残された一つの希望
見つめるだけの(16)

 

 

 

「上方は、俺が最後にいた京では、桜が散り始めていた」

わたしの肩に降る桜の花びらを、指でつまんで、伊織はそんなことをつぶやいた。江戸ではそろそろと、桜は見頃を迎える。
池の水面には、早も散った花びらが、まるで可憐な友禅の振袖の図案のように散っている。

彼の何でもない様子、表情を見守るわたしは、訊きたいこと、問いたいことで胸があふれそうになる。

「あの…」

伊織は、三日前に江戸に着いたばかりだと言った。

「一つずつ言え。答えてやるから」

わたしが指を置く橋の欄干。その上に、伊織が包むように手を重ねた。彼が側にいる実感が、ひしひしと伝わる。

重なって、溶けるように感じた唇の熱に。今、触れる指の温もりに。

それらに、ほろほろとこぼれるように胸から問いがあふれるのだ。

「どうして江戸にいるの? 上方にいるはずじゃないの? そのまま長崎に行くのではないの? 「まだ失脚していない」って、どういう意味?」

伊織はわたしの問いに、しょうがねえな、となぜか笑う。何がおかしいのだろう。

それでも、笑みをほんのり唇に残したまま、彼はわたしの質問とは、がらりと趣の違うことを話し出した。

「公儀は、米で成り立っている」。

「え」

「ちょっと我慢して聞いていろ。順にわかる」

 

「天領〔直轄領〕からの年貢米の多くは、市場のある大阪に集められる。そこで金に替え、またはそこから江戸へ運ぶ。この米で、公儀は江戸の旗本直参を食わせている」

のぞき込む彼の瞳が、「知っているか?」と問いかける。

瞬きの後で、頭を振った。畏れ多くも、ご公儀の御内所の仕組みなど知らない。

大阪・京そして江戸浅草には、この年貢米を備蓄するためのそれは大きな御蔵があるという。

「藩が国許からの物資を収める江戸蔵屋敷と同じようなものだ」

伊織の話では、年貢米を各地へ運ぶために、海上を定期船が行き交う。上方の大阪・兵庫といった繁華な大港町には、公私共に物資を運ぶのを生業とする廻船問屋が林立しているという。

特に、ご公儀の年貢米(御用米)を運ぶ船を御用船といい、豪商が請け負う。

「俺が上方の行き帰りで、乗ったのもこれだ」

それを聞き、わたしは自分の口に入るお米が、水田から、更に随分と人の手を経ているのだということに、今更ながら愕然となる。

「ふうん…」

わたしは伊織の顔を見上げ、または重なった手を見、彼の話がどこへ向かうのか、わかりかね、息をつめてその続きを待った。

「その大事な御用米を、私腹を肥やすためくすねている輩がいる」

「まさか、お上の御用米を? そんな不忠な…」

驚いて問い返したわたしに、彼は軽く頷いて答えた。「ああ、俺のごく近くにいた」

幕府老中葛城惟秋。

伊織の告げた名に、唖然となる。紛れもなくその人は、先刻叔母さまが庵に招き、対面した人物ではないか。温和な声の、穏やかな語り口調が印象的だった、あの、人物以外にいない。

驚きをやり過ごす前に、伊織は更にわたしに二の句の告げない言葉を投げた。

「俺は、彼の罪を暴くために上方へ行き、失脚する振りをした」

 

伊織は老中首座の若林さまにこの議を諮り、まず了解を得た。「上様にこの件を上申する手柄が、あの御仁のものになるならば、話に乗るだろうしな。これで、美少年好きだのの噂の恥じを、すすぐつもりだったんだろう」

そんなことを言って笑う。

それから伊織はほぼ無断で、御用廻船で上方へ立つ。
彼の取った急な行動。不意で長の上方行き、老中には身軽であり得ない御用廻船を利用しての旅。
それらの符合に、きっと葛城さまはいぶり出されるように動き出すはず。
伊織はそう読んだ。

一方若林さまは、伊織の留守の間の葛城さまの出方に合わせ、彼の強引さに押し切られたように振舞いつつも、賂を受け取り、他の老中をそれとなくまとめ、伊織の罷免に承諾する。

承諾した後で、単身、上様に伊織との計画の仔細を申し上げる……。

伊織はそれらの動向を知らせで聞き、時を置き、江戸へ帰ってきたという。

「兵庫の港では、横領の着服の証人も見つけることができた。確たる証拠もある。それらを拾うのと、留守にすることで葛城殿を動かすのが、俺の役割だった。まあ、姫に予め言った視察の件も嘘じゃない」

彼はそこで、わたしの顎を指でつまんだ。ちょっと上向かせ、

「わかったか? 江戸に俺がいる理由、上方を立った理由、長崎に行かない理由、それと…何だ? ああ、失脚していない理由か」

と、ほのかに笑う。

ついでに、と、彼がこの恵向院でわたしを見つけることができたのは、叔母さまが葛城さまを庵に招いたことを知り、今回の件での叔母さまのご心配を考え、詫びと弁明に上がるつもりだったのだとか。

「香月さまのお人柄を思えば、好奇心の塊の姫も、ひょっとしたら呼んでいるんじゃないかとも勘繰った」

だから、ここにいるのだと。

「ふうん」

伊織の指が、顎を捉えたまま、親指でわたしの唇に触れる。なぞる。彼の視線がわたしに注がれる。

そのどこか甘い仕草に、気持ちが揺すぶられる。少し凝らす瞳の癖や頬の線。長子の好きな、そのきりりとした涼しい面差し。久しぶりに会う彼の姿にときめくのだ。

けれども胸にしまったままいられない。

彼は……、大事なことを告げない。

「もし、若林さまが、伊織との約束を違えたら? 上様に申し上げなかったら? もし、葛城さまの言葉を呑んでしまったら?」

だったら、伊織はきっと老中の職を解かれ、長崎に赴任することになって、そこで奉行か何かになって……、長子にはずっと会えないことになる。ずっと。何年? どれくらい?

だって、叔母さまがおっしゃった。「たとえ上様でも老中の総意には、余程のことがないと覆されることはない」と。そして御血筋だからこそ、伊織を身贔屓が御出来になれないだろうとも。

伊織の静かな声。

「すまん、その覚悟はあった」

だから、契っておきたかった、と。

その声はつきんと胸に届く。つきんと、胸を焦がす。

「そんな顔をするな」

わたしはどんな顔をしたのだろう。伊織が不意に引き寄せた。胸に抱き、「公儀の大きなごく潰しを始末できるのなら、俺の進退くらい、賭けるのは易い」

「長子は? 長子はどうでもいいの? それで会えなくなっても、よかったの?」

わたしは彼の腕の中で頬を膨らませているのだろう。拗ねて、なじって、多分正しい伊織を困らせている。彼の吐息と沈黙に、それを感じる。

伊織なんて困ればいい。うんと困ればいい。腐れ老中め。

長子は父上にぶたれて、お叱りを受けて、謹慎の身にまでなって、心が痛いほどあなたを心配して、泣いて、毎日切なく焦がれて……。

「姫なら待ってくれると思った。だろ?」

「待てない。長子は大年増になってしまうわ」

そう答えながらも、頭では別のことを考えているのだ。

伊織を待って、奥方にしてくれるという約束を信じて、きっと待つだろうと。そのためには父上のきついお怒りを買ってでも、祝言から逃れるため、叔母さまに得度〔仏門に入る〕をお願いしても、長子は伊織を待つだろう。

あの葛篭に詰まった、あなたがくれたたくさんの折鶴があったのなら、長子は、きっといつまでも待つのだろう。

「ちょっとは待てよ」

もう憎らしく、伊織は笑っている。声が笑みを含んでいる。そんな声で、そして図々しい指は、わたしの顎をつまんだまま。

「待つって言えよ」

口づけにつながる狭間に、そんなことを言う。

「聞きたい」

のどかな風に舞い、桜の花びらがふわりと肩に、髪にも降る。その華やいだ雨の中、さらさらと意地っ張りも溶け、はにかんでささやくのだ。

「待つわ。…知っているくせに」

伊織は京土産に求めたと、わたしの髪に花の揺れる簪を挿してくれた。

 

伊織と共に叔母さまの庵へ戻ると、既に門前には供の者が控え、駕籠が並んでいる。使いが来たのだろう、じき静香さまがいらっしゃるようだ。

叔母は伊織の不意の来訪に、一瞬瞳を見開いたが、すぐにそれを解かし、ふっくらと笑う。

「そろそろお帰りになるのではと。それにしても、お身を考えない軽いお振る舞いですよ。上手く運んだからよいようなものの……」

伊織は叔母さまのややなじる気配のそのお声に、わたしの前の素行では考えられないほど素直に頭を下げた。

「申し訳ない。浅慮でした」

叔母さまは伊織に数語問い掛け、彼が返すその切れ端のような言葉で全てを了解したのか、深く頷かれた。

彼女はもしかしたら、葛城さまとの面談を終えた段階で、伊織の計画を、遠からず察しておいでだったのかもしれない。驚きも、何もあっさりとし過ぎるのだ。

「道理で、上様の御気色がお悪いはず。おほほ」

「お怒りでおわした?」

「ええ。でも、伊織殿をご心配遊ばされてのこと。御側にあるよう、老中へ特にと推されたのは、誰あろう上様でおわすのですもの」

叔母と伊織のつらつらと交わす話は、わたしには理解の及ばない部分が多い。それでも叔母さまのお言葉に、伊織が上様の御愛情を賜っているのだとは知れる。

その事実は、長子にとっても誇らしい。

「そうそう、あなたの大事な相棒の若林さまのご様子はいかが? もうお会いになったのでしょう? さぞあなたがお帰りで、ご機嫌でいらっしゃるのでしょうね?」

叔母さまが朗らかな、どこかおかしがる口調で今回の件の鍵を握る人物に言及すると、伊織はなぜか頬を緩めた。江戸に着いて、若林さまとは一度会ったという。

「あの粘っこい目で見られると、背筋が寒くなります。いつの間にか、呼び名も榊殿から伊織殿にすり替わっていやがるし。唐風の盟友の証だと、手を握られたときには…いやはや、参った」

「あらあら、若林さまは、元服前からお好みを変えられたのかしら?
ご趣味の幅は深めると、思わぬ方へ広くなっていくものと言いますからね。若いばかりの稚鯉に飽いたあのお方には、伊織殿は、まるで京の桂川の鮎のようにも、珍しくもみずみずしく、美々しく見えるのではないかしら。
おほほほ…」

叔母さまのお声に伊織は「桂川の鮎かよ」と、大笑いした。

「香月さまは他人事だと、面白がって、それは恐ろしいことをおっしゃる。
…まあ、あの御仁も今度の件で、大いに面目を施したと機嫌よくしてくれているのが、救いといえば、救いか…」

二人がおかしな話を終わらせた頃合に、叔母の側仕えの尼によって、静香さまのご到着が告げられた。

 

伊織の姿を認めた静香さまは、叔母さまの反応とは対照的に、表情を強張らせた。叔母さまへのご挨拶の後で、ちらりと冷たいほどの視線を伊織に送るのだ。

上方にいるはずの伊織が、どうしてか江戸にいる。にわかには信じ難いのだろう

そのご様子に、わたしが、しどろもどろ、叔母の助けも借り、事の顛末を粗く説明すると、静香さまはゆっくりと頷かれ、「了解しました」と静かにおっしゃった。

あまりに不意の出来事に、ご機嫌がお悪いのかしら、と案ずると、それでもほんのりと瞳を和らげて、

「長子殿の一途な思いが、実った訳ですね」

とおっしゃるお声は、やはりお優しい。

「長子殿、義父上もお待ちかねでいらっしゃる」

そろそろと帰りを促す静香さまに、今日邸を出られたのは、この方のお陰であることが思われ、素直に頷いた。ご都合もおありのはず。だから、あまり我がまま言えない。

このまま、伊織と別れるのは名残惜しくはあるものの、これで終わりではないのだ。また会える。彼に視線を送ると、軽く頷いて応えがあった。

立ち上がりかけた静香さまのお袖に、ぽんと何か小さな白いものが当たった。

「貴殿に上方土産だ」

放ったのは伊織らしい。床に落ちた紙包みを、「見ろ」と顎で示す。怪訝な顔をして静香さまが拾い上げたそれは、御神籤のようだった。

広げたそれを、わたしに見せて下さる。「大吉とある」

そこで静香さまはちょっと笑った。

「ねえ、長子には? 長子にはないの?」

伊織を振り返りねだると、彼はないとにべもない。ふくれかけたけれども、土産にはきれいな簪をもらっていたことを思い出し、気を宥める。

「奥方にお会いした」

伊織の声に、静香さまは折った片膝をそのままに、動きを止められた。「今、何と?」

「だから、茉莉殿にお目にかかったと」

彼のその返しに、静香さまは表情を凍らせる。叔母さまもわたしも、瞬時目を合わせた。

伊織は江戸に着き、その足で橘家に向かったのだという。わたしが京の彼の許へ送った、その使いの礼を言うためであるという。

ご母堂や茉莉さまともお会いし、若君とも遊び、「ついでに一晩厄介になった」のだとか。

その図々しさには思わず呆れ、平気な顔色の彼を見やったまま、口をぽかんと開いてしまう。

「俺が江戸に帰ったことは、どうであっても、一日二日は葛城殿に知られたくなかった。橘家なら、まったく俺とのつながりが辿れないから、格好の目隠しになる。
いや、実に歓待下さった」

これには静香さまがやや低いお声で、

「だから、それをどうしてわたしに…」

「礼のつもりだが」

「礼には及ばない。わたしには、関係のないことだ」

「それはどうかな」

伊織はなぜか、ほんのりと唇に笑みを浮かべている。膝を指で打ち、しばらく叔母さまに目を向けた。

「香月さまがお取りのご仲介の労には、背くことになりますが…」

叔母さまは最後まで言わせず、「はいはい」とおかしそうに受けられた。

「お好きにどうぞ。それが長子にも、皆にもよい結果であるのなら。わたくしの行いなどに、構うことはありませんわ」

二人の言葉は何を意味しているのだろう。

「失礼」微かな声で、静香さまが立ち上がった。曖昧な伊織との話を打ち切るつもりでいらっしゃるのだろう。わたしもそれにつられ、踝をずらし、立ち上がりかけた。

「人が貞操の危険を晒しながら、どうして…」

「長子殿を愚弄する言葉を、使わないでいただきたい」

伊織の言いかけた言葉を、鮮やかなくらい鋭く、静香さまが遮った。

「誰が姫と言った?」

「では、他に誰がある?」

「俺の操だ」

それにはまず叔母さまが、ぷっと吹き出した。頬を緩ませ、口許を袂で覆っていらっしゃる。

「何を好んで、俺が今もって、あの絶倫衆道の若林さまとつるんでいると?」 

叔母さまの「最近あのお方は、どうやら伊織殿がご贔屓のようでいらっしゃるようよ」との、笑い声に引きずられ、静香さまも俯きながらも、口許をほころばせていらっしゃる。伊織の言葉がおかしいのだろう。

伊織には、ちょいちょい、こういったおかしな間をつくる、不思議なやりようがある。

これらの奇妙なやりとりに焦れたわたしが、伊織の袖を引いた。ふっと出てきた若林さまの名に、彼の意図が量れない。意味が知りたい。

「ねえ」と、彼の袖を引いてねだる。

「姫と静香殿の縁組をまとめさせたのも、裁可したのも、若林さまだ。あの御仁なら、それらを元に戻すことだって可能だ」

『え』

『あ』

二つの、音にならない声。それは確かにわたしと静香さまの互いの唇からもれ、こぼれたもの。

伊織のほのかに凝らした瞳は、真っ直ぐに静香さまを見つめる。

「すべてに、未練があるのだろう?」


「何を言うか」

鋭いお声に、わたしは静香さまをうかがい、そして、その言葉を無遠慮に投げた伊織ううかがう。
伊織は涼しい表情で、「未練はいつでも、そう悪いものじゃない。容易く捨てるな」とつなぐ。

 

「『大吉』が出たのだろう? なら、ゲンはいい」

 

そういえば、伊織は言っていたはずなのだ。

「策はある」と。




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