君から私が。
見つめるだけの(14)

 

 

 

静香さまの落ち着いた声は、淡々と穏やかに続いた。

自分の名で、橘の家に使いを出せば、上手く計らってくれるだろうと。

「消息を知ったところで、それで、事が好転するとは考えにくい。それでもいいのですか?」

わたしは静香さまのお顔を見上げ、頷いた。

それでもいい。

何もしないよりいいではないか。

このまま、伊織に会えず、彼の気配が遠くなっていくのが怖い。何もしないでいるのが怖い。

よすがが、ほしい。

「どうしているか、…それだけでいいの。先のことは、まだ考えられない。知りたいの。それだけなの」

うっすらと室内に夕暮れが近づいている。父上が開け放していかれたままの襖の影が長く伸び、そこから冷気を増した屋外の風が、ふわりと吹いてくる。

静香さまが、両の手を打たれた。ぱんとそれは大きく響き、「誰かあるか」と澄んだお声が続く。

ほどなく廊下に人の姿が現われた。そばに控えた見覚えのある近習は、以前わたしの前で、静香さまの御子のご病気を告げた者だ。

「橘家に使いを。用向きは、直に奥に会って話せ」

ぴくりと近習の眉と頬が緊張したのが知れた。そのもっともな反応に、わたしは今更ながら、静香さまの図って下さる厚意が、じんと胸を打った。

お家を出られて、三年。どんなにかお会いになりたかっただろう奥方や、御子に、縁を切ったがごとく、一切の連絡を取られなかったと聞く。深く思われる御子彩成君のご病気のときも、柚城から使わしたお匙や見舞いにも、お名を決して出されなかった。

いまだ彼のお人を「奥」と、ふとお呼びになるほど、静香さまのお心の中では、くっきりと思い出も過去も、鮮やかなのであろう。なのに…。

なのに今、長子の願いのため、静香さまは簡単にその禁忌を破って下さるのだ。

どれほどの思いやりだろう。お優しさだろう。

長子は愚かでお転婆なだけの、義妹でしかないのに。

声を殺し、近習に伊織の名と京の本陣を告げる静香さまのお袖を、わたしは引いた。引いて、

「長子が参ります。長子から、奥方にご助力をお願いいたします」

「え」

静香さまはお声を止め、わたしを見つめる。しばらくして、何がおかしいのか、頬を緩ませられた。

「あなたはたった今しがた、父上から謹慎を言い渡されたばかりでしょう? お忘れか?」

そんなこと、ちっとも気にしていない。わたしはあっさりと、「静香さまが、長子を邸から出して下さればよろしいでしょう? 誤魔化して下さればよろしいの」

困ったように笑われたが、いい加減わたしが引かない様子を知ると、手を振られ、「もうよい」と近習を下がらせた。

「榊殿は、確かにわたしより上手く駒を御すようだ…」

そんな、いつかの伊織の当てこすりにちなんだことをほろっともらされる。その軽い嘆息を含んだお言葉に、自分のはしたなさやお転婆が思い知らされ、今更に恥ずかしくなるのだ。

わたしは静香さまに礼を述べ、明日にでも、あちらのご都合がよろしければ、橘家の江戸上屋敷へ伺うことを告げた。

静香さまは静かに頷き、袖を握ったままのわたしの手を包んだ。ほのかにひんやりとした指は、優しくわたしの手を覆う。

そうしながら、最前のお言葉を繰り返すのだ。何の解決にもならないだろうこと。わたしの気持ちを一時宥める、ほんの些細なしのぎにしかならないこと。それ以上には、至らないこと。

「それでも、よろしいか?」と、静香さまの瞳は問う。わたしはそれに何度も頷いた。

わかっている。でも、それでも……、いい。

「ごめんなさい。長子は、どうしようもなく我がままで、愚かな姫です。わかっているの、ごめんなさい。ごめんなさい…」

詫びの羅列を、彼はやんわりと遮った。やや首を振られ、わたしからあふれ出す謝罪を封じるのだ。

「…兄としてでも、あなたに何かできないか、いつも思っていました。こんなことなら、容易い」

優しさに、ほろりと弱さが顔を出す。その苦い涙の元を、わたしは唇を痛いほど噛んで堪えた。

最初に恋したのはこの、手の温もりをくれる彼。

胸を躍らせ、ときめかせて、花嫁になれる日を憧れて過ごした。

それが、何かの掛け違い、またはおかしな運命いたずらのように違う彼を胸に描くのだ。そして焦がれて、切なさに、身を焼いている。

憧れたはずの、恋しかったはずの静香さまのお手に、暖かでほのぼのとした慈愛めいた思いを感じ、それに確かにわたしは、抱えた悲しみを癒されている。

 

わたしの恋は、いつしかこんなところまで泳いできた。

 

別れの間際、静香さまにお訊きした。先の奥方のことを。「どのようなお方?」との問い掛けに、

「『易いこと』が口癖の、よく笑う、普通の女子です」

泣かない人だ、と。

泣いている姿を見たことがない、と。

静香さまはそれだけを、長子に教えて下さった。

 

 

翌日、晴れてわたした邸から出ることが叶い、橘のお家に向かった。

駕籠に揺られ、ほどなく着いたのは、藩の規模からか、我が柚城の上屋敷より小ぶりな建物だった。

樹木には花が咲き、のどかな雰囲気のする庭先に、小さな若君が、これも童を相手に遊んでいるのが見えた。柚城の邸では見られない光景に、目が珍しい。

あれが、彩成君なのであろう。お元気になられてよかったと、しみじみ思う。

その庭に面したお部屋では、わたしの前に一人の女性が座られている。ときに目をお庭に向け、笑みをこぼす。

茉莉さまとおっしゃるこの奥方に相対するまでに、静香さまのご母堂からの慇懃なご挨拶があり、先だっての若君の病の折に、我が柚城が遣わしたお匙などの礼を篤く述べられた。

「本来ならば、わたくしは離縁された身でございますから、里へ帰るべきところを、お義父上もお義母上もそれではあまりに味気ないからと、お引止め下さり、彩成を見ることを許して下さるのですわ」

橘家にはかかりうどのような者でございますのと、ふんわりと笑われる。頬のふっくらとした、笑顔のきれいな方である。

わたしは静香さまの先の奥方を、か弱い、どこか寂しげな女性だと、どうしてだか勝手に思い込んでいた節がある。頼りなげで、繊細すぎるほどの影の淡いような人だと。抱えた嫉妬の作用で、自分にない魅力を描いたのかもしれない。

お会いして、確かに可憐な方ではあるけれど、茉莉さまには弱々しいような雰囲気などない。どちらかといえば、朗らかで溌剌としたお元気な方に見受けられるのだ。

時候の挨拶があり、他愛のない世間話の果てに、今回の来意が会話に上る。

内容が内容に、茉莉さまは立ち上がり、庭の障子を閉められた。ほのかにできた二人だけの密室に、わたしはにわかに緊張する。

静香さまを通してのお話ではある。伊織の身分や立場を考え、わたしとの関係は伏せるべきだとの静香さまのお言葉で、その部分は端折った。

けれども、初めてお会いするこの茉莉さまに頼みごとを突きつける自分の愚かさや滑稽さが、惨めなほど恥ずかしいのだ。手のひらに、嫌な汗を感じる。

彼女にとっては、背の君を奪った立場のわたしが、別の殿方の消息を知る手立てほしさにここに、図々しくも現れているのだ。

まったく自分をこけにした馬鹿な話だと思うだろう。面白いはずがない。大身の藩を背景に、好き勝手しているはしたない姫だと、長子を疎んじていらっしゃるかもしれない。

大して長くもない話を、じっと相槌もなくすべて聞き、茉莉さまは深く頷かれた。

「承知いたしました。わたくしから、京の出の侍女に上手く運ぶように言い含めましょう。急がせますが、二十日ほどは見ていただきましょうか」

こちらが拍子抜けするほど、あっさりとおっしゃるのだ。ご不快な様子もない。

「あ、あの…、よろしいのですか? 本当に」

「さあ、どうぞ。お寛ぎ下さいませ」と、茶菓を勧めることに意識をすっかり向けたような茉莉さまに、わたしは不審で問いを重ねた。

彼女はふんわりと気持ちのいい笑みを頬に浮かべ、

「ええ、易いことでございますわ」

『易いこと』。

静香さまが、この方の口癖だとおっしゃっていたせりふをおっしゃる。

「それで、姫さまはお助かりになるのでございましょう? なら、お手伝いさせていただきますわ。あ、けれども、わたくしが京へ参るのではありませんわね。小舟が行くのでしたわ」

などとおっしゃり、楽しそうに笑われるのだ。

そのあっさりとした、わたしへのこだわりのないご様子に、何だか中てられたように、こちらもぼんやりとする。張っていた緊張が、するすると肩から抜ける。

供されたお茶を口に運び、一息つき、戻したお茶碗が立てたことんという微かな音に混じり、小さな声が耳に入った。

 

「…お元気でいらっしゃいましょうか?」

 

と聞こえた。わたしの耳が捉えなかった部分は、容易に埋められる。そこには彼女のかつてのご夫君のお名が、間違いなく入る。

お声を出してしまってから、慌てたように、どこか申し訳なさそうに視線を泳がせる。

「息災で…、いらっしゃいますか?」

遠慮しながら、まるで悪いことでもするかのように、身を竦ませながらおっしゃるのだ。

わずかで小さな、茉莉さまには当然のその問いかけに、わたしの胸が痛くなった。目頭が、つんと熱くなる。

わたしが静香さまのお名を以って、こちらに現われたときから、彼女の中にしんとした心の緊張があったのかもしれない。お別れのときより決して常ないことに気持ちが張って、そして不意に緩んだのかもしれない。

「ええ、ご壮健です」

「そう、…よろしゅうございました。本当に…」

一瞬にお顔を小さく歪ませる。言葉の終いに混じり、はらはらと彼女の瞳から、きれいな涙の粒がこぼれた。

「あ」

指で拭おうとなさる。それで堪らず、お袖で目を当てようとなさる。

「嫌でございますわ。たしなみのない…ところをお見せして…。長子姫におかれては、わたくしの涙など気持ちのいいものではございませんわ」

震える肩。止まらない涙。抑えた嗚咽。

そのすべてに、彼女の耐えた重さが知れる。

『泣かない人』だと静香さまはおっしゃった。『泣くのを見たことがない』とも。

笑顔の影で。「易いこと」と、唇からこぼれる朗らかさの後ろで。

どれだけこの方は、涙をのんで、堪えてこられたのだろう。

「お気になさらないで。長子はちっとも構いませんもの」

静香さまが忘れかねていらっしゃる、胸に宿すのはこのような方。長子などが敵うはずもない、強い方。お優しい方。

それに、わたしが泣きたくなるのだ。

「お見苦しいところを…」

ようやく涙をしまった茉莉さまは、はにかんだ微笑を浮かべた頃には、わたしが涙を引っ張り出していた。それに「まあ、まあ」と、茉莉さまは慌てて、おろおろとなさる。

少し前、静香さまに恋をしていた頃のわたしなら、先の奥方のこの茉莉さまを、きっと我がままな長子は憎く、恨めしく思っただろう。よくわきまえもせずに、そんな嫌らしい物思いをきっと持っただろう。

時間を経て、今。

そんな感情を心に抱かない自分が嬉しかった。この人をせめて負の感情で眺める自分でなくてよかったと、それが嬉しいのだ。

懐紙で涙を押さえ、涙を始末する。ふと不安そうに瞳をこちらに向ける彼女と目が合った。

鼻を赤くさせた瞳の潤む女同士、なぜかちょっぴりおかしくて、ほんのり笑い合った。

ついほろりと、唇が開いた。そこから言わないはずの言葉が転がる。「京へ行く、お側の方に伝言をお頼みしたいのです。本陣の榊伊織さまにお伝えして下さいませ」と。

 

「『長子は、伊織が好き』だと」

 

凍ったように茉莉さまの瞳が、瞬きを止めた。けれども一瞬でそれを和らげ、目尻に人懐こい笑みをにじませる。やや伏せて、

「易いこと」

とおっしゃった。

 

 

橘のお家にうかがってから、わたしの日常は、波立たないものが続く。ときに静香さまがお相手をして下さり、剣を合わせた。

母上は近づいた祝言のお仕度に忙しく、気の乗らないわたしを相手に、衣装や調度選びを楽しんでいらっしゃる。

父上は遠巻きに、わたしの機嫌をそれでも気遣うのか、何のお言葉もなく、小犬のちんを贈って下さった。

お部屋やお庭を元気に駆け回る、小さな犬の愛らしい様は、つい落ち込んでしまいがちなわたしの気持ちを随分と慰めた。

そうやって過ごす日々、春の気配が徐々に濃くなる。深くなる。

桜が芽吹き、ふくらみ、ちらりちらりと可憐な花を咲かせるのだ。風までもが、肌にまろやかで優しい。

不意にそんな中、風邪を引き込んだ。

身体が弱り、熱も出ると、気持ちが滅入る。普段堪えている涙が頬を伝い、小袖や夜具をぬらす。しっとりし、じんわりとした涙の冷たさに、ほんのひととき浸る。

幾日か床に臥せっていると、白金の叔母さまがお見舞いに来て下さった。熱も下がったので、臥所に身を起こす。

お会いするのは、随分と久し振りの気がする。

「長子が風邪と聞きましたから、久し振りなので会いたくなったのよ」

女中が整えた座にゆったりと座り、やはりこの叔母さまのお人柄らしく、ふんわりと優しく笑い、近況を聞かせて下さる。

大奥にまた赴くこと。その園遊会のお遊びのこと。

「長子も参りましょう。御台さまは、あなたをお気に入られたようよ」

「ふうん」

一体どこが気に入られたのか。以前叔母と共に参上した際、お言葉など、一言も下さらなかった彼の御方を思い、おかしくなる。長子は叔母さまを呼びつけるための、都合のいい方便なのかもしれない。

世知に明るく、幕府に人脈も広い叔母さまは、きっと伊織の失脚のことをご存知のはずだ。その後の彼がどうなるかも……。

そして多分わたしとの仲も、勘付いていらっしゃるのだろう。

「祝言が、近いようね。お仕度で、邸が華やいでいるわ。姉上の居間など、それは衣装で花を散らしたようよ」

「母上が新調なされた衣装も多いのよ。京が嫌いとおっしゃっていたのに、皆京の品ばかり」

叔母さまがそれに笑う。紫の衣装に白い笑顔が、ぱっと花のように見えた。側女中の忍が運んできたお茶に、少し口を付けられる。

しばらくの沈黙の後で、

「了解はできているの?」

その問い掛けが何を意味するのか、瞬時に伝わる。伊織への思いを訊いているのだ。抱えたまま、静香さまと祝言を挙げられるのかと。大丈夫なのかと。

わたしは首を振る。振るにつれ、瞳を涙があふれる。

納得などいかない。決着などつかない。思いのしまいようがない。

叔母さまはわたしの涙にちょっと嘆息し、困ったようにつぶやかれる。

「責任を感じるわ。引き合わせた発端は、わたくしだもの」

「…ううん、叔母さまが責任を感じられることはないわ。わたしが、勝手に…」

そこで言葉がつなげないほど、大きな涙の塊が胸元からせり上がった。辛いのだ。そして、あきらめ切れない。

あきらめるには、伊織の声も、あの瞳の凝らし加減も、ほんのり浮かべた笑みも。そして、感じた肌の匂いも熱も、あの抱きしめた腕の強さも。

すべてが生々しいほどに、長子の中で鮮やかに、美しい。

 

『契っておきたい』

 

伊織の声が、耳に甦る。別れの間際にわたしに強いた、選択。その意味がわかるような気がするのだ。

江戸を立つ前から、もしや不穏な気配を察していたのではないだろうか。そのための、覚悟の上のわたしとの逢瀬だったのだろうか。 だから、常なく、あんなに瞳を焦がして……。

 

『耐えてくれ』

 

彼の声は今も耳に熱い。

襖の奥で誰かの声がする。話せないわたしの背を抱き、撫ぜる叔母さまが、代わりに応じて下さった。「何? 入りなさい」と。

ほどなく、畳を擦る足袋のきゅっとした音がして、忍の声が届く。わたしの涙に、驚く気配が伝わる。

垂らした髪をなぜる叔母さまが、耳元にささやいた。

「長子、あなたに」

涙で曇る瞳を開ける。ぼんやりした視界に、両手に抱えるほどの葛篭が映る。叔母さまは、忍から受け取ったそれをわたしの衣を掛けた膝に乗せた。大きさの割りに案外と軽い。

「橘家のお家のお使いが見えて…」

忍の声に、どきりと胸が鳴った。茉莉さまのお使いだろうか。葛篭に這わせた指に力を込め、蓋を取る。

「あ」

そこにはぎっしりと詰まった小さな白い折鶴があった。蓋を外した途端、その弾みで、幾つかが膝にこぼれるほどにたくさん。

わたしは葛篭の、折鶴の海に指を入れ、すくう。

「まあ」

叔母さまの軽い笑い声がする。彼女には、その鶴の指す意味がおわかりになるずだ。

誰が折ったのかも。なぜ、わたしに届けられたのかも。

「嫌だ、あの人…」

泣いたばかりの顔に笑みが浮かぶ。嬉しくて、嬉しくて、胸が躍るのだ。

伊織のくれた折鶴。

一つでいいのにと、心でせがんでもなかなか折ってくれなかったのに、こんなときに不意に贈ってくる。

こんなにたくさん。あふれるほどにたくさん。

膝に散ったたくさんの折鶴たち。それで、まるで彼がほんの側にいるように感じる。

あの少し凝らしたいつもの瞳を、こちらに向けていてくれるかのように。

『姫』と彼が、長子を呼ぶその声が聞こえるように。





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