目覚めのキス
見つめるだけの(17)

 

 

 

春が濃くなる。

空気が日々に温みを増す。朝目覚めた後で、庭に下りた折に、昨日の朝よりもほんの少しばかり、肌に触れる風が違うのに気づく。

女中の声がどこか華やいだものに感じられ、そして気持ちがふんわりとたおやかになっていく。

とりわけ、何も変わらないように思い、けれども何かが違うことが、頭を離れないのだ。

日々の中の、季節の見えない移ろいの影。

蕾を持ちふくらんでいたものが、あっけなく開く。開いた花が、風に柔らかに香る。

そんな春、わたしは伊織の奥方になる。

 

それは突然、ある日に起きた。

もう一月もない後に迫っていたはずの、わたしと静香さまとの祝言が、いきなり延期となった。
まずそれは、怪訝な様子を隠せない母上からわたしに伝えられ、それから数日を置かずに、次は父上自らのお口から、祝言が白紙になった旨を聞かされたのだ。

江戸に帰った伊織に再会したあの日も、『任せておけ』と、彼は言った。今後のことに、ちらりと不安が完全に拭えないわたしに、彼は言ってくれていた。『姫はただ、待てばいい』と。

それがいきなり叶った。

どういう手を使ったのか、伊織が口にした通り、あっけないほど簡単に目の前に広げられるのだ。

いつか、わたしの言葉に彼は「老中を妖術使いのように言うな。何でも適う訳じゃない」と、嫌な顔をしたことがあったけれども、それに近いのではないかと感じる。

むっつりと温和なお顔を難しくされた父上は、低いお声でおっしゃった。

「祝言のお許しだけではない。静香殿との養子縁組さえもなかったことに、とのお言いつけだ」

「え」

一瞬意味がわからず、わたしは父上のお袖を引いた。「どういうこと?」

「若林さまがおっしゃるに、我が柚城と橘家との縁組は、上様の御意向に沿われるものではないとのことだ。だから、最初からさかのぼって、両家の縁組は、すべてなかったことになるのだそうだ」

「まあ」

二の句の継げないわたしに、父上はご機嫌がお悪いように、じろりとこっちを睨まれた。

「好きななさり方ではない。おそらく、十中八九、榊さまのお指図もあると見える。長子のためとはいえ、上様の御威光を嵩に、あまりな横車の押し方ではないか」

満足か、とわたしを見つめる父上のお顔は、やっぱり苦いものであふれそうだ。

「どれだけ骨を折り、静香殿にこちらに来てもらったか。どれだけその折衝に時間を使ったか。それに、どれだけの人を巻き込んだか…」

「ごめんなさい…、父上。長子の我が侭で…ご迷惑を…」

父上はわたしの詫びに応えず、きゃんきゃんとじゃれつくちんを、扇子であっちへ行けと、払われる。

父上は伊織の細かな気持ちを知らない。自分の進退をあっさりと賭けた危ないほどの勇気も、振る舞いも、その意味も。

伊織の失脚劇は、上様の御計らいもあり、世情不安を避ける意味で、葛城さまの免職蟄居引退ということで幕を閉じた。

その後、再び元の通り老中の座に収まり、いつの間にか首座の若林さまと昵懇になり、こんな問題を持ち掛けさえする彼を、いやらしく狡猾で、傲慢な若者にしか見えないのだろう。

「なさりようが、他にもあろう。腹に据えかねる」

父上は結果しか知らない。

それ以上のお小言も苦言もなかった。ばしりと膝を扇子で打って、父上はお部屋を出て行かれる。肩越しにお声が聞かれた。

「奥は、今回の急な件で、具合が優れんと臥せっているようだ。見舞ってやりなさい。長子、そなたのせいだぞ」

そのお言葉は重く、胸にしみた。

 

 

それから事が、幾つも重なり、重なりした。母上のご病気に、父上のご不快。それらを憚った邸内の静かな重い空気。

それに、静香さまが柚城の邸を出られたこと。

彼はそのまま、江戸の橘家にお戻りになった。そこでは懐かしいご母堂や茉莉さま、そして若君にご対面され、どれだけお喜びであろう。

柚城とは違う趣のなじんだ橘家の上屋敷。置いた家臣方を目にし、どんなご様子であろうか。間違いのないだろう暖かで優しい気配が、頭にすんなりと浮かぶ。

けれども、一人で邸のしんと静まった道場で剣を振るい、もう相手をして下さるあの優しいまなざしの静香さまが、どこにもいらっしゃらないのだと気づく。その思いがけない切なさで、苦しくなる。

お幸せそうな彼のご家庭の様を思い描き、それで悲しさがちょっぴりと和らぐのだ。これでよいのだと。

それでも、ふらりと空っぽになった中奥の静香さまのお居間に足を向けてみるのだ。そこには、いつもあった書見の台や脇息すらもない。ときに、わたしの我が侭やお転婆振りをひっそりと噂して嗤う近習もいない。ひっそりと空虚な空間があるばかり。

静香さまは、お別れの際にお言葉を下さった。

『縁が切れた訳ではない。変わらず兄とでも思っていただければ嬉しい。最終的にこういう形になったが、長子殿にお会いできた三年という歳月は、わたしにはそれだけで意味がある』

優しいお声は、耳を去らない。

その佇まいも、静かな笑みも。

わたしは、もういない静香さまを浮かべるとき、散った初恋のほのかに苦くちくりとした痛みを感じる。

そして、忘れられない感謝を思う。

 

 

叔母さまのお誘いで、千代田のお城に参ったのは、静香さまが去られてどれほどたった頃だろう。

春の気候のよい頃合に、御台様のご主催で花見の宴が張られたのだ。大奥の主だった方々とそのお側女中。それに上様が、ちらりとの間御臨席になる。

はらはらと桜の花びらが乱れ飛ぶ中、女方の華やかな舞や優雅な楽の音が、幔幕を張ったお庭に漂った。

春たけなわのそのお遊びの最中にも、御台様は面白くなさそうに眉をややひそめ、側にお寄せになった叔母さまに、詰まらないと、小声で愚痴をこぼしてばかりいらっしゃる。

ちんまりとした唇も愛らしく、可憐なお方であるのに、扇子に顔を半分も隠し、誰それのわるくちばかりをおっしゃるのには、閉口してしまう。当代一の貴婦人であられるのに、ご不快とご不満でそのお胸はいっぱいいっぱいのようだ。

叔母さまは上手にそれを聞き流したり受け止めたり、誠に辛抱強く、優しく聞き役に徹している。こういうときの叔母は、つくづく仏様のように偉く思える。長子には、決して務まらない根気の要る役柄だろう。

やはり客分のわたしには、何の注意もお払いにならない。『ぜひにまたお会いしたい』とお言葉があったというのに。

水干姿の艶やかな舞に手を打ち、小さな団子を二つ一度に口に入れたとき、

「長子殿はお気楽でよいこと。……何もかも自由気ままで、誠によろしいこと」

愚痴ばかりおっしゃっていた御台様のお口が、ふっとわたしに向けられた。叔母さまがそれに礼をお返しになる。

「毎日がそれは楽しいでしょう。わたくしと生まれも育ちも、そう差異はないというのに、運命とは皮肉なもの。人々の視線の中、息も詰まる思いで一生暮らすわたくしと、何の悩みもなく、憂いもなく、お気楽に過ごすあなたと」

お言葉に、口の中の物を急いで喉に押しやり、ちょっとうつむいた。皮肉と嫌味が混じるのを感じたが、何も返せない。

長子には、御台様のご苦労もご不満もよくわからない。

なぜに、そのように愚痴ばかりおっしゃるのかも。おきれいなお召し物を纏い、春の優しい気候の中、宴の舞を見て皆が楽しげに騒いでいるのに、何が足りないのかもわからない。

ご自分で設けられた宴の席であるのに。

ご身分に恵まれて、更に美しくもいらっしゃる。大奥の主とも言うべきお方が、どうしてこうも唇を曲げられているのか理解が及ばない。わたしとは比ぶべくもなく、環境も違うのだ。それを敢えて汲もうという意志もない。

ただ、こうも不平ばかりを唱えるお人は、長子には珍しくも苦手で、おつき合いがし辛い。叔母さまのあるときばかりの甘えであろうか。それとも普段からこのようなお癖なのだろうか。

お側の女方のどこか慣れた御台様への気遣いの様に、多分後者なのであろうと、何とはなしに思われる。

「この姫はまだ、子供なのでございますよ」

叔母さまのとりなしに、御台様はちらりとわたしに視線を流される。

「わたくしも、あなたの年頃に入る前、こちらに上がりました。それからは、いたずらに日々が過ぎ、ため息ばかりの…」

うつむきながら、わたしはもれそうになる欠伸を、唇を噛んでやり過ごした。

長子はきっと仰せのように、これといった苦労もなく、気楽な身の上なのだろう。恵まれているのは違いがない。

人によって、苦しみの抱え方乗り越え方には、誠に差があるものだと、御台様をため息混じりのお声を耳にしながら、そう思う。

例えば叔母さまのように、それを糧にし、天晴れなほどに世を泳ぐ人もある。

そして静香さまの奥方茉莉さまは、健気で非常に可憐でいらした。別れの辛さに耐えて、それに溺れず、お優しかった。ああ、やはり静香さまの愛されるほどの方であると思う。

それから、二人とは雰囲気が違うけれど、深川の芸妓の牡丹。彼女は、決して表にできない仲であっても、俊輔殿を思って、添えることで満ち、快活に幸せそうにしていた。そして伊織との別れに涙を流すわたしを宥め、勇気をくれた。

いずれも、その佇まいも心のありようも、きれいな人々だと思う。美しいと思う。

「羨ましいこと…、引き換え、わたくしには何もない」

「まあ、御台様そのような…」

叔母さまの相槌の言葉に、またも「何もない」と繰り返される。

憚りながら、お聞きして、御台様は少し、というかかなりの気臥せりなのではないかしら、と思う。思い込み、鬱屈が重なって、胸がお辛いのじゃないかかしら。

わたしはそう思い至ると、憂い顔の御台様に、進言を申し上げた。

「剣の稽古でもなさったら、よろしいのではないでしょうか? お気が晴れましてよ。何でしたら、長子が指南をお勤め申し上げますわ。これでも、わたし○×流の師範なのですもの」

 

 

何を思われたのか、わたしの言葉に、御台様は急に席を立たれた。御殿に戻られたようだ。ざわざわとそれに従う者が流れるように続く。ふつっと楽の音も止まった。

いけないことでも言ってしまったのかと慌てたが、叔母さまは軽く首を振られる。

「いいのよ、あれで。お気を暗くさせていらっしゃるのが、お好きなだけなのだから」

「どうして?」

それに叔母さまは曖昧に微笑んで、腰を上げた。「そうすると、皆の視線が集まると思っていらっしゃるのでしょう。そういう物思いもあるということ」

帰ってしまわれた御台様に、お詫びの挨拶に参ると、叔母さまは去ったが、その間際に、わたしに耳打ちした。

その言葉に頬が熱くなる。

そろりと席を立ち、甘い風ではためく幔幕の間を抜けて、お庭を急いだ。

迷路のような中を、それでもいつか見た池を頼りに歩く。緑の水面に水鳥かが、遊んでいる。

その池の脇に屈んだ伊織がいた。手首を捻り、何かをぽんと水面に放ったのが見えた。わたしに気づくと、立ち上がり、

「宴は終わったのか?」

「さあ、わからない。御台様がお戻りになってしまわれたの」

わたしは池に伊織が何を放ったのかを訊き、それを自分の目で見ておかしかった。小さな折鶴がふわりと揺れて泳いでいる。

待つ間に織っていたのだろうか。

わたしはこの短い逢瀬に、ぽんぽんと近況を重ねた。伊織の計らいで、橘家のとの縁組がご破算になり、父上がひどく怒っていらっしゃること。母上が臥せってしまわれたこと。

それらを聞き、彼はわたしの頬に指の節を当て、首に滑らせた。襟足でごく緩く指を這わせ、

「近いうちに、邸に詫びに上がる。姫は気にするな」

「うん…」

「大丈夫だ。俺に任せろ」

伊織の声は、いつもわたしの深いところに届く。ほしい言葉の熱が、するりと胸に広がっていく。

それに癒される。甘えたくなる。

わたしはきっと寂しいのだろう。兄とも思い、慕っていた静香さまが去ってしまわれたこと。そしてなかなか伊織に会えないことも。

「葛城さまの件でも、伊織があんまり何気ないので、事の顛末しかご存じない父上は誤解されているの。あんな難しいことを、平気な顔で…」

伊織は小さな欠伸をもらし、

「難しいことを難しい面でやってどうする?」

そんな彼らしい気負いのない言葉。そんな伊織が長子は好き。

彼の近い気配に、心が緩む。ねえと顔をのぞく。

「静香さまがお帰りになったの」

「ふうん」

「寂しい。長子に、兄上ができたような気持ちでいたのに…」

ほろほろと気持ちが解けていく。伊織に指を絡めてもらいたい。「俺がいるだろう」と、慰めてもらいたい。

静香さまがいないのは、寂しい。これは偽らざる気持ち。近いうち、橘家にお会いしに行こう。茉莉さまにも、もう一度お目にかかりたい。きっとそうしよう……。

「毎日、午後には剣を合わせて下さったのに…」

「へぼ道場の、あの妙な師範代がいるじゃねえか」

伊織のからかいに、返事もしないでいると、じっと履物が地面を擦る音がした。

「俺にどうしろと?」

硬い声。伊織はわたしの襟足に置いた手で、そのままぽんと打った。

続いてふわりと小さな風が起き、微かに煙管の香りが舞う。伊織が身を翻したのが知れた。

そのあっけなく消える冷たい背中に、唇を噛んだ。

もっと言葉がほしいのに。

次にいつ会えるかも、わたしたちにはそんな約束すらないのに。

目を転じた池の水面に、あの鶴はひどく頼りなく、風に煽られ揺れていた。

 

 

髪を洗い、乾かす間にいつしかわたしは眠ってしまっていた。

ちんが髪にまとわりつくので、忍に言い、別室にやるように命じたことや、大奥での御台様のため息が、おぼろな寝入りの夢に浮かんでは消える。

遠くにちんの声が聞こえる。廊下かどこかに何か面白い虫でも見つけ、勝手に興奮しているのだろう。

それすらも、夢の中に現れる。

頬に何かが触れた。くすぐったく動き、眠りを邪魔しているかのように、それは髪に伸びた。

寝返りを打ち逃れ、その背中に微かな声を聞いた。それは小さく「姫」と聞こえた。

「姫」

頬にあてがう手のひらの感触に、わたしは瞳を開けた。はっとうつろな眠りから覚めた。

行灯の穏やかな明かりの中に、こちらに片膝をついて屈む伊織を見つけた。その姿に、まだ夢でも見ているのかと、声も出ない。

腕をつかみ引き寄せるその力。抱きすくめられて確信するうつつ。

「伊織……?」

彼の衣の肌合いは、頬に直に伝わる。頤を指が捉え、抗う間もなく唇が重なった。

少し熱い口づけ。

まだほのかにぬれた結わない髪を、彼がわたしの肩越しに指に絡める。

「どうして、ここに?」

「会いに来た。駄目か?」

やんわりと床に身を倒し、指に髪を絡ませたまま、腕を立てた姿勢で伊織はわたしを見つめる。

ほんのりと凝らした瞳が、光を受け鋭い。

 

「柚城候に、姫をもらう許しを得た」

 

「会いたくて、焦れていた」

それはわたしも同じ。側に伊織を感じられない日々がやるせなく切なくて、もどかしい。微かなわだかまりも、何かのこだわりもみな、交わる瞳に流れて、溶けてしまう。

あなたがいなくては嫌。

あなたでないと嫌。

降るように重なった唇は必然で、それが痛いほどに熱く、わたしを包んでゆく。




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