魔女の呪い
見つめるだけの(15)

 

 

 

わたしは膝に散る白い折鶴を、涙でぬらさないように、袖で涙を拭った。

どんな顔をして、あの人がこれを折ってくれたのだろう。繊細な折り紙などより、よほど剣が似合うあの長く節の高い指で。

どんな瞳で、出来上がっていく、たくさんの鶴たちを見たのだろう。何を思ったのだろう。

文もなく、何の言伝もない。

けれど、何よりも伝わる。

伊織の気持ちも、そしてその向かう先も。

いいでしょう? これは自惚れなどではないのでしょう?

 

あなたの胸に長子がいるのは、おかしなくらい、当たり前の事実。

 

わたしが涙をしまい、上方京の伊織との連絡の労を取って下さったのが、静香さまであり、その先の橘家の奥方茉莉さまであると言うと、叔母さまはつぶらな瞳をちょっと大きくした。

そのわたしの行動については何も言わず、「感謝なさいね、お二方に。並のご配慮ではないわ」と静かに結んだ。

わたしはこくりと頷く。叔母に諭されるまでもなく、静香さまのお優しさや、茉莉さまのお気持ちに、あまりに甘え過ぎた行為であったと思う。

折鶴を葛篭に戻し、一つを手のひらに載せる。後で、これを彼が最初に折ってくれた、あの傷んだ鶴と隣り合わせにしてやろう。それはきっと何かの願い事のまじないのように、縁起がいいはず。

気づくと、忍の姿もない。人払いがされていた。

叔母さまが袈裟の袖を、柔らかな仕草で膝に置かれた。「上様に、今回の伊織殿の件で、御目通りをお願い申し上げたの」

「え」

叔母さまがお持ちの大奥での今でも静かに感じられる権勢や、幕閣の方々との人脈は知っていた。だから、彼女は老中である伊織とも親しいのだ。

けれども、上様に直に御目通りを願えるほど近しいとは、ちらりとも思っていなかった。何しろ、叔母さまは先の上様の御寵愛の深かったお人。御世が移り、今の上様にも、その御方の大奥にも表面上、関係がない。

更にそれが、時間を置かずに叶ったということに、ちょっと虚をつかれた。目をぱちぱちする。

叔母さまはわたしの驚きに人さし指を唇の前に立て、ほのかに笑う。「姉上には内緒よ」と。上様より賜る親密さに、自分に対する見方が変わっては迷惑だとおっしゃるのだ。

そういう爽やかで控え目なところが、叔母さまのすごさというか、得難いほどの特徴なのだろう。だから伊織も上様も、彼女と親交を持つ。

 

「お風邪を召されたと、少し御加減がお悪いご様子だったわ。だから、わたくしも長くなく、御前を失礼したのだけれども…」

わたしは息をつめて、何でもないような表情を浮かべた叔母さまの白いお顔を見つめた。上様は何を仰せになったのだろう。

「上様は伊織殿のことに話が及ぶと、やや御不快であられたわ。『老中らが一致に決めた事に、取立て詮議はせぬ』と。あっさりと仰せになっただけ。それで、早々にその件から話を逸らしてしまわれたの」

「ふうん」

叔母さまは政をよくわからないわたしに、補足して下さった。「老中の決定した総意は、上様といえども、余程のことがなければ、覆されることはない」のだと。

「伊織のことは、『余程のこと』ではないの? 彼だって、上様の御血筋でしょう? 御兄弟なのに…」

長子、と叔母さまは軽くわたしの声を諌めた。上様の御振る舞いや御言葉に、わたしなどがあれこれ申し上げるのは僭越なのだろう。

それくらい、武家の姫であるのだから、長子にもわかる。上様は数多の大名家、武家の統領におわす、尊い御方。

わたしは唇を噛んで黙った。

「今回のことはあまりに急で、不審で、だからわたくしも、御目通りを願ったのだけれども…」

叔母さまはそこでお言葉を切り、「だからこそ…、なのかもしれないわね」とつないだ。

「え」

「御血筋だからという御身贔屓は、政を歪めるわ。だから、上様は敢えて、老中方のご意思を曲げずに、御受け入れなされたのかもしれない。そう時を経ずに、次の機会に、伊織殿を江戸へお戻しになるために」

叔母さまのお言葉に、わたしは頬が強張るのを感じた。手のひらの鶴の姿が、涙でにじみそうになる。

泣きたくないけれど……。

「やはり、伊織は父上のおっしゃる通りに、長崎に流されてしまうの? あんな遠い所に。それから、そこで奉行になって…お白州で、罪人を裁いたりするの?」

叔母さまはわたしの問いに、ぷっと吹き出された。「相変わらず、長子はでたらめばかり言うわ」と笑うのだ。

「おかしなことを。伊織殿が老中をお辞めになって、長崎奉行に就かれるかもしれないという噂は確かに、あるわ。たとえそれでも、伊織殿は罪で流されるのではなく、役職をお替りになるだけでしょう。それに、長崎奉行のお仕事は、お白州裁きではないわよ。あれは町奉行のお役目ですよ。妙ちきりんなことを言うと、伊織殿がお笑いになるわ」

長崎奉行とは長崎に関する政を行う職で、貿易なども扱う重職なのだという。ちなみに、老中格ではあるとか。

要職ではあれど、何より江戸より遠く、上様から遠い。老中の席にあった伊織にとっては、失脚と言われても仕方がない……。

「『お若いから、どこへ行かれても容易に順応なさるのではないか』などと、若林さまはのんきにおっしゃっていたわ」

あ。

あの、わたしを襲わせた衆道の老中首座。彼の名前が出て、はっとなると同時に、頭にかっと頭に血が上る。もしや、腐れ陰険男色老中が、留守の伊織を落し入れ、失脚を謀ったのだろうか?

叔母さまに問うと、それには首を傾げ、どうだろうか、と考えを迷うような風をお見せになる。

「若林さまのご様子では、葛城さまに、皆さま、押し切られた感があるようよ」

初めて耳にする名だ。葛城さまとは、伊織たち四人の老中の一人だという。

「そうだ」と、叔母さまはぽんと手を打たれた。明日、その葛城さまを、今回のことでお話をうかがうため、庵に招いているのだという。

「ようようお運び下さるの。若林さまは早々にいらして下さったのに、葛城さまには待たされたわ。お忙しいのやら、なかなかよいお返事を下さらなくて」

その席に、叔母さまはわたしを呼んで下さるのだ。

「行くわ。絶対に」

わたしは強く首を縦に振る。

存外、今日のお見舞いも、これを直接、わたしに言うがためであったのかもしれない。

叔母さまは、長子の想像を超えた、やはり用意のよいお人である。

そこでわたしは、父上より言い渡された謹慎中の自身を思い出した。忍を呼び、「静香さまに、後で長子が、お大事なお話があるから参ります、とお伝えして頂戴」と命じる。

叔母さまには、わたしの意図が読めたようだ。遠ざかる忍の姿をちらりと眺め、くすりと笑い、呆れたようにおっしゃるのだ。

「長子、あなたすっかり『兄上』に甘えているのね。邸を抜け出す上手い算段を、静香殿にお願いしようと思っているのでしょう?」

「だって、父上は本当に厳しくていらして、叔母さまの許へ伺うことも、禁じていらっしゃるのだもの。静香さまは、父上に特にご信頼があるから……」

叔母さまはきっと我がままとお笑いになるだろう。

あれほど遠かった静香さまに今、お頼みごとをふっとできる近さを持てたことが、しみじみとありがたい。

恋で始まって、その果てにこんな風な親しさに辿り着くのだ。それはほのぼのと嬉しく心地よく、今ぽっかりと空いた胸の隙間にわたしは、静香さまのお姿を、そのように置いている。

静香さまも、何かを脱いだようなわたしの妹振りを、喜んでいて下さるのではないか。お会いする際のお言葉の端々、またはまなざしの優しさと労わりに、そんなことを感じるのは、長子の独りよがりだろうか。勝手気ままだろうか。

「あなたときたら、まったく……。しょうのないこと。けれども…」

叔母さまは呆れついでに、ほろりともらされた。伊織がかつて、彼女の前で口にしたという、彼がわたしの存在を胸に留める理由、そして好きな理由を。

「長子の、明るいのがよいのですって、それから、見えたそのままを、澄んで捉えるのを眺めていると、春の日盛りのようで、気持ちがよいのだそうよ。」

「ふうん」

照れるより何より、少々憮然としてしまった。女子なのだもの、心根よりも姿を褒められた方が嬉しいのに。顔が愛らしいとか、姿がきれいだとか、髪が美しいとか…、そっちの方が嬉しいのに。

会ったら、一言いってやりたくなる。あの初めての逢瀬の最中、「姫の笑顔がきれい」だと、「泣いた顔が愛らしい」とささやいて、抱きしめたくせに。あれは刹那の儚い睦言でしかないのだろうか。

会って、頬を、腕をつねってやりたい。

意地悪でつれない伊織の胸を、ぶってやりたい。

けれど、だけれども、頬を膨らませながらも、会えたのなら、多分、きっと、わたしは泣いてしまう。嬉しくて、きっと泣かずにはいられない。

 

 

翌日静香さまのお計らいで、まんまとわたしは邸を出ることが叶った。「知己の藩侯より招かれた花見に、長子殿をお誘いしたい」とのお言葉を、あっさりと父上はお認め下さった。

数人の供と共に、飾らない駕籠で向かう。途中、実際にお誘いを受けているという藩邸へ向かう彼とは別れた。帰りには、静香さまが叔母さまの庵へ迎えに現れて下さるという。

庵では、客人を迎えるお仕度で、尼たちがいそいそと動いている。叔母さまは挨拶もそこそこに、わたしをお座敷の隣りの控えの間に移しになった。

ほどなく葛城さまが訪れるらしい。

「長子はそこで、おとなしくしていらっしゃいね」

わたしだって色々と、葛城様という老中に問いたいことがある。不平な顔を隠さないわたしに、彼女は小さな小箱を手渡した。干菓子が詰まっている。

「これでも食べて、聞き耳を立てていらっしゃい」

何だか叔母さまのなさることは、伊織にほのかに似ている。

 

葛城さまが現われたのは、わたしが控えの間に引き込み、退屈しのぎにその薄暗い部屋で、渡された干菓子を口に含んだ頃だった。

朗らかで、如才のない挨拶が交わされる。

「いや、面目ありませんな。申し訳ない。なかなか時間がゆるりと取れなくて、老中が一人欠けるというのは、大層なものですよ」

叔母さまが何用で呼んだかを理解しているためか、簡単に伊織の件を切り出すのだ。

「惜しいことに、香月さまの御前でも、時間があまりないのですよ」

そこで咳払い。

葛城さまの声は朗らかで、老中といえども威圧的でもない。穏やかに叔母さまに対している。その声音だけでは、気持ちのいいほどの人物に感じられる。

「…このたびのことは、どのような経緯なのでしょう? あまりに不意で、急なことではありませんか。わたくしも、面妖に思います」

「はは、さすがの香月さまも、榊殿の件になると、すぐに動き出され、上様にも御目通りをなさる。何、存じておりますよ。このご様子では、お二人の仲が何やら妖しいのではないかという周囲の戯言も、実はまことではないかと、邪推したくなりますな」

え。

新しく放り込んだ干菓子を、思わずこりっと歯が噛んだ。

叔母さまと伊織が?

「まあ、おかしなことを。ほほ、まだわたくしも、捨てたものではありませんのね。そのような艶聞に名を出すなど。おほほほ、伊織殿が何とおっしゃるかしら。あの方は、わたくしなどよりお若いから」

叔母さまの楽しげに笑う声。それに合わせ、葛城さまの彼女の容色を褒める言葉が続く。

「いやいや、まだまだお美しい盛りでいらっしゃる。上様が戯れに、『還俗させ再度大奥に召し、束ねてもらおうか』と仰せになられたほどですよ」

「まあまあ、もったいないこと。それでも、若い美姫のあふれる中に、老い桜をさらすのはたくさん」

和やかに話しは続き、大奥の噂話や、更には御台さまにまで話が及ぶ。今の御台さまのお輿入れに、叔母さまが大名家公家に作用し、少なからず働いたことが話しの中に匂い、あ然となる。

つらつらと話が流れる。時間がないと言っていた割りに、のんびりとお喋りを楽しんでいるように感じる。叔母さまを粗略には扱えないという気遣いだろうか。

「ときに」

唐突に、伊織の話しに戻る。

「今回の榊殿の件は、首座の若林さまを始め、老中皆が吟味し諮った上での衆意でありまして、取り立てわたしだけが、強く押したように取られるのは、いささか心外ですな」

「そのようなお声があるのでしょうか?」

「ええ、聞こえますよ」

「どちらから?」

それに葛城さまの短い笑い声が聞こえた。お愛想笑いなのだろう。後も引かずにすぐに消える。「ですから、こちらにお呼びになったのでしょうに」

叔母さまはそれに取り合わず、互いのために、と前置きをされ、

「では、何が理由かお聞かせ下さいませ」

「香月さまともあろうお方が、何か、勘違いをなされておいでではないか? 確かに長崎は遠い。けれども榊殿はお若く、あの激務をこなしていただけると、我々は十分に期待しての人事なのです。今の奉行はそろそろ不惑〔四十歳〕半ばを迎え、体調を理由に隠居を願い出ているところです。これは何も陰謀めいた話などではなく、単純に公儀としての、人材を有用に効率的に生かすための苦肉の策でありますよ」

滑らかで諄々とした、流れるような説明に、わたしも頷きかけた。そうなのかもしれないと。

伊織が今京を離れないでいるのは、蟄居などではなく、江戸へ戻るより、その地から長崎へ向かった方が便利だからだという。

「ですから」

念押しするような声、それは柔らかく叔母さまに話しかける。「それだけのことなのですよ」と。

叔母さまはそれに、ちょっとの間を置き、「よく了解いたしましたわ」と静かに答えた。

その後で、しばらくすると辞去の挨拶があり、畳を擦る足袋の音がし、最後には襖が閉められる音が続いた。

 

「長子、出ていらっしゃい」

叔母さまのお声で表に出たのは、葛城さまが暇を告げ、どれほどたった頃だろうか。

彼女はわたしの手の干菓子の箱が、もう空近くなっているのを笑い、お茶を用意させて下さる。

「さぞ、喉が渇いたでしょう」

温かいお茶を飲むとほっとする。口に中が甘い砂糖で溶けそうだったのだ。

叔母さまは先ほどの会談に、何やら思うのか黙り込んでしまわれる。わたしが問いかけても、どこか上の空だ。

ふともらしたのが、「お金持ちでいらして、殊に賂がお上手な方なのよ、あの葛城さまというお人は」という言葉。

そこで、叔母さまはわたしに向け、微かに笑顔になった。

「え」

老中連中を、潤沢な資金でもって懐柔したに違いないと叔母さまはおっしゃる。

「どうして、そこまでして…?」

「伊織はもしや、あの葛城さまに、そうまでさせる恨みを買っているの?」

それに答えはない。

叔母さまは再びの沈黙の後で、「まさかそのような…」ともらした。わたしの問いに対する答えなのか、そうでないのか。何の意味を成すのかわからない。

 

わたしは静香さまのお迎えを待つ間に、叔母さまにお許しを得て恵向院へ出かけた。葛城さまの意見は聞けたが、それでどうにかなる問題ではないのだろう。

『取立て詮議はせぬ』と、上様ですら御看過されておられるという事実が、目の前を暗くする。どうにもならないのだろうか。

叔母さまのお力でも、事態をどうすることも叶わないのだろうか。

伊織との思い出の、池に渡した橋まで来た。うっそりとも感じる周囲の潅木は、目に染む緑を濃くし始めている。ちらりと視界に桜や、別の鮮やかな花が咲くのが見える。

橋を渡る途中で、眩暈を感じた。まぶしい新緑の花の季節、萌える春に、長子はなんて暗い気持ちでいるのだろう。

その気持ちの滅入りが、眩暈を呼ぶのだ。

欄干に身を乗り出し、池の鯉を眺める。ゆらゆらと舞うように泳ぐ優雅なその姿を、何の感慨もなく目に映す。鯉の餌売りがわたしの背後をうろうろとする。買う気がないのが見えたのか、しばらくしていなくなった。

何人か人が通った。稽古事の帰りらしい娘や、その小者。荷を背負う男も幾人か。

わたしはそれらの人の行き交う和やかな喧騒を背後に、欄干に悲しい物思いが詰まった身を預けている。

「おい」

と声が掛かった。

自分を呼ぶ気配を感じたが、無礼に返事を返さずにいると、もう一度「おい」と。

 

「姫」

 

おいと不躾な掛け声が、不意に耳になじんだものに変わった。それは確かに「姫」と聞こえた。

とっさにわたしは身を返していた。声のする方を見やる。そこにありえない姿を見つけ、わたしは可愛げもなく、ぽかんと口を開け、呆けたように立ち尽くした。

「あ」

そこには、編み笠を頭に載せ、群青の爽やかな色目の着流しを纏った伊織の姿があった。

当たり前のようにわたしへ歩を進め、伸ばした指で、顎をちょっと持ち上げた。

「あ、だけか? 何かもっと言うことないのか?」

磊落に、普段と変わりなく、わたしの知るままの様子で笑うのだ。

わたしは瞳を瞬かせ、目の前の彼の姿を、懸命に瞳に映した。

「ほら、何か言え」

「…失脚老中」

ほろりとこぼれたのは、選りによってこんな憎まれ口。もっと言いたいこと、告げたいこと、問いたいことが胸にはあふれているのに。

伊織はわたしの言葉に、からっと楽しげに笑った。

「まだ失脚してねえよ」

そのまま、わたしを胸に抱き寄せた。

頬に当たる彼の胸。そしてわたしを包む腕の強さ。見つめる瞳はほんのりと凝らして、わたしを逸らさせない。

「すまん、待たせた」

触れた唇に、ようやく涙が瞳から弾かれ、頬を伝う。ようやく伊織を感じるのだ。

会いたかった。

あなたに、伊織に長子は会いたかった。

だから彼の口づけは、こんなにも甘く、そして切ないのだ。




          サイトのご案内トップページへ♪

『見つめるだけの』ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪