幸福な時間、幸福な場所
見つめるだけの(12)

 

 

 

お城の御庭で会ってから、伊織とは数度会えた。

不意に執り行われた上様の鷹狩りに御付き合いをしたり、御用が多く、なかなか自由が効かない。

からかわれるたびに、「腐れ老中」の、「いんちき老中」のと口の中で(ときには言葉にも出した)悪態をついていたけれど、そんな忙しい中、わたしのためにこれまで割いてくれた時間の嵩を思うと、その気持ちの重さに嬉しくなる。

 

梅が咲きほころぶ、春の匂うこの日。

そろそろと再開した神柳道場での出稽古も終わりかけに、ふらりと伊織が現われた。編み笠を頭に載せ、大小を挿した着流しのごく気楽な風で。

指南役の相方である、ふにゃふにゃした師範代が彼と竹刀を合わせ、かんと造作なく手許を弾かれると、「わ」とのけ反った後で、それでものんびりと、

「榊殿は、無官でしょう。この剣の腕をもって、仕官なさればよろしいのに。わたしでよければ、口を利きますよ。勘定方〔幕府の予算・経済関連の部署〕に、ちょっとした知り合いがいるのです」

などと言い、身分を伏せている伊織を笑わせた。

「勘定方に、何で剣の腕が要るんだ? 番方〔将軍の警護・軍事関連〕の方だろうが」

「いやいや、とてもあちらには縁故がないのです。あったら、わたしが仕官致しますよ」

伊織が老中であると知ったら、この師範代はどう言うのだろう。それを思っておかしくなったけれど、案外飄々とこのままかもしれない。

稽古の後で、わたしは母上のご用で叔母さまの庵に用があり、伊織はその途中までを送ってくれた。

近道に恵向院境内を通り、森のように鬱蒼ともする中を歩いた。ふと、彼の指がわたしの指に触れて絡むのだ。

池に架かった橋の上で、餌売りから買った麩菓子を鯉にまいた。わらわらと集まるきれいな鯉を、二人で見つめる。

長子がいきなりまき過ぎて、池がその部分白く濁ったのを、伊織がちょっとわたしの頬をぺちりと叩いて笑った。「加減してやれよ」

彼の視線が別に流れているようで、注意を引きたくて着流しの袖を引くと、彼はわたしに、少し離れた橋の向こうにある東屋の辺りを顎で指した。

それに目を向けると、そこには町方らしい男女の姿があった。束の間の逢瀬なのか、寄り添い何かをささやき合っている。

べたべたとした男女のつき合いなど、はしたなくみっともない行為で、見苦しいとされる。けれども会いたい、声も聞きたい、わずかに触れ合いたい。

叶う時間をそうやって折り合い、めぐり合うのが、どうして嫌らしいのだろう。

本物の恋の最中なら、当たり前のこと。もっともなこと。

瞬時に自分を顧みてしまうのだ。長子も同じ。身分だとか、地位だとか、関係がない。当たり前の願い。

「俺たちとおんなじだな」

麩菓子で粉まみれの指を、伊織が取った。引き寄せて、唇を重ねる。

口づけは、そのまま流れて、少しだけきつくわたしの唇を噛んだ。

「下らないことは言うな」

「え」

「あいつの名前は出すな。癪に障る」

「あ」と、それに思い至る。

ここへ来る途中、雑談の中、ふと静香さまの御子のご病気が、幸いにもようよう癒えたことを話したのだ。そのとき伊織は、腕を組んで「ふうん」ともらしただけだったのに。

それを、こんなときに持ち出してくる。不躾な物言いが、ちょっと頭にもくる。

「静香さまをあいつだなんて、失礼な…」

「だから、言うな」

怒っているのか、面白くないのか。意地悪なほどに長く、伊織の口づけが続いた。

どうして、彼はわからないのだろう。

静香さまは、それは好ましい素敵なお方だけど、嫌いになった訳でも、忘れた訳でもない。胸に抱いた面影の質が、重さが、色を変えただけ。

今はもう、あなたのことばかりなのに。

伊織だけなのに。

「や」

息が続かない。

焦れて、わたしは伊織の脚を、思い切り膝で蹴ってやった。

それにちょっと身を離し、軽い舌打ちの後で、伊織は「…色気がねえな」と、苦笑する。

長子に色気がないのはわかっているくせに。子供っぽいのも承知のはずなのに。「色気がほしかったら、深川に行けばいいでしょう? きれいどころに遊んでもらえばいいでしょう」と、そんな憎まれ口がこぼれそうになる。

それでも、長子に惚れているのじゃないの?

伊織はわたしの頬を、ぷみっと猫の子にでもするように指でつまんだ。ほんのりと唇で笑う。

「妬いてる。だから、もう、言うな」

その声に、彼の胸をぶってやろうと、振り上げかけた右の手の力がすとんと抜けた。

 

不思議なもので、誰かと思いを交わすというのは、気持ちをゆったりとさせてくれる。

じりじりと焦がしたはずの、静香さまへの思いは、ふんわりとほのぼのとした柔らかさに変わっていく。それは長子が胸をときめかせたあのお姿や、お声、そして物静かな挙措。それらに変化なく、心地のいい気持ちは感じるものの、どこか違う。

何が違うのか。どこが違うのか。

それは伊織といると、簡単に合点がゆく。

当たり前のように指を絡めるその仕草や、煙管でもくわえるように造作なく、わたしを守ってくれること。それは雨のしずくからであったり、冷たい風であったり、出稽古での無作法な侍の一言であったりする。

ふわりと腕に包んでくれる彼の温もりと、その強さに、確かに、ためらいなく、ときめいて、長子はしんなりとなる。うっとりと、そのままで溶けていたくなる。

そんなときに思い知らされるのだ。

憧れだけの、見つめるだけの恋と。

そばで触れ合って、心の奥が求める恋との、鮮やかなほどの色合いの隔たり。

それらはわたしをほのかに、微かに女にしてゆく。

 

 

爺やから使いの旨を聞き、邸を出たのが午後の早い頃。

「沢渡さまから、白金の方のお邸へお出で下さいますようにと」

沢渡さまとは、幕府の御役職にある伊織の幼馴染のご友人で、以前襲われそうになった後で、その別宅に、伊織はわたしを伴ったことがある。

爺やは使いの文言を短く、つなげた。「榊さまからのご伝言がおありだとおっしゃられます」と。

衣装で少々迷った。

袴が一番楽ではある。けれども出稽古でもないし、俊輔殿にお会いして、またお転婆ななりを見せるのもためらわれた。結局無難に、いつもの友禅の振袖を纏う。

供には爺やを連れ、沢渡家の別宅に着くと、以前上がった部屋に案内され、しばらくそこに放って置かれた。俊輔殿はまだ顔を出さない。

伊織はわたしに何の用があるのだろう。伝言など、一体何を言付けるつもりなのだろう。我が邸に使いを遣ってもいいではないか。

どうして、こんな……。

出された砂糖の干菓子を口に入れ、障子を閉ざした縁側へ目を転じた。あの夜は騒ぎの後でもあり、鎧戸も閉じられ、何も見えなかった。今はそこから外の午後の気配が入り込んできている。

猫が鳴くような声が聞こえた。子猫でもいるのかもしれない。庭を見ようと、障子に手を掛けたとき、後ろから手で目を覆われた。

「あ」

と振り返ると、そこには伊織がいた。身を屈め、指を外すと「驚いたか?」などと笑う。

彼は今日ここに現れないのではなかったのか。だから、伝言を俊輔殿に託したのでは?

それを問うと、「急に時間が少し空いた。だから、会いに来た」と。

彼は織のある花浅黄の羽織に、薄墨の袴を身に纏っていた。ちょっと強引なほど強く腕に引き寄せられるのを感じながら、わたしは彼の袖にあの折鶴がしまわれていたらいいのにと思った。

また折ってほしいという、わたしの他愛のないねだりごとを、伊織は叶えてくれていない。忙しいのであろうし、小さな約束事で、うっかりと忘れているのかとも思う。

けれども、それがほんのり恨めしい。

長子の願いなら、みんな叶えてほしい。

両の頬を挟む手。長い指、節の高いその指。何かの気紛れか、膝で鶴を折る指。それが垂らした髪に絡み、輪郭をなぜる。

指は口づけの最中に首筋に注がれる。それがくすぐったい。肩から流れ、わたしのさまよう指を捉える。絡めて、まるで封じるように強く握るのだ。

伊織の唇が、おとがいから喉に落ちて、わたしは戸惑った。首に触れる柔らかな感触にどうしても、頬に熱が上る。胸の動悸が激しくなる。

「ねえ、伊織…」

絡んだ指が抗うのを許さない。

「ねえ…」

ときめくのに、怖くなる。

伊織はそのままわたしを、畳の床にやんわりと倒した。

「上方へ行く」

「え」

絡んだ指を解き、伊織はわたしの上から頬をするりとなぜた。唇に指を置き、その輪郭を辿るように指を滑らせる。彼の、ほんのりと凝らした瞳が、すぐそばにある。

わたしを、見ている。

 

「契っておきたい」

 

返事をする間もなく、伊織はつなぐ。「嫌なら、止す」と。

言葉を返せず、わたしは凍ったように横たわったまま。伊織を見つめていた。

「姫のそばにいる『静香御前』が癪でならん」

そんなことを言い、ちょっと笑う。瞳から鼻梁に影ができ、恋しい面差しが、表情を変える。冷たいほどの熱のある視線に、やはり言葉が出てこない。

伊織はもう一度繰り返した。

「嫌なら、止める」

他人の邸、明るい午後。そして何の用意も心構えも、覚悟すらない。そんな中で、伊織はわたしを求めているのだろうか。

それが腹立たしく、たとえようもなく恥ずかしくもあり、わたしは戸惑っているのだ。

自分の都合ばかり。「嫌なら、止す」なんて、簡単な言葉をくれるだけ。

伊織はひどい。

何度かの瞬きの後、唇を噛んだわたしに、伊織の言葉が降ってきた。

「俺と夫婦になるのは、嫌か?」

それに胸が、どきりと鳴った。

そして嬉しくて、ほろりと頬が緩む。

「奥方にしてくれるの?」

「ああ」

伊織はわたしの頬に指の背を這わせる。やんわりとしたその動きに、わたしの答えを待つのを感じた。

「俺しかいないだろう?」

そんな偉そうな口を利く。

自然、わたしは首を縦に振っていた。「ええ」とつぶやく。

それは、はらっと心からこぼれた。口をついた後で、何の迷いもない答えに思えるのだ。

間違いのない恋だと。身を委ねることに、ためらいは要らないと。

長子は、伊織の奥方になりたい。

 

帯が緩み、着物の前が割れるとき、視線を感じることの痛いほど恥ずかしさに身体が震えた。泣き出しそうになる。

逸らした視線の先の床に、解かれた衣が散っている。華やかな友禅のそれと解けた帯と、伊織の花浅黄交わるように横たわるのが見えた。

彼の指が触れたあらわな肌は、触れるそこだけびくりと熱を持つようにあつい。

乳房に置かれた手は、ふっくらとしたそこを優しく包む。そしてなだらかに指が流れ、脚に滑っていく。

いつしかわたしは、伊織の背に腕を回していた。瞳を閉じ、滑らかなその肌に指を置き、ときに耐えがたいはにかみに、彼の肩に腕に歯をあてがう。

「噛んでも構わん」

「痛いでしょう?」

「痛くてもいい」

遠慮がちに肌にあてがった歯は、次第に深くなった。彼が、しっとりと熱を帯びたようにも感じる女の部分に触れたから。柔らかく、優しく肌に沿って指先が留まる。

まぶたの裏が熱い。頭が熟れたように、熱っぽい。そしてわたしの芯が潤んで、溶けそうになるのだ。

伊織の触れる全てに、身体が火照り、ちりちりと堪らない疼きを感じる。それに思わず小さな声を上げた。

「可愛い声で啼くな」

どこか笑いを含んだ伊織の声に、腹が立ち、唇を置いた肌を強く噛んでやった。

長子はおかしい。

羞恥で目も開けられないほどでいるのに。もれそうな声を殺そうと、奥歯を噛むのに。触れてほしいのだ。

いつまでも、伊織に肌で抱いていてほしいのだ。

あなたになら、あなたにだけ。

 

上方へはいつ立つのかを訊いたわたしに、彼はあっさりと、「この後で」と答えた。幕府の御召抱えの御用船で立つという。

契った後で、しんなりしたままのわたしの身体を抱き起こし、伊織は自分の膝に乗せた。包むように抱き、自分の羽織を素肌の肩にかけてくれる。

「しばらく会えない」

と言う。

伊織が発案の、上方で試験的に行っている幕吏登用制度を視察するためのもので、大阪に着き、そこから都へ入り、他にも御用が重なり、京都所司代などを回ると告げた。

「幕府も、いつまでも金の出る小槌がある訳じゃねえ。能のない旗本で用が足らんのなら、直参にこだわらず、登用の裾を広げればいい」

それでまず上方でそれを行い、結果次第では江戸にも取り入れるという。

だから、しばらく会えないと。

政務の話をする彼は珍しく、ちょっとだけ、表情も声も厳しく改まる気がする。そんな伊織も、凛々しくて好き。

けれども、今はそんな風に、気持ちを切り替えてほしくないのだ。長子だけを見てほしい。

上方という地名が彼の口から出たときから、自然にその距離と、自分との隔たる時間をとっさに感じていた。
どれほどかかるのだろう、どれくらい……会えない?

「どれくらい?」

そう訊きながら、いまだ熱のこもる身体は素直に、すぐに涙をこぼしてしまう。伊織に会えないのが辛い。

長子を放って置かないでほしい。

「一月ほどだろう。…もっと長くかかるかも知らん」

思いの他長い別れに、ぽろぽろと頬を伝う涙を、伊織が指で弾いた。恨めしげに見ると、彼の唇が、ほのかに笑みを含んでいる。

おかしいのだろう、わたしが泣いているのが。目が赤いとか、頬が膨れているとか、きっとそんなことで笑っているのだ。

ひどい、全部伊織のせいなのに。腐れ老中。

睨んでやると、それでも表情を変えない。ほんのり凝らした瞳で笑みを浮かべ、頬の涙を拭い、わたしを見ている。「いいものだな」とつぶやいた。

「別れを嘆いてくれる女の顔は。拗ねて、愛らしくて…目が離れん」

それに心の芯がじんわりと、春の花の色に染まるのを感じる。

涙の頬に唇を置く伊織のぬれた唇が、ささやいた。

「耐えてくれ」




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