結ばれた二人
見つめるだけの(13)

 

 

 

衣を纏うと、伊織はようやく小袖に腰紐を回したばかりのわたしを、一度緩く抱いた。

その胸に、わたしは自分のまだぬれる頬を押し当てた。ほのかにわたしの匂いが移る薄浅黄の羽織は、それで一つ二つ、涙のしみができる。

顔を上げさせ、伊織が親指で頬をなぜた。「泣いてくれるな」とつぶやく。

時刻が迫っているのだろう。

もう行かなくてはいけないのだろう。

ややかげりを見せ始めた日の加減で、それはわたしにも感じられる。

「しばらく、抱いてやれない」

淡いほどの口づけを残して、伊織は部屋を出て行った。

 

どれほどぼんやりとしていたのか。

自分に巻きつけたはずの衣装は、ずるりとだらしのない着付けになってしまっている。それでも帰りのことを考えると、何とかしなくてはいけない。

「袴にすればよかった」と、愚痴が出る。けれども、衣擦れをさせながら帯を解いた伊織の指の力を思い、その音の艶めいた様を思うと、帯でなくては後悔をしただろうと思う。

帯は上手く締められず、浴衣の兵児帯のような結び方になった。それを隠すみちゆきもない。

まさかこの邸の女中を呼ぶ訳にもいかず、少々の着付けの拙さはもいいかと、どうしてか余ってしまった腰紐を拾い、袂にしまった頃、落ち着いた声が襖の向こうから聞こえた。

「失礼いたします」

戸惑った末、返事をした。何かここの邸の者が、わたしに用なのかもしれない。

襖を開けて現われたのは、地味な町方風の身なりの女で、するりと膝を滑らせて、行儀よく部屋に入ってきた。邸の奥女中などには見えない。

その抑えた品のいい化粧の顔を見た途端、「あ」と声がもれた。

それはいつか、伊織に連れられて行った深川の店で会った、牡丹という名の芸妓だった。

この日は襟の抜き方も大袈裟ではなく、それと見ても素人衆と変わらない。けれども、美しいその笑顔には、覚えがある。忘れられない。

彼女は挨拶の後、わたしの用意を手伝いに来たのだと言う。

「そんなお姿で外を歩かれたら、柚城のお姫さま、大層な恥をおかきになりますよ。まあ、髪も乱れていらっしゃるし、何です? その袖からちょろんと飛び出した腰紐は…」

「わからない。なぜだか余ったのよ」

彼女はころころと小さく笑いながら、わたしの後ろに回った。忙しく手を動かし、おかしな着付けを直してくれるのだ。

「伊織が、頼んだの?」

「いいえ。殿方は女の仕度まで、細かなお気が回らないものですわ」

牡丹は、自分が現われたのはこの邸の主、沢渡俊輔殿が知らせてくれたためであるという。

「昼の日の高いうちから、店に顔を出されて、慌てた様子で何だかおっしゃるンですよ。いつも落ち着いた方が不思議なほどで…」

そこで牡丹は、ふふっと含み笑いをした。どうしてだか、それが嬉しそうに聞こえる。

俊輔殿は、伊織が急にわたしと会う時間が取れ、伝言ではなく、この邸に出向くことを直接に聞き、多分そのときこの短い逢瀬の意図も汲んだのだろう。

「俊輔さまは、普段から畏れ多くも、公方様の御身回りに接していらっしゃるお方ですから、榊の旦那とは、お気の働かせ方が違うんでございましょうね。女の仕度はよくおわかりにならなくとも、お姫さまお一人ではお困りだと、お思いになったンでございますよ」

彼は牡丹の店に現れ、戸惑った様子で、それでも「とにかく、済まないが、白金の邸に行ってくれ」と、手を合わせたという。

それを知り、自然わたしは礼を口にしていた。俊輔殿の思いやりは、伊織との仲から出たものであるけれど、その心配りがありがたかった。

「ありがとう。礼を言うわ」

「もったいのうございますよ」、牡丹は小さく応えながらも、どこかその声は弾んでいる。気働きができ、頭のいい人であるのだ。

「ねえ、牡丹。俊輔殿は、あなたのご贔屓筋なの? そんな面倒な頼みごとを持ってくるなんて」

何気なく問うたのに、彼女はちょっと絶句した。その後で、「榊の旦那から、お聞きじゃあ、ないンでございますか?」

「知らないわ。伊織は何も」

「では、あたしの口からは…申せませんわ」

その答えに、わたしはやっと悟る。きっと二人は男女の仲なのだろう。

髪も直してもらい、仕度が済むと、牡丹はふと、口にした。

「ここを出られる榊の旦那に、さっきお会いしました」

「え」

伊織は彼女の姿にちょっと驚き、そしてすぐに俊輔殿の優しさだと気づいたらしい。

「『姫を頼む』と、おっしゃいましたわ」

「そう…」

伊織の残した言葉は、わたしの胸にしみた。それはもう自分から遠くなってしまった、そばにいてくれない彼を思わせる言葉だ。そして最後の彼の言葉が耳に甦えらせる。

 

『しばらく、抱いてやれない』

 

別れの辛さが、今更になって込み上げる。涙がにじみ、牡丹がせっかく紅を差してくれた唇からは嗚咽がこぼれた。

すぐにまた会いたいのに。

すぐに声を聞きたいのに。

すぐにまた抱きしめてほしいのに……。

「まあ、まあ、お泣きになってはいけませンよ。縁起でもない」

牡丹は宥めながら言う。「契って、結ばれて、夫婦になられたんでございましょう? おめでたいじゃあありませンか」

「夫婦になったの?」

「そりゃあ、お武家様方は、御家の格式やお仕来りがおありでございましょうから、本式のご婚儀とは違いましょう。でも、旦那のお気持ちはそれと違わないとあたしは思いますよ」

彼女の言葉は、ふんわりとそして強く、わたしの心に響く。

気持ちだけでも、そうでありたい。

心だけでも、伊織の奥方でありたい。

 

 

梅が一斉に開き、芳しい匂いを香らせる季節。

上方はどうであろうと思う。江戸より春の訪れが早いと聞く。もう桜も蕾をほころばせているのだろうか。

伊織が江戸を離れてから、もう一月がたつ。

その間も便りはなく、誰からもこれといった消息の知らせもない。

彼が文の一つも寄越さないことに、『心は奥方』であろうと決めた、殊勝なわたしの気持ちも、そろそろ波立ってきた。

放って置かれることが、少し腹立たしいのだ。

いつものからかいや意地悪で、敢えて消息をくれないのかとも思った。会ったのならば、うっすらと唇で笑って、「すまん」とあっさりとかわされそうに思う。または団子で簡単につれなさを誤魔化したり。

それとは違い、忙しいのだろうか。けれども、文を簡単にしたためる暇もないほどの忙しさなどあるのだろうか……。差配のし放題の立場である、老中のくせに。いんちき老中め。

そんなことをつらつらと頭に巡らせるわたしの顔は、唇をちょっと尖らせ、ふくれているのだという。

「長子、どうしたのです?」

母上のお言葉にも返事もせず、まわりの言うむっつりと仏頂面をしていると、お小言が降ってくるのだ。「いつまでも、ほんの童のような」

母上はわたしの様子に、子供っぽいと愚痴をおっしゃり、それでもお笑いになるけれど、本当のわたしの胸の中を知ったら、どうされるのだろう。

心には決めた殿方を秘めていて、そしてもう、操を捧げてしまっているとしたら……。

彼以外は嫌だと。憧れだけの恋ではないのだと。

触れて、感じて。すべてを契ったのだと。

増えたため息と、ぼんやりとする癖。思いがすぐにどこかを飛んでゆくのだ。

そして、夜半の一人寝の涙に思い知る。

とりとめのない思いの果ては、寂しさ。埋まらない胸の隙間。

いないことが、彼という人が長子の中でどれだけを占めているのかを浮き立たせていく。

伊織のいない日々は嫌。

だから、長子を一人にする伊織は嫌い。

きっと、また腕に抱いてほしい。

 

静香さまとの正式な祝言の日取りを、父上は脇息に腕を預けておっしゃった。

新しい月の晦日に行うという。

「奥にも伝え、じき準備は整うはずだ」

そうおっしゃる父上は傍らの静香さまを見て頷き、前に座るわたしには、やや長く瞳を置かれた。

以前、静香さまとの祝言を、父上にははっきりと否といったわたしの機嫌を、今も考えていらっしゃるのかもしれない。少し視線がお強い。長子に我が侭を、もう言わせないおつもりなのだろうか。

おそばの鳥かごの小鳥が、ちいちいと啼いた。

祝言に合わせ、国許から国家老らが到着する由。母上が特に言い、京の織を用意なされていること。そして港の蔵屋敷に祝いの品が入ること…。

それらは、わたしを胸が苦しくなるほどに追い詰めた。いつしかわたしは父上の前で首を振り、「嫌」という言葉をもらしていた。

「嫌」

父上はわたしの様子にちょっとため息をつかれ、ばちりと扇子で脇息を打った。「さがれ」とお側の者を退出させる。

父上のお怒りのお顔。眉を寄せられ、唇を真一文字に硬く結んでいる。はっきりとわかる、ご不快の表情。

滅多に見ないだけ、少し怖い。またぶたれるかもしれない。

父上はお座布団から立ち上がり、わたしと静香さまの間を少し歩かれた。

「否やは聞かん。もう決まったことだ」

頬に静香さまの瞳を感じる。わたしの様子が怪訝でいらっしゃるのだろう。わたしが一体何を考えているのか、不思議でいらっしゃるのだろう。「また我が侭なことを」と、呆れていらっしゃるのかもしれない。

違う。

これは長子の我が侭じゃない。

おなかに力を込め、わたしは父上の瞳を見上げて口にした。もう心に決めた方がいること。その方以外は受け入れられないこと。

わたしの言葉に、ちょっとの間の後で、父上は笑われた。「なら、それは静香殿であろう」と。

「ううん、違うの。…静香さまではないの」

小さな「まさか」という声がした。多分それは静香さまのお声。

わたしは重ねて打ち消した。静香さまではないと。

「馬鹿なことを申すのではないぞ。他のどこにそのような者がおるのだ? おかしいではないか? 長子が言い交わすような者が」

父上はまだわたしが、その場しのぎの言い逃れを口にしていると思っていらっしゃる。

わたしは伊織の名を口にした。

「長子は伊織の奥方になります」

わたしに何度も名を繰り返させ、それがよく知るご公儀の老中の一人であると了解するや、信じ難いと首を振られる。「なぜに?」と。混乱し、静香さまを振り返られる。

「白金の叔母さまの許で…、会ったの」

まったく虚をつかれたご様子の父上に、わたしは苦いけれど、大事な言葉を言い添えた。

「契ってしまったの…」

つかつかと父上の白足袋が近くなり、不意にわたしの手首がつかまれた。引っ張るように立ち上がらされ、次に肩をつかみ、前後に身を揺するように振られた。

「意味をわかって言っておるのか? それがどういう意味か?」

押し殺した父上のお声は耳に低い。

「知っているわ」

途端に、ばちりと耳から頬にかけて熱い衝撃が走った。ぶたれたのだ。以前のときよりそれは激しく、次第に痛みが広がっていく。

「愚かなことを…。なんというふしだらな」

「ごめんなさい。でも…長子には伊織しか…」

突き放すようにわたしを放した父上は、吐き捨てるようにおっしゃった。嘆息のようなため息のような、お辛そうな吐息がもれた。

「馬鹿な」と何度もつぶやかれるのが聞こえる。歪めたお顔に、申し訳なさで一杯になる。

それに涙が浮かんだ。

精一杯の気持ちで、真っ直ぐに、抗えない心で、嘘のない恋をした。それは間違いのないことだけれども。

それで大事な人を傷つけているのだとしたら、辛い。打たれた頬より、ずっと大きくそれが辛い。痛い。

「ごめんなさい、父上…」

「何ということをしでかしてくれたのだ、榊さまは…」

ええいと父上は腹立ち紛れか、扇子を放られた。それは鳥かごの近くに落ち、驚いた小鳥がばたばたと羽音を立てた。

身が竦む思いがする。常ない父上のお怒りも、混乱も。そしてどこか痛々しいようなお顔でわたしを見つめる静香さまにも。

「ごめんなさい」

長子のせい。

伝った涙を手の甲で拭うと、父上のお声がした。

「榊さまは終わりだ。近く老中の職を解かれる」

「え」

父上はわたしを見下ろし、先より落ち着いた、けれどひどく怖いお声で告げる。

「榊さまは、失脚なされたのだ」

意味がわからず、わたしは父上のお袖をつかんだ。それを引き、「どうして?」と問いを重ねる。

伊織は今職責で上方に赴いている。なのに、どうしていきなり失脚するようなことがあるのだろう。おかしいではないか。

あり得ないではないか。

父上は軽く首を振り、「無断での上方行きが、その事由とされるが、わしにもよくわからんのだ。その程度が理由とは…」

おっしゃるに、要は他の老中方が伊織の不在の間を利用し、上手く罷免させようと謀ったということらしい。

「まれにお城の政治絡みでは、あることだ」

お袖をつかんだ手が小刻みに震える。では、伊織はどうなるのだろう? 

老中を解かれたら、伊織はどうなるのだろう?

「噂では、榊さまはお若く、更にご出自がご出自だけに、取立ての降格はないという。ただ江戸から離れていただき、新たに長崎奉行を仰せつかるのではないかと聞く」

呆然とするわたしを置いて、父上はぶつりとその話をお終いにされた。

「だから、もう長子とは、どうにもならんのだ。どうして唯一の姫を、はるか遠い長崎奉行になどやれる」

 

出稽古を始め、外出は禁じられた。叔母さまの庵への訪問も堅く戒められた。

父上がお部屋を出て行かれたのは、どれほど後か。

「奥が聞かなくてよかった。あれなどは、驚きにすぐに気を失うからな」と、おっしゃられたのは聞こえた。でも、その後が、わからない。

何も思わなかった。

父上のお怒りも、混乱も、それらを呼んだ自分の申し訳なさも、既に遠い。

いつしかわたしは、自分を抱きしめていた。つぶやくのは「どうしよう」という言葉ばかり。涙が瞳に凍えて溜まる。

「どうしよう…」

目の前に立つ人の気配にようやく気づく。顔を上げると、それは静香さまだった。父上とご一緒に出て行かれたのかと思ったのに、まだお姿がある。

「榊殿は、今、京に本陣されていらっしゃると聞きます」

静香さまは、何をおっしゃりたいのだろう。わたしを責める口調でも、声音でもない。

いつものように、静かに穏やかなお声で話される。

「お好きなのですか? 榊殿を」

声を出せず、わたしは頷いて答えた。静香さまは、どんなにか長子を愚かで、はしたない姫だとお思いだろう。

それでも、好き。

伊織が好き。

ちょっとの間の後で、静香さまは、「あなたが実の妹であれば、多分わたしも義父上のように手を上げていたでしょう」

静香さまはお優しいから、怒りを耐えていらっしゃるのだ。許婚のわたしの取った、ふしだらな裏切りに、きっときっと憤っていらっしゃる。

ぽんとごく軽く頬に手のひらが当てられた。ややぺちりと、あてがわれたようにやんわりと。

「だが、わたしには妹がおらず、力の加減がわからない」

「兄として…」その後の言葉が、ふつっと途切れ、消えた。何をおっしゃろうとしたのだろう。

僅かに笑まれた気配。見上げた静香さまのお顔は、涼やかな瞳をわたしに向け、いたわりの色を微かに浮かべ、静かに見つめている。

「榊殿の消息が知りたいですか?」

「…知りたい。どうしているのか、知りたい」

静香さまはそれが叶うと言う。

「え」

 

先の奥方、その方のそばに京の者がいるのだという。その者を辿れば、叶うと。




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