泡となって消えた恋
見つめるだけの(5)

 

 

 

「橘の家に、子を残しているのです。それが…、なかなか頭を離れてくれない」

 

静香さまのお言葉は重く、胸に広がって沈む。ずんとしたそれは、そのまま鈍く長子の中で痛んだ。

小さな声で、ぽつりぽつりと、わずかにその御子のことを教えて下さる。まだ稚い若君であること、その幼さで、自分が去った後、橘家の家督を継ぐことになったことなどを。

知らなかった、知らない静香さまの背景。長子が初めて知る、静香さまの真実。

「……父君ですもの、お会いに…なりたいでしょう?」

「しかし、わたしはもうあの家を出た人間です」

「だって、無理に進められた柚城との縁組だったのでしょう?」

「それでも、わたしが決めたことです。最後には自分で決めた」

静香さまは、以前長子を諭した叔母さまのような、物分りのいいことをおっしゃる。おそらく正しいのだろう、殿方らしいお振る舞いなのだろう。それはわかる。

でも、その過去を、わたしは受け止めかねた。好きになれない。頭ではなく、心のどこかがすんなりと受け入れさせないのだ。

それ以上何を言えばいいのかわからず、わたしはうつむいてしまった。その結った髪のつむじ辺りで、静香さまの声を聞いた。

「別れのときにはまだ、あれは上手く話もできなかった」

それが憂いの訳、距離の訳。

そして真実は、こんなにも冷たい。身を打つ氷のつぶてのように、長子には感じられた。

「つまらぬことを申し上げた。申し訳ない」

「……若君をお生みになった母君は、どのようなお方でした?」

しんと頭の芯が冷えている。心も冷えて、自分が持っていたもの、大事に胸にしまっていたものが、ばらばらと崩れるのをしっかりと感じている。

御子のことをそれほど思われるのであれば、それを生した先の奥方のことを、お忘れのはずがないのだ。

「あなたが知らなくても、よいことです」

「知りたいの。何でも訊いてっておっしゃったのは、静香さまでしょう?」

しばしの沈黙の後で、静香さまのお声が降る。それは耳に届き、きんと冷えた長子の胸を、まるで手拭でもぎゅうっと絞るように響いた。

「…わたしは、器用な性質ではない」

それでもう、十分。これ以上、何が必要だろう。

わたしは立ち上がり、道場を飛び出した。

背中に静香さまの声が掛かった。「長子殿」と。

「あなたのことは、真実我が妹のように、大事に思う。ただ、今は……」

それに振り返り、

「追わないで。大丈夫だから」

ちっとも大丈夫ではないくせに、そんな強がりを言うのだ。

「謝ったり、しないで頂戴」

裾がもつれるのを構わず、速めて進める歩は、道場を過ぎて遠くなり、徐々に緩んだ。

いつしか母上のお居間の辺りまで来ていて、そこでわたしは板戸にもたれて立ち止まった。急いだため、足袋の踵がずきずきとする。

涙が自然とあふれるのを止められないし、堪えることも辛い。

こんな痛みも感情も、持て余すほどにやり切れないない。

初めての恋。

その初めての痛み。

 

 

数日寝込んだ。

出稽古の道場も休み、布団に臥せってぐずぐずと泣いているばかりのわたしを、周囲がまず驚き、珍しい腫れ物にでも触るように接するのも誠に不快で、口も利かなかった。心配なさった母上が寄せたお匙〔医師〕にいたっては、脈もとらせなかった。

熱もなく、身体は丈夫であることがわかると、次第に好きなように放って置いてくれるようになった。

側女中の忍などは、「姫さまに似ない、何のお気伏せりでございましょう?」と訝ったけれど、わたしの常ない不機嫌に面食らうのか、何も言わなかった。

静香さまのお心の憂いなど、容易く口にできる事柄ではない。

そして……、悔しくて、言えなかった。

ずっと三年間焦がれて、憧れてきた義兄であり許婚の静香さま。その方が、わたしを『妹』としか見て下さらないこと。

それが悔しいのだ。

 

その日も床を上げさせず、小袖のままうつ伏せて、流行の草紙を捲っていた。腰元が街で求めたものを、わたしの気散じにと、渡してくれたのだ。「大奥でお女中方に話題の草紙なのだそうですわ」なのだとか。

目が、その男女の恋愛を綴った頁の字や絵を追っているようで、ふわふわと彷徨っている。

涙はようよう止まったものの、夜分に一人のときに溢れることもある。不意に悲しみがぶり返すのだ。

昼は昼で、何をする気にもならない。日課の剣の稽古すら、する気が起きない。あの道場に足を踏み入れたくない。

いつまでこんな日が続くのだろう。

いつまで辛いのだろう。

ぼんやりと過ごすわたしの許へ、来客があった。白金の叔母さまが訪れたという。

母に挨拶を済ませた後、わたしの方へ足を向けられた叔母さまは、小袖に羽織を重ね、髪も垂らしたまま床に座る病床の身なりのわたしに、ちょっと笑った。

「伊織殿が心配されていたわ。剣の出稽古にあなたが来ないから」

叔母さまはそれで現われたのだろう。庵を持つ身で、そうそう出歩くことなどない。身分柄、客の方が彼女の許を訪れるのが常なのだ。

「ごめんなさい、叔母さまにまでご迷惑をかけて」

叔母さまは袖から小さな蜜柑を取り出し、それをわたしにぽんと放った。「庭で生ったのをもいできたのよ。甘いから、おいしいわよ。お上がりなさい」

自身も一つ皮を剥きながら、叔母さまはわたしに瞳を向けられる。

「余計なことをしたのじゃないかって、柄にもなく、しょげていらしたわ」

「伊織が?」

「そう、あの方に。柄にもなくね」

ふうんと、ぼんやり返した。伊織のことなど、ここ数日頭に浮かびもしなかったのだ。

叔母さまは彼から事のあらましは聞いたと告げ、わたしがこうやって臥せっているその意味も、早々に了解していることを匂わせた。それに誘われるように、わたしは一人でしまっていたものを、ほろほろとさらした。

叔母さまはわたしと静香さまの縁組を取り持ったお一人でもある。当然に、静香さまには御子がおありなのことなど、ご存知だっただろう。

そんな事例は養子縁組が自然な大名家では、珍しくないのだろうけれど……。

先に、前もってどうして教えて下さらなかったのか、少しだけ憎らしいのだ。気持ちが、静香さまへの恋の深みにはまらない前に。気づかせてほしかった。そうであれば、また別なように長子は、彼の方に添うことが出来た気がする。

「別に、伊織のことを悪くなんて思っていないわ。彼とは、関係のないことだもの……」

「そうね」

蜜柑を手の中で弄ぶわたしに、叔母さまは静かに「長子はわがままだわ」と告げられた。

「え」

わたしは叔母さまの紫の袈裟から、視線をお顔へ流した。

「好きな殿方と夫婦になれる。何が不足なの?」

「でも、静香さまは先の奥方のことをお忘れではないし…、御子のことも…気に掛けていらっしゃるわ。そんな…」

「長子」と、叔母さまは一呼吸の後で、会話の狭間のぽんとおっしゃる。そのお声は、優しいのに凛とした、ほのかな厳しさも漂わせ、長子の耳をはっとさせるのだ。

「辛いのはあなたではないわよ。別れを強いられた静香さまでしょうし、静香さまの先の奥方でしょうし、頑是ない若君でしょう。柚城藩の姫の長子ではないはずよ。間違えてはいけないわ」

叔母さまのお言葉に、わたしは唇を噛んだ。そのようなことを教えてくれた人はいないし、これまで思ったこともない。

けれども、そうだ。

しんみりと、叔母さまのお言葉が、重みを伴って、頭に、心にしみ入る。

わたしとの縁組で一番辛いのは、確かに叔母さまのお言葉通りに、橘の方々だ。わたしではない。『妹』扱いをされただけのわたしではない。

抱えた痛みは、恋の芽を摘まれただけの、わたしなどでの比ではないのだ。

そんなことに、今頃にはっとする。

それほどに自分の悲しみに溺れていた。馬鹿みたいに易々と。哀れがって、悲しがって、自分を可哀そうがることに酔っていた。

長子は、わがままだ。

しっかりとわたしを反省させるだろう十分な間を取って、叔母さまはお言葉をつなぐ。

「武家がお家を守ることとは、そういうことよ。何かが、誰かが犠牲になっている。自分ばかりではないことを、忘れないでおきなさいね。辛い辛いと、自分ばかりを可哀そうがるのはお止めなさい。そうしている間は、見えないものが多いもの」

叔母さまのお言葉は柔らかいのに凛と響き、何かを貫いた人の自信をほのかに感じさせるのだ。

ふと、以前母上のおもらしになったお話が甦った。既に他家に嫁がれていた叔母さまが、その器量を望まれ大奥へ入ることになったその理由を……。

叔母さまはその影を、どこにしまったのだろう。何に変えたのだろう。お辛くなかったはずはない。長子は一度も、そのような叔母さまを目にしたことがないのだ。

いつまでもめそめそと、ぐずぐずと甘えて、わたしは、……自分が恥ずかしい。

「あの伊織殿だって、ご養子なのよ。将軍家の御縁筋のお家柄である榊家に、ごく幼い頃に入られたの」

不意に叔母さまがもらしたお言葉は、あまりに意外だった。あのふてぶてしい彼なら、てっきりわたしと同じように、実の両親の許でのんべんだらりと何不自由なく育ったのだと思っていた。彼には屈託も影も、見たことがないない。

「ふうん」

「先の上様の御胤よ。伊織殿は」

「え」

驚きに、固まったように動けなかった。叔母さまはわたしの驚きを楽しそうに眺め、いたずらっぽく笑う。

「でもなかったら、あのお若さで、老中など叶わないわ」

 

叔母さまはお帰りの間際、わたしにその伊織からの見舞いだという品を渡した。薄っぺらい紙に包まれた物。手紙には大き過ぎ、ちょうど腰元から借りた草紙のような頃合である。

「何だろう?」

「開けてみなさいよ」

封を開け、中の物を取り出すと、果たしてそれは紐で綴じた薄手の草紙だ。病の暇つぶしにと、物語を贈ってくれたのかもしれない。

ぱらりと何気なく頁を繰り、その中の大きな絵に目が点となった。「どれ?」と叔母さまも手元をのぞき込む。

「あ」

そこには男と男が絡み合う春画があった。一人が前髪を下ろした元服前の若者なのだ。

その若者に思い出す。そういえば、参道の茶店で、伊織はわたしの剣士姿をからかい、「邪まな趣味の輩」だの、「大奥のお女中に人気の」だのと、訳のわからないことを言っていた。

あれは、これのこと? 

こんな絵を、いつまでも見ていられない。慌てて目を逸らした。

「まあ、伊織殿ったら…。おほほほ」

叔母さまは口に手を当て大笑いなさる。

「お女中には確かに人気があるのよ、この手の草紙は。悪くとらないであげなさいね。笑わせようとなさったのよ」

「嫌だ。あの人」

わたしは手の草紙をばっと床に伏せた。選りによって、病の見舞いがこの草紙だなんて。

 

ふくれつつも、久し振りに気持ちが雲間から顔を出しかけているのを、わたしは気づいていた。




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