやっていた。わたしの戻りに、ちらりと瞳を合わせ、「お会いできたの?」とお訊きになる。

わたしはそれに頷いて応え、お座布団の上に座った。何となく目を転じた丸窓からは、叔母さまと共に眺めた枝の、梅のふくらみが幾つか見える。

何かが先ほどとは異なるようで、それが何かわからない。

それが気にかかり、違いに気づけないことにほのかに苛立つほどになる。

叔母さまはわたしがぼんやりとしているので、話をゆるゆるとつないで下さった。その中、やはりご承知で、静香さまの御子のご病気のことに触れる。

「お辛いでしょうね、静香殿は。もう橘家を出られた以上、どうして差し上げることもままならず」

早く快復されるとよいと、叔母さまはつなぐ。それに頷きながら、彼女の話が呼んだのか、わたしの喉から苦い涙のもとが、せり上がってくるのだ。

冷えた指で目を覆う。冷たい。そんなことにはっとなる。

叔母さまは、わたしの急な涙に、

「小さい頃は、誰でも病がちなもの。あなたも何度も高熱を出して、皆をはらはらさせたわ。大丈夫よ、お元気になるから。そうすれば、静香殿もお心楽になるでしょう」

彼女はわたしの涙を、静香さまに同情してのものだと取っている。恋するわたしが、ご心痛の静香さまを見ていられずに流す涙だと。

多分違う。

きっと、違う。

涙の訳は、わたしが静香さまの御子のご病気を口にした途端、伊織が手のひらを返すように去っていったこと。「その涙なら、拭わない」と、背を向けたこと。

それが悔しいのだ。腹立たしい。

わたしはそれをぽろぽろこぼれる涙と一緒に、叔母さまにさらした。ひどいと思う、と。思いやりがない、と。確かに悲しむわたしに、何の労わりもなく放り出して。

まるで童のように、「殿方らしからぬ振る舞い」などと、叔母さまにも彼のわるくちを言ってもらいたいのだ。長子は悪くないと、悪いのはあの意地悪狐の伊織だと。

「送らないと、言ったわ。危険だからと、出稽古も禁じるくせに、姫を一人歩きをさせるのは、平気だなんて。…腐れ老中」

叔母さまのぷっと吹き出す気配に、わたしは顔を上げた。

「行きは、元気に駆け出して行ったくせに」

叔母さまはわたしに、涙を拭う懐紙を差し出して下さりながらも、おかしくてならないと、白い歯をのぞかせる。当たり前だけれども、彼女は伊織のわるくちなど口にしない。

「腐れ老中はお止しなさいな」

叔母さまはさらりと、伊織が老中として、これまで幾つも市井の人々のための施策を行ってきたのだと教えた。「その辺を浚っている辺りは、同輩の機嫌もいい」などと嘯き、動機をつまびらかにしないと。

つぶやくような小さな声に落とし、ご出自のことも関わりあるのだろう、と。

「お優しい方よ。だけれども、それを指摘されるのが、お嫌な性質なのよ」

叔母さまのお話にちょっと虚をつかれた。涙も止まる。

「おかしな長子」

ねえ、と叔母さまがお訊きになる。

「あなたの涙は、何の涙? 静香殿のお悩みを思っての涙ではないでしょう」

「え」

叔母さまは猫の背をなぜ、ふんわりと笑う。「拗ねているみたいだわ」。

「伊織殿に放っておかれて、それが面白くなくて、我がままに拗ねているようよ」

「そんな…」

叔母さまのお言葉に、その楽しげな表情に、なぜだか頬が熱くなる。

「嫌だ、叔母さま」

ほのぼのと微笑む彼女から顔を背け、ふっと梅をのぞく丸窓に、瞳が向いた。

 

「あ」

 

先ほど、どうしてか気づかなかったもの。それがそこにはあった。

それがはっきりと目に映ることに、息が止まるほど驚いた。確かに見えていたはずなのに。

ふっくらとふくらみを持った梅の蕾。その幾つかに混じり、小さく花を開かせている一つの桃色。

粒のようではあるけれど、確かに鮮やかにそこに咲いている。それはあたかも、長子の中に芽生えた小さな思いの露のように見えた。

 

伊織が好き。

 

何となく、わたしは帯の間から伊織がくれた折鶴を取り出した。しわになり、折れてしまっている。

叔母さまがそれに気づき、伊織がここで織っていたのだと教えて下さった。

「あなたのことをお聞きしたわ。どうするおつもりなのかも。それをお話になりながら、器用に膝でそんなものを作られて…」

「ふうん」

伊織は叔母さまに何を言ったのだろう。どうするつもりだと。にわかに胸が打ち、苦しくなる。

「伊織は何て? どうすると言ったの? 叔母さま」

叔母さまはそれに答えずに、代わりに、別のことをおっしゃる。大奥の御台さまにお誘いを受けており、それにわたしも連れたいというのだ。叔母さまは請われて、たまに大奥に参上なさることがある。

「お気晴らしには、長子のような外の若い人と話されるのが、薬だと思うのよ。それを申し上げると、お気が乗られたようだったわ」

ねえ、と念押しするので、早く先を聞きたいわたしは曖昧に頷いた。どうせ、叶うかわからない話だろう。御台さまという雲の上の方ご予定など、ふらふらとご気分で、天気のように変わりやすいものに思えた。

それから叔母さまは、視線をふっと流し、笑顔と共にわたしに据えた。

伊織は、「策はある」と告げたという。

 

 

心が目覚めたのがわかる。

何がきっかけなのだろう。何が作用したのだろう。

いつの間にかゆらりと揺れ、当たり前のように違う場所に納まるのだ。慣れた景色も居心地のいい席もない。

ただふうわりと揺れ、風に頼りなく漂うようで、少し怖い。

伊織を好きになることは、やはり、怖い。

日々の中、不意に彼が背を向けたあの恵向院の橋の出来事を思い出す。それは決まって夜更けで、わたしは夜具の中、それを頭に再現してみるのだ。

雨から庇ってくれた彼。当たり前のように、そして唐突に抱き寄せた。髪がぬれないように、肩をぬらさないように、自分の胸にわたしの顔を押し当てるように腕で抱いた。

「…がほしくて、焦れている」

伊織の言葉は、あんなにも真っ直ぐで、時間を置いた今も、ほんのりと熱を帯び、わたしの心を火照らせる。

会いたいと思った。

会ったら、詫びたい。うっかりと、馬鹿みたいにつけつけと、静香さまのことで彼の腕の中で泣いたことを。面白いはずがないもの……。

そして、訊きたいのだ。

わたしの何が、伊織は好きなのだろう。

 

 

梅がわっと咲き始めた、けれどもまだ冷たい風も舞う日、叔母さまと共に駕籠に乗り、お城の北の丸大奥へ向かったのは、日の高くなる前だった。

御門から入り、常の御台さまの御居間であるご休息へ向かう。この御門は午後定刻に閉じられるという。

叶うこともないと思った御台さまへのご機嫌伺いが、するすると実現し、ご縁のめぐり合わせと、何より叔母さまのお力とをしみじみと感じたりする。

よく磨かれた艶光りのする床は、歩くときゅっと鳴る。どこからだろう、焚かれた香のほのかに柔らかな甘い匂いが漂うのだ。

御廊下を抜け、幾人ものお女中が控える、花を散らしたような御台さまの御居間には、きゃんきゃんと鳴く小犬が駆け回っていた。

まだお若い御台さまは、公家の名を名乗られているけれど、一旦公家にご養子に入り、その公家の姫として大奥に入られた、某藩の姫だという。

ならば、元の身分柄はわたしと変わらない。なのに、一方はこうして天下一の貴婦人で、一方は剣を振り回す、気楽な身分のお転婆のわたし。何かの掛け違いで、こんなにも立ち位置が異なってしまう。

その御台さまは叔母さまに会うと、止め処もないほどの泣き言と愚痴をおっしゃるのには、びっくりしてしまった。

度々に会い、叔母さまとは親密な間柄になっていたという。

お若い御台さまのお話を、黙ってつぶさに聞き、あやすように宥めるように、「もっともでございます」とその都度頷く叔母さまを、仏さまのごとく偉いものだと、感じ入ってしまった。

御居間には、華麗なお部屋飾りが並ぶ。

長子には噂でしか聞かない舶来ものらしい不思議な模型や、何か晴れの日であるかのように着飾ったお姿に、同じく美々しいお女中たち。きゃんきゃんと走る、まことにかわゆらしい小犬。ふんだんに供される京菓子。

上様の奥方さま。誰もが憧れる、唯一の御身の上でありながらも、その綺羅の身を嘆き、「堪忍のできかねることもありますの」と、ときに涙を交えておっしゃるのだ。

口には決して出せないながら、そのお立場やご身分を、長子は不思議なほどお羨ましく感じない。

きれいな箱に閉じ込められた華やかな小鳥のように受け取られて、ほんのりお気の毒に思うのだ。きっと長子などには務まらない、窮屈なお暮らしに耐えていらっしゃるのだろう。

ぽつねんと放って置かれ、しばらくすると、おもてなしを受けているのに、退屈で早く御前を下がりたくて焦れるほどになる。

お薄を口に含み、飴玉を下の上で転がしていると、不意にお女中が小走りに現われた。

上様がお渡りになるという。

 

 

「長子は控えなさい。御庭でも歩いていらっしゃいな」

叔母さまのお声に、わたしは助け出されるように思い、座を失礼した。

彼女は御台さまのお話し相手にと、わたしを伴ったのに、肝心の御台さまは、簡単なご挨拶のみで、あとはもうわたしをもう省みられることなどない。

悪意でなく、お話に夢中で、そのお気持ちの余裕がおありでないのだろう。どのみちお話を向けられても、御台さまの愚痴につき合えるほどの大奥の知識もないのだもの、ちっとも構わない。

お許しを得て、御庭を歩いた。晴れ間の空に、からからと華やいだ声が行き交う。その声の主たちが、ちらりとわたしを認め、不思議そうに眺めている。羽織もない振袖の武家の姫らしいなりのわたしを、怪訝そうに見やるのだ。

どこを歩いていたのだろう。お池を巡り、その橋を渡り、大き過ぎる鯉に気を取られ、珍しい花の木や、お城の甍を眺め眺め歩くうち、随分来てしまった。

砂利の道の果ての石段の下をのぞき、面白いものがなさそうなので、身を翻した。口の中の飴玉がもう小さくなっている。

上様はもうお帰りになったのだろうか。叔母さまが探していないだろうか。

そこへ男の声が降ってきた。

「何をしている?」

いけないところに踏み込んだのかと、お叱りを受けるのかと思った。わたしはまったく、『お城』を知らない。

顔を上げると、伊織がいた。

彼は、いつか彼の邸で見たような礼装の裃を纏っている。わたしはどんな顔をしたのだろう。

「あ」

と言ったきり、彼を見つめ上げ、固まった。

「神出鬼没だな」

彼はそう言って、ちょっと笑う。唇の端に乗せる小さな笑みを見せて。神出鬼没というなら、自分だってそのもののくせに。一体、どうしてわたしがここにいることを知ったのだろう。

彼の以前と変わらないわたしへの磊落な様子に、詫びようと思っていたはずの気持ちもどこへやら、霞んでいくのだ。

伊織はわたしの様子に頓着なく、ここは既に『表』に近いと言う。

「途中まで送る。香月さまがお捜しだろう」

そう、わたしを元の道へ促した。伊織はきっと、叔母さまが大奥へわたしを伴われると知っていたのだろう。

けれども、途方もなく広大なお城で、ここで出会う確率は、きっと小さ過ぎる。

『御庭でも歩いていらっしゃいな』と、叔母さまのお声はまだ耳に新しい。

もしかして、……叔母さまが?

 

広々と緑の地面が見渡す遠くまで続く。不意に現れる大きな池。ぐるりとそれを縁取って造作された前栽。見事な意趣のそれらを、伊織は見ているのか、見飽きているのか、何も話さない。

様子をうかがうと、彼は真っ直ぐに前を見ているだけ。

どうして、何も言ってくれないのだろう。

何を考えているのだろう。

声が聞こえてきた。甲高い女の声が間遠に聞こえる。確かに、往きで見覚えのある大きな灯篭が現われた。大奥の御庭に戻ったのだろう。

「俺はここまでだ」

その辺りで、伊織は立ち止まる。

それにわたしは、小さくありがとうと答えた。会ったのなら、言いたいこと、問いたいことがあったはずなのに。

「じゃあな」

あっけなく身を返すその背中に、堪らなくなって、わたしは思わず声をかけた。こんなまま別れたくないのだ。

「また織って」

「え」

果たして、彼が振り返った。やや凝らすいつもの瞳で、わたしを見ている。

「伊織がくれたあの折鶴、帯に挟んで、しおれてしまったの」

だから、また織って、と。

「ああ」と、彼は軽く頷いた。

「それだけか?」

急ぐのだろうか。

そんな言い方をしないでほしい。あの雨の恵向院でのように、突き放すように置いていかないでほしい。

「泣きそうな顔をするな」

伊織の指がわたしの頬に触れた。ちょんと、猫でも撫ぜるような仕草。「ほら」と。

「伊織が好き」

ほろりとこぼれた声に、彼が瞬きを止めた。瞳が微かに緩み、ゆっくりとまなざしを和ませていく。そして和らいだ笑みが唇に頬に上るのだ。

見つめる彼の双眸に、わたしが映る。

何か声がほしい。

答えてほしい。

 

「知っている」

 

伊織がくれたのは、そんな小憎たらしい言葉。こちらが拍子抜けするような、からかわれたような。

あっさりとしたその態度に、ふくれつつも、わたしは彼を怒らせたことを詫びる言葉を言いかねている。あなたの腕にあるときに、守られながら、静香さまへの思いをぬけぬけと口にした自分。気づかなかったとはいえ、きっと醜い。

もうわだかまりも消えた伊織の様子に、言いあぐねているのだ。

ようやくそれでも、「怒らせて、ごめんなさい」と口にする。伊織から返ってきたのは、頭にぽんと置かれた手のひらの感触。

「構わん。何でも受け止めてやる」

ほどなく伊織は背を向け、潅木の向こうに消えた。

伊織のくれた言葉を噛みしめながら、歩く。

歩を進めながら、ふとそれに思い至るのだ。雨の恵向院で伊織の前で泣いた自分。その涙の訳。

静香さまを思っての涙だと思った。そのように彼にも告げた。

けれど……。

あれは、きっと自分の抱えた幾つもの混乱を、ただ伊織にぶつけただけ。何とかしてくれるのではないかと。楽にしてほしいと。

知らぬ間に、長子は伊織に甘えていたのだろう。

震えるわたしを背負ってくれる広い背に。

抱いてくれる強い腕に。

……気づかぬうちに甘えてしまうほど、彼に近い。

そんなことに思い至るだけで、ときめくのだ。

頬が熱い。

耳にわたしを呼ばう声がする。「長子姫、いずこに?」、「長子姫」……、

それらに応えなければ、と思い手を挙げかけ、火照った頬に両の手をあてがう。

ほのかに熱を帯びた肌がぴりぴりと騒ぐ。





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