剣と恋心
見つめるだけの(4)

 

 

 

「あらあ、旦那。隅に置けないじゃありませんか。お可愛らしい方と、こんなところで逢引をなさるなんて」

襖がすっと開き、そこから現われた艶っぽい姿の女が、驚いた風にこちらを見た。

裾をきれいにさばき、「ご贔屓を頂戴いたしまして、牡丹でございます」との、三つ指をついた挨拶をそこそこに、主席のこちらへ膝を進めた。膳の徳利を取り、当たり前のように杯を受ける伊織に艶っぽい流し目を送りながら、

「まったく、隅に置けないお殿さまでいらっしゃること」

と笑みを向ける。

伊織はそれに、「『殿』は止めろ、酒がまずくなる」と、満ちた杯を干してから、

「逢引なら、こんな物騒な場所は使うかよ」などと暢気な様子で答えた。

「これはこれはご無礼を。旦那に焦がれている芸妓も多いンですよ。最近お渡りがないのに、お連れの方がこんなお可愛らしいお嬢さまだと知ったら…」

「お前らみたいなきらきらしたのを、見飽きるときもある」

「まあ、おっしゃいますこと」

二人は知った芸妓の話をつらつら交わし、それに笑う。伊織は楽しそうに杯の酒を重ねているのだ。

彼はこの手の場所によく来るのだろう。だから馴染みの芸妓もいるし、人気もあるらしい。

落ち着かない思いで、それでもわたしはお座布団の上の身体をもじもじとさせている。障子を閉じた窓からは、外の明かりに浮かぶ欄干の影が映る。嬌声や三味線の音がお酒の匂いと一緒に、ときに大きくなって、伝わってくる。

ここは深川。上様がおわす江戸城の東南に位置する花街。

話には聞き、そういう殿方の遊ぶ場所があるとは、長子も知ってはいた。

「ほら、俺の連れに舞でも見せてくれ」

伊織の声に、牡丹という美しい芸妓の舞が始まった。三味線の音に、しんなりと袂を、裾を翻し、たおやかな花のように舞う姿は、目が吸いつけられるように優美だった。結い上げた島田の髪が首を傾げるたびに行灯に艶光りする。広く抜いた白い襟足も、まぶしいほどにきれいだ。

「深川で、一、二を争う売れっ妓だ。きれいなもんだろう?」

「ええ…」

しばしわたしはこれからのことも、今という現実も忘れて、うっとりと牡丹の舞に見入った。

こんなきれいな人がいるんだ……。姿は、確かに名の牡丹の花のように匂やかで、まるで大輪の花が咲くように彼女の辺りが華やぐよう。目が離れない。

「きれい」

興奮したのか、喉が渇いた。差されたままの満ちた杯を、思わず一気に飲んだ。飲んでから、酒だということに気づき慌てた。

喉と胸に広がる、焼けるような熱さ。

「おいおい、大丈夫か?」

隣りの伊織が顔をのぞき込んだ。目を細めている。わたしは熱い頬を両手で押さえ、大丈夫だと応えた。

舞の後で、わたしが送った長い拍手に、どうしてだか牡丹は困ったように小首を傾げて笑った。

「どうしたの? 素晴らしかったわ。天女かと思ったほどよ」

「あたしどもは、殿方相手の商売なものですから、女のお方にそんなに褒めていただくのは、初めてなもンで…、おかしな気分がいたしますわ」

「だって、きれいだったもの。ね、伊織。あなたもそう思うでしょ?」

「あら、嫌ですよ。そんな…」

なぜかはにかんでしまった彼女に、伊織が笑いながら、

「こりゃ、珍しい。深川一の牡丹姐さんが、照れる姿なんて、滅多と見られるもんじゃないぜ」

その後で、ちらりとわたしに視線を向け、つぶやいたそれは独り言のようだった。

「珍しいのは、あんたもだ」

「え」

その意味を問いかけようか、止めようか、ちょっと迷った。「あんた」などと指されたのもちょっと不快だった。けれど、それは突然の騒ぎにどこかへ行ってしまう。

部屋の外、襖の向こうから、床を叩く荒い足音が聞こえる。それに混じり、縋るような誰かの声も。「お武家様、手前どもはそのような…」とか、「お待ち下さいませ」、「誰か、奥の間を」……。

それらは大きくなり、近づいてくる。

ちらりとわたしは伊織を見た。彼の頬は笑みに緩んでいる。杯を膳に戻し、

「さあ、役者はそろったようだぜ。始めるとするか」

空いた手で、わたしの手首をぐっと引いた。彼の懐に入り込む形になり、その衣や煙管や知らない匂いに、戸惑った。

顎で示した伊織の合図に、牡丹が襖に手を掛けた。彼女の手が襖を開けるその前に、それは荒く音を立てて開いた。

それは静香さまだった。

伊織が立てた計画。静香さまのお気持ちを確かめる、その計画。

それに乗ったわたし。

『姫が俺と深川の料亭で、芸者遊びでもしている知らせが入れば、堅物の「静香さま」も慌てて飛んで来るだろう。もし人を遣っていればあきらめればいい。本人が現れればめでたいな。十分、姫に気があるだろう』

静香さまは、現れてくれた。

 

 

嬉しさも、喜びも、一瞬で消えた。

静香さまは、これまでわたしが見たこともないくらいご機嫌の悪いお顔をしている。尖らせた瞳は真っ直ぐに、まるで射るようにこちらに向けられ、きつく結ばった唇も、全てが不快に満ちているように思われる。

それを仕掛けたのが、自分だということに、罪悪感と、居心地の悪さを今頃になって感じている。

わかっていたはずなのに、どれだけ静香さまがお怒りになるのか。気分を害されるかってことぐらい。わかっていた。現れてくれるにしろ、そうでないにしろ、静香さまにとっては、嫌なこと。

なのに、……確かめたかった。

「妹を放していただきたい」

伊織は静香さまの厳しい声に、ちょっと笑った。「妹かなんか知らんが、人が上がっている楼に、ずかずかと入り込んで名乗りもしない輩に、従ういわれはない。あんたこそ誰だ?」

伊織の腕は、まだわたしを離さない。その腕の中で、わたしは胸がどきどきと大きく打ち、眩暈がしそうになる。

静香さまの手が、腰の刀に伸びた。がちゃっと微かな鍔の音。僅かにこぼれた刃が、光に鈍くきらめいた。

「貴様などに名乗る名はない。早く妹を放せ」

剣呑な様子に、控えた牡丹もはらはらと伊織と静香さまを交互に見やる。それでもとりなそうするのか、落ち着いた声で、

「他にもお客さまがおられます。騒ぎになっては、御家名の障りになります」

「彼の姫は、わたしの妹。あのような無礼を看過しては、それこそ家名に障る」

ぽんと、そこで手のひらを打つ音がした。伊織がわたしを腕から解き、立ち上がった。脚の皺をぱんと払い、腕を組んで、丸腰のまま静香さまの前に立つ。

「済まん。悪ふざけが過ぎた。悪かったな」

自分がわたしの叔母さま、香月さまに昵懇の者であることを告げ、「姫の許婚がどんな人物か、見ておきたかっただけだ」と、言う。

静香さまのお手はまだ剣の鍔を離れない。鋭く伊織を見つめている。

「なぜ?」

「それは、…そうだな。姫があれほどのぼせ上がっているあんたを、この目で見たかったのと、『お城』でも話題になった柚城藩の新しい跡継ぎに、ちょっとばかり興味があったのかもな」

静香さまが瞳を細めた。怪訝そうなお顔をしている。

伊織の話はおかしい。わたしだって不思議だ。

江戸で『お城』といえば、上様の江戸城でしかない。それ以外はない。どうして彼の口から、軽く『お城』のと出るのだろう。

なぜ……?

「貴様は…?」

小さな静香さまの問いに、あっさりと伊織は答えた。

「榊伊織、老中だ。少将でも通る」

それだけ言い、「送ってくれ、牡丹、帰るぜ」と、奥の大小を二つつかみ腰に挿した。

「後は任せた姫。じゃあな」

伊織は牡丹の案内で、物慣れた様子で部屋を出て行く。そのすらりとした背中を見ながら、わたしは開いた口が塞がらなかった。

だって、旗本の…次男だって…。

老中だなんて、一言も……、そんな。

 

 

牡丹が戻ってくるまでの短い間、静香さまはわたしに何もおっしゃらなかった。怒りも、驚きも、呆れも、何も見せない。

ただ静かに名のように佇んで。

牡丹がわたしに目交ぜで、これからどうするのかを訊いている。

「興がお乗りでしたら、舞を差し上げましょうか? お邪魔な殿さまもお帰りになったところですンで」

茶目っ気をのぞかせる、ほんのりと笑いを交ぜた柔らかい声音。ふと、伊織は彼女だから、この場に呼んだのではないか。何もかも上手くさばき、きっととりなしてくれるだろう機転の効く彼女だから。

わたしが応える前に、静香さまが「それには及ばない。駕籠を待たせてある」

さあ、とわたしを促す。

それに従い、わたしも部屋を出た。

店の外に送りに出た彼女に、何となくそのまま別れがたくて、褄を取った衣を少しつかんだ。ありがとうの気持ちもあったし、きれいな舞のお礼もあった。

それに応えてか、彼女の笑顔は、やはり牡丹のように艶やかだった。初めて見るからだろうか、彼女だけの魅力のせいか、長子は牡丹の醸す佇まいに、うっとりとなるのだ。芸妓とはこれほど美しいものなのか……、とついつい珍しさにも、見惚れてしまう。

馬鹿げたことだけれども、もしわたしが殿方であれば、伊織のように、彼女をこんな瀟洒な楼に呼んで遊びの供をしてもらいたい。そんなことをふと思う。馬鹿げた思いつきではあるけれど。

「榊の殿さまがお連れのお嬢さまですンで、訳ありのお方と思いましたが、まさかお大名のお姫さまとは…」

「長子よ」

こんなきれいな人を嫌いな殿方なんていないだろう。きっと、誰だって、そう。

わたしも牡丹が好きになった。

 

静香さまはわたしを先に駕籠に乗せ、それを確かめると身を屈め、小声で「少しお話があります」とお言葉を下さった。

お叱りであろうと思いながらも、伊織のもらした『のぼせ上がっている』のせりふに、今頃になって恥ずかしさがあふれ出す。

道場で待っているというお言葉に、わたしは頷いた。

逞しい駕籠かきの声も、足音も気配も。いつもなら心地いいばかりに聞こえるものが、今夜は違って聞こえるのだ。

「嫌だ」

自分がしでかした、あまりにもお転婆の過ぎた馬鹿みたいな出来事と、その効果に、長子は自分らしくもなくうろたえている。

伊織の案になんか、乗らなければよかった。

「嫌な男」

本意ではない言葉が口を出る。

でも、乗らなかったら、静香さまのあのときのお顔も声も、わたしは知ることはなかったのだ。

 

邸に着くと、道場に既に人影があった。果たして、それは静香さまで、わたしを認め、少し頷いた。

「あなたを…、大切に思っている」

かすれたその声に、わたしは申し訳なさで、冷たい床にしゃがみ込んでしまった。

「ごめんなさい、静香さま。愚かなことをして。ごめんなさい…」

身を屈め、髪に触れそうな静香さまの指の気配を感じる。

触れるか、触れないかの距離。そばにあるという、空気を感じるばかりの距離。

わたしはその指を、待った。結った髪に感じるのを、待った。

「あなたの知りたいことも、言いたいことも、人を介さずに、わたしにぶつけてほしい。そうしてほしい」

「ごめんなさい」

「その方が、きっといい」

静香さまはそこで、「近寄り難いのであれば、努力しましょう」小さく笑う。

わたしはそっと顔を上げた。そこで、わたしを見下ろす形の彼の瞳に会う。

「できる限り、姫のお気持ちに沿いたい」

その月光のあえかな明かりにも、憂いの色が感じられる。

二人きりのこんな中に、どうして?

なぜいつも静香さまには、ほんのりとした影があるの?

わたしたち、将来祝言を挙げるのでしょう? 夫婦になるのでしょう?

そして、どれほど目の前の長子があなたに焦がれているかも、きっときっと知り抜いているのに……。

どうして?

指は触れない。

触れてくれない。

「柚城は、お厭い? ご生家の橘のお家と違って、おなじみになれない?」

触れてもらえないそんなことに焦れて、わたしはほろりと口を滑らせた。それに息を飲んだような、静香さまの放つ間にも焦れた。

「長子には、静香さまは遠いのです」

「申し訳…」

述べかけた詫びの言葉を、乱暴にわたしは遮った。

「謝らないで。悪いのは、長子ですもの。静香さまは、お悪くなんてないわ」

「……………」

沈黙だけの返事は、わたしを既に持て余しているようにも感じられ、惨めさに、涙がにじむ。

ほしいのは、髪に触れる指と、真っ直ぐな静香さまのお声。本当の声。

 

「橘の家に、子を残しているのです。それが…、なかなか頭を離れてくれない」

 

わたしは息を詰めてその言葉を受け止めた。

ほしくて切ながった言葉は、こんなにも重い。




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