代償
見つめるだけの(3)

 

 

 

すっと喉許にあてがわれた竹刀の先に、はっとする。

その竹刀を持つ腕の主は、面も着けないあらわな顔をにこりと笑ませた。

「お姫さま、怪我をしたくなかったら、面くらい着けろ。嫁入り前が、引き取り手がなくなるぜ」

憎ったらしいことこの上ない。わたしはぎゅっと、痛むばかりに唇を噛んだ。

けれど、男の言葉は全くその通りで、悔しくても認めざるを得ない。

わたしの剣の腕では、彼の腕には及ばない。ころころと手のひらの上で翻弄されているようなもの。

したたかに打ち付けられた肩の辺り、腰、腕がじんじんと痛む。

「さて、おしまいだ」

ようやく下ろした竹刀を、床に付き、それに身体をちょっと預けるようにし、榊伊織は、「筋は悪くはないがねえ」などと、励ましにも慰めにもならないことをつぶやいた。

大旗本の次男坊だという彼は、叔母さまの許で会って以来、どういう興味なのか暇なのか、わたしが教える神柳道場にひょっこり現れるようになった。

女が手ほどきをするとあって気楽なのか珍しいのか、この辺りの武家の子弟の他、武家の娘もやって来る。さぼりがちな師範代との二人では、案外な生徒数になかなか目が及ばない。

そこへふらりとやって来てくれ、そして腕のめっぽう立つ伊織の存在は、結構重宝ではある。生徒を見た後で、ねだればこうしてわたしに剣を付けてくれたりもする。そんな経緯で、にわかにちょこっと身近な存在になった。

井戸のある勝手で、つるべからすくった水で手拭を浸し、それで首筋の汗を拭っていると、

「そうしょげた顔をしなさんな。団子の一本でも奢ってやるから」

伊織が稽古着の身を縁に屈ませ、こちらの様子をうかがう。長子がしょげでもしているとでも思うのか、ほんの子供相手のように言う。

ひりひりとする腕にぬれ手拭を当て、片方の手で伊織に向け、指を三本立てて見せた。

「三本頂戴。一本なんてけちなこと言わないで」

「はいはい、お姫さま」

おかしそうに伊織は笑った。

おかしいのはあなたじゃない。わたしが柚城藩の姫と知りながら、そしてかつてあの香月さま(叔母さまの大奥時代の通り名。今もそれは隠れた力がおありだとか)の姪であることを承知で、平気で軽い口を利く。

そういう礼のない態度は、長子は父上と母上、目上の方にしか取られたことがない。最初は面食らい、無礼な奴だと思いもしたけれど、幾度かそれが重なると、不快にも思わなくなった。

いつしか相手に許させてしまう、からりとしたそんな図々しさとふてぶてしさを、彼は持っている。

 

 

稽古の後、境内に至る参道の茶屋の一軒で、約束に違わず伊織は団子をご馳走してくれた。

自分は燗をした酒を手酌で飲みながら、にぎやかに人が行き交う通りをちょっと顎で示す。

「なあ、俺たちは何て取り合わせに見えるんだろうな?」

「え」

そんなことはどうでもよかった。彼には訊きたいことがあるのだ。慌てて口の中の物を飲み込み、胸をとんとんと叩いてから、彼になかなか教えない剣の流儀を問うた。

我が流儀に似た節もあるけれど、伊織のそれは、器用に他流の特徴を、真似ているだけのようにもどこか見えるのだ。ときに見せる鋭いあの返しと足の踏み込みは、一体どこの……?

なのに伊織は、それに応えず、杯を口に運び、粋な小紋の着流しから出た片方の足を、もう一つの腿に乗せている。

「大小を持った俺の横に、袴の少年剣士だ。どこかの侍と小姓ぐらいにしか、見えないだろうなあ」

「少年は余計。ねえ、伊織…」

「邪まな趣味の輩に見られちまうな。風紀紊乱のかどでしょっ引かれるかもしらん、あははは。でもな、大奥のお女中方には、あっちの話は受けるらしいぜ」

「え」

何を言っているのか、わからない。『あっちの話』って、何?

伊織は煙に巻くように、わたしの問いには取り合ってくれず、ふつっと話題を変え、逆に質問を投げてきた。

身をよじり、空いた徳利を振り、「もう一本つけてくれ」と、店の娘に合図してから、

「ときに、姫の恋しい静香さまとはどうだ?」

いきなりの胸を抉る質問に、わたしは手の中のお茶碗を取り落としそうになった。

伊織は叔母さまの許で出会った絡みから、わたしが静香さまと許婚であることを承知している。そして、わたしが一方的に義兄上でいい許婚のその静香さまをお慕いしていることも……。

黙って俯いた。

威張って伊織に言うほどの進展もないのだもの。

「ほら、いつもの元気はどうした?」

「お声くらいはかけて下さるわ。お廊下をすれ違ったときに、『お先にどうぞ』とか…」

わたしの答えに、彼はぷっと吹き出した。じろりと睨んでいやると、「いやいや、失敬、失敬」とやっぱり笑う。

「『お先にどうぞ』か、これはいい。面白れえな」

「面白くなんかありません」

ついっと彼から顔を背けた。

面白くない。

静香さまは、会うごく少ない機会にも、長子に対してどこか引いているような、ご遠慮なさっているような、そんな素振りをする。

それはやっぱり、婿養子に入った大身の大名家の姫に対する微かな嫌悪感?

それとも、わたしがお気に召さない?

考えても仕方のない、答えの出ないことがくるくると頭を回る。

湿っぽいのも、じっとりとしているのも、長子は嫌い。

なのに、心に静香さまの態度のあっさりとした冷たさが、忘れられないのだ。

瞳も交わそうとしてくれない。ただ、慇懃に丁寧に、「長子殿」とお呼びになるだけ。遠巻きにお優しいだけ。

わたしは近い将来あなたの妻になるのに…。

「俺だったら、こんな面白い姫なんか、放っておかないけどな。ちょっと突いただけで、みゃあみゃあよく鳴く。婿養子の『静香さま』てのは、よっぽど堅い男なのか?」

「まだ婿養子ではありません。伊織と一緒にしないで。静香さまは、あなたみたいな軽いご身分で、浮ついた人じゃないんですから。重いご身分柄、静香さまは謹厳でいらっしゃるの」

長子のきつい返しにも、伊織はけろりと流し、

「ほう、謹厳ねえ。今どき私塾でも聞かないせりふじゃないか」

と杯を干し、傍らの盆の返した。

 

「他に、思い人でもいるんじゃねえのか? 姫の『静香さま』は」

 

「え」

わたしに視線を流しながら、伊織は首の後ろに手をやり、

「他家から、養子に入ったのだろう? 三年前に。いい大人が、女を知らないはずがない」

「それは…」

あまりの言葉に絶句した。伊織の言葉のあけすけな遠慮のなさにも驚いた。

けれども、そうだ。

わたしは、失念していた。ううん、頭の隅にどこかに追いやっていたのだ。

静香さまの先の奥方。橘の当主であった頃に祝言を挙げたその方とは、わずか二年で離縁をなさったことを。

柚城に養子に入るために。わたしの夫になるために。

長子は、敢えて忘れていた。その方の存在さえ、思い出すこともしなかった……。

「おいおい、どうした? すまん、妙なことを言ったか?」

伊織の声が聞こえるのに、何も返せない。

ただ、ふっくらと膨らんだ不安がどんどんと頭を占めていくのが、気味が悪くて……。

長子を受け入れてくれる、お心の隙間なんて、静香さまには元来ないのかもしれない。

まだ、お胸には前の奥方が……?

「なあ」と、伊織の手が、ぽんと軽く頬を打った。それに我に返る。

「え」

「試しゃ、いいじゃねえか。姫のことを思ってるのか、どうか。な?」

「試す? どうやって?」

伊織はそこで、にやりといつものように笑い、ちょっとこちらへ瞳を細め凝らす。そしてある計画を話した。

聞き終え、その計画の突飛さに首を振ったが、腕を組み「任せとけ」と請合う、変に楽しげで自信ありげな様子に、ついわたしも飲まれたようになって、いつしか乗り気になっている自分に驚いた。

改めて「駄目よ」と否定はするものの、

「なら、このまま、不安なままでいたらいい。俺には関係ないことだからな。良かれと思って助け舟を出したまでだ。さあて、姫がそう怖気づくのならば、この案も、引っ込めようか」

「まあ」

意地悪。

口許が笑っているじゃない。

わたしが本音では乗り気であり、最後には頷くのがよくわかっていて、そんなことを言うのだ。このいんちき侍め。

江戸のお旗本には、長子が知らないだけで、こんなおかしな殿方が普通なのだろうか。

「わかったわ。やって頂戴」

 

 

邸に帰ってからも、心が落ち着かず、散々竹刀を振り回した後ではあるけれど、夕餉の後で、道場に向かった。我が柚城藩中屋敷には、幾つかの道場がある。藩士が自由に使える道場は、馬場のそばにあり、他に父上を始め家族がお稽古をなさる道場が、住まいのそば、池に畔にある。そこに着替えた裾引きの着物のまま訪れた。ひっそりとした室内は、月明かりばかり。

たすきを口に挟み、くるりと腕に回し袂をくくる。裾を帯に挟み、愛用の竹刀を構えた。

虚空に向かって幾度か踏み込み、その運動のお陰で、頭のもやもやとした思いがすうっと澄んでいくかのような気配がする。

静香さまをめぐる妙な計画のことも、その発端となった物思いも。

忘れて、しばし横に置いて。

伊織の振るった剣の筋を真似てみた。下段から、切り上げるような、あの独特の太刀筋。

うっすらと汗を額に感じた頃、

「それは、どこで?」

不意にかかった声に、わたしは思わず竹刀を構え、その声に向き直った。

そこにはまだ羽織を脱がない、整った身なりのままの静香さまが立っていらした。織のある利休色が月明かりに浮かぶ。

「稽古のお邪魔をして、申し訳ない。夜半に誰かいるようなので、つい。…その、長子殿の今の太刀筋は、どこで見られたのですか?」

思いがけない出会いに、心の臓がどきどきと鳴る。何とか小さな声を絞り出し、

「…教えている道場で見た太刀筋を、真似たものですわ。あるお旗本の方のものを」

そこで、静香さまはちょっと笑った。白い歯がこぼれた。小さな声で、「その剣には見覚えがある」と。

「え」

「ああ、あなたが外で剣の指南をなさっているのは、義父上よりうかがいました」

「…お転婆だって、母上のご機嫌はよろしくありませんわ」

「そう。ですが、お元気そうで、何よりでしょう」

それ以上、言葉の接ぎ穂がなくて、わたしも、静香さまも黙った。

「では」

彼はいつものように静かに背を向けた。そのすらりとした背中は、瞬きも許さない間に、消えた。

嬉しいのか、寂しいのか、胸が躍るのか、物足りずにやるせないのか。

きっとそれらのない交ぜになった思い。

それが胸の中に嵐のように吹き荒れた。




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