無理難題
見つめるだけの(6)

 

 

 

叔母さまの訪れからすぐに、わたしは床を上げさせた。

読みかけの草紙や手慰みにいじっていたお手玉、飴玉を詰めた小箱などがみっともなく散かった寝間を、慌てて整えさせた。

にわかに、いつもの元気を取り戻したかのようなわたしの様子に、女中たちは呆れ、それでもほっとした顔で、父上母上に報告へ上がる。

「白金の叔母上さまに、お叱りをお受けになったのでございましょう?」

居間に残り、わたしが命じた湯殿の仕度にきびきびと動きながら、忍は、くすりとそんなことを言う。

全くの図星で、返事に窮した。

いつだって、あの叔母さまは、迷って戸惑うわたしに、正しい行方を教えて下さる。それはときにちくりと痛い言葉であったり、何も語らない微笑や彼女の雰囲気であったりする。

背後に回った忍は、わたしの垂らした髪を、衣できゅっと結い上げた。

「大層、殿もご心配であられたのでございます。普段お元気な姫が、ふいっと寝込まれてしまいましたでしょう。そういう場合は、難病が多いものだとおっしゃられて…」

静香さまも、わたしの加減を気に掛けていらしたのだと、忍は付け加えた。

「早く湯殿を使わないと、父上も母上も、長子の見舞いにこちらへいらしてしまうわ」

ぶすっとした声で、わたしは忍の話を止めた。

そんなのは知っている。静香さまが見舞いを遠慮して、こちらにいらっしゃることはなかったけれど、彼が使いに届けさせた花を見た。見るのも辛くて、別室に活けさせたけれども。

花でさえ辛い。

静香さまの気配のするものは、今も目に痛い。胸が苦しくなる。

あなたの優しさが、痛い。

湯殿の温かな湯気に肌をさらし、熱いお湯に身を浸す。これで、きれいになれたらいいのにと思う。

忘れたいもの、くすぶる心の嫌なものが、汗や涙と一緒に流れてくれたらいいのに。

きれいになりたい。

 

 

久し振りに出かけた出稽古の神柳道場では、さぼりがちな師範代が、珍しく出張っていた。生徒の前で、もったいぶって腕を組んでいる。偉そうに。勝手に休んだのだから、一応、そのお礼を言っておく。

「お風邪なのでしょう? 女子が慣れない出歩きなどせずに、針や花の稽古事をなさっていた方がよいですよ。その方が、縁談のおためになりましょうに」

「関係ないでしょう」

わたしにものの数秒で、竹刀を落とされる程度の腕の癖に。

睨んでやると、びくっと身を引く。

「怖いなあ、長子殿は。女子はおしとやかで、可愛いのが、一番ですよ」

「お生憎さま。あなたのお内儀にはならないから、これでいいの」

「それが可愛くなんですよ」

ふにゃふにゃした師範代を放って、生徒の稽古をつけて回る。

「剣を前に、腕を伸ばしたとき、背筋に気をつけなさい。ぴんと張っているように。その感覚を忘れないこと」

剣を持つ姿勢が悪いのは上達しない。余計な癖がつきやすい。

「はいっ」

竹刀のばちばちと触れ合う音と、踏み込みのだんと床の鳴る音。生徒の掛け声。爽快なそれらを耳にしていると、ふっと気持ちが楽になっているのに気づく。

幼い頃、健康のためにと習わされた剣だけど、長じて習慣になり、そしてそれが今、落ち込んだわたしを助けてくれるのだ。

自分に何かできると思うのは嬉しい。

自分がそれで、ほんのり頼もしく思える。

 

期待してなかったと言えば、きっと嘘になる。

伊織がこの日、ふらりと道場に顔を見せ、わたしはちょっとほっとした。

彼のどこかきついまなざしが、わたしに会い、緩んだのを見た。

それに、彼が老中の役職にあることや、叔母さまからお聞きしたやんごとなき身の上であることだとか、わたしに贈ったあの汚らわしい草紙のことだとか、いろいろ浮かんで……。結局わたしの頬も、なぜかのんきに緩んだ。

彼に会いたかったのだ。

伊織に頼みごとがあるのだ。

 

 

道場での稽古の後で、伊織に「頼みたいことがある」と告げた。彼はふんふんと頷き、ちょっと付き合ってくれ、とわたしを通りの団子屋に促した。

往来に出した幾つかの椅子は人でほぼ埋まっていて、「一本頂戴」、「三本くれ」などと、並ぶ人の姿もある。流行の繁盛した店らしい。

外の椅子に掛け、伊織は、たすきをかけた店の娘に「十本包んでくれ」と頼んだ。

「はい、毎度あり」

隣りに座る伊織に、そんなにたくさん要らないと言うと、彼はおかしそうに笑う。

「誰が、姫に全部やると言った? 相変わらず食い意地が張っているな」

「じゃあ、あなたが食べるの?」

「母上へ土産だ。心配するな、姫にも分けてやる」

ここの団子は、ご母堂の好物なのだという。

「ふうん…、そう」

伊織は頭の編笠を取り、脇に置いた。脚を組み、相変わらずのからかうような、おかしがっているような瞳をこちらへ向ける。

「俺に話とは?」

彼は余計なことは訊かない。

てっきり、静香さまのことで、からかいと嗤いを交えて、あれこれ訊かれると思っていたのだ。あの深川から帰った夜のことを。

それは優しさなのだろうか、無関心の方だろうか。長子にはどちらで、もよいけれど。

「ん? 何だ?」

伊織は、わたしをのぞくその瞳を少し凝らす。唇に浮かべるだけの笑みを見せ、顎を指でつまんだ。

「何だか余計なことを聞いたって、顔をしているな。……香月さまにも、困ったものだ。話って、それに類することか? だったら聞かんぞ」

「違うわ」

わたしは、伊織の出自に関することではないと言うつもりで、首を振った。

彼が煙管を取り出し、口にくわえるまでを見ながら、膝の手を組んだり解いたりした。そうして、何とか気持ちを落ち着かせようとした。

口にする彼への頼みごとの大きさに、ためらう心をなだめるように。

「言ってみろよ」

多分、きっと彼しかできない。

きっと、多分伊織ならできる。

老中の彼になら。

わたしはこちらを見つめる、彼の凝らした瞳に告げた。

 

「静香さまを、橘のお家にお返ししたいの」

 

わたしの言葉に、ちょっとだけ伊織が眉根を寄せた。そして、ゆっくりとそのまま笑い出す。唇だけのものではなく、芯からおかしそうに。

引き寄せた煙草盆に、煙管の灰をかんと打ち落とし、

「柚城の殿さまが泣くぜ。やっと見つけた気に入りの養子殿を、姫が追い返そうとしているって知ったら」

わたしは早口に、けれども声を殺し、伊織に告げるのだ。静香さまの心の内と、わたしのそれを。

静香さまはおっしゃった。『わたしは、器用な性質ではない』と。

きっと忘れないだろう。橘の家に置いてきたご自分の御子と、そして奥方のこと。静香さまはきっとお忘れにならない。

こののちわたしと祝言を挙げ、夫婦になれば、大切にしては下さるだろう、大事にしては下さる。お優しい静香さまはきっと、わたしを粗略になどなさらない。

けれど、あの方の胸の奥にある忘れられない方々のことを、わたしが忘れることができるだろうか。

思い出さないでいることが、この先ずっと長く続く未来に、適うのだろうか。長子へやんわりと距離を置く、お優しいばかりの背の君に、堪忍が出来るのだろうか。

そして、あの方の面差しに、お言葉に、ちらりとでも過去が過ぎるのを、長子は許すことができるだろうか。

やり過ごせるのだろうか。

今の自分には、できない。とても、その寛容が持てない。

心の狭い長子には、堪忍が及ばない。

「長子には、無理……」

わたしにはきっと、静香さまのお心に宿る影を越えられない。

自然に、そんな暗澹とした気持ちが胸を占める。それが嫉妬に根ざすものだと、わたしにもわかっている。知らない静香さまの過去の方々を、勝手に胸に描き、勝手にそれに妬いているのだ。

いつしかうつむいたわたしの耳に、伊織の声が聞かれた。

「『器用な性質ではない』ねぇ…。後にも先にも、妻は一人ということか…」

彼はわたしの口許に、いつできたのか、温かい団子を突きつけた。「食え」と言う。

おかしいけれども、何となく条件反射で、わたしは口に含んだ。甘い餡子の味が、舌に乗って広がる。そんなことで、ほんのりと温かさを感じる。

「うまいだろ?」

「うん、おいしい」

「『静香御前』の言うことは、わからんでもないがな」

「え」

喉にやってしまうと、伊織は、ちょっと笑ってこちらをはぐらかすように、話を変えた。

「必要でもらった養子だ。いなくなっては藩が困るだろう?」

「静香さま以外なら、誰でもいいわ。また養子に、どなたか来ていただければいいじゃない」

怒鳴るように言うと、伊織は煙管の煙と共に、ふっと笑った。

「簡単に言うねぇ。大体、橘の家から彼をもらって来るときも、難渋したって話じゃないか。香月さまを通して、老中の若林さまだのが出張って…」

「伊織だって、老中でしょう?」

そこで伊織は、言葉もなく立ち上がった。笠を頭に載せ、娘にちりんと小銭を渡す。

温かな団子の包みを一つ、わたしに分けてくれた。

先にさっと、往来へ紛れそうになる彼の背を追いかけた。

その前に回り、袖をつかんだ。

「返事くらいしなさい」

いまだ煙管を口にくわえたままの彼は、かちりとそれを噛んで、組んだ腕のまま、ちょっと困ったようにわたしを見下ろした。

こんな風にされると、伊織という人は、わたしより随分と上背があるのがわかる。

約束できないと、彼は言う。

「難しいぜ、その話は。縁組の世話をした和泉守(若林さまの官職名)の顔を潰すことにもなりかねん」

「伊織だって、老中でしょう? 何とかなるでしょう?」

「老中を妖術使いのように言うな。何でも適う訳じゃない」

「だって……」

伊織はわたしの頭にぽんと手のひらを置き、「『日にち薬』って言葉がある。時間や日々の積み重ねが、そのうち姫にも彼にも、結果いい方へ働くこともある」と告げた。

伊織は、この長子を取り巻く今の周囲の流れに逆らうな、と言いたいのだろうか。それが楽だから? 問題がないから?

「長子には、無理」

わたしはつかんだ伊織の着流しの袖をぎゅっと握った。

それでは、誰も幸福になれない。救われない。

静香さまも、静香さまのお心の中の彼の人も、そしてわたしも。曖昧な日常にただ流されるだけ。

わたしは、今の心の熱をあきらめてしまうのが、怖いのかもしれない。将来、多分伊織の言う『日にち薬』で癒えてしまうのが、嫌なのかもしれない。何もかも飲んで、耐えて……。

なぜだか、不意に叔母さまの白いお顔が脳裏に過ぎる。

叔母さまは、長子をきっとわがままだとおっしゃる。我慢が足りないと呆れられる、きっとそう。

伊織はしばらく黙った後で、「約束はできないが、考えておく」と言ってくれた。

「ありがとう。恩に着るわ」

「しかし、あの若林さまは、ちょっと癖ありだからな」

「癖?」

見上げた伊織はもう、薄い笑みを唇に浮かべており、「俺も、何度この可愛いケツを狙われたことか」などと言い、腰をぺちりと叩いた。

「え」

伊織の首座に着くという老中の若林さまとは、その、そっちの…衆道の趣味があるのだろうか。あの伊織が送ってきた妖しい草紙の絵が、ぱっと頭に広がる。

まさか、この伊織も、まさか……?

「馬鹿、そんな顔をするな。本気にする奴があるか。冗談だ、冗談。あの御仁は、前髪を垂らした元服前しか狙わん。俺はもう、とうがたち過ぎている」

ちょっとだけ、ぺちりとわたしの頬を指先で打った。「俺は女だけだ。あっちは無理だ。信じろ」と、笑う。長子はどんな顔をして見せたのだろう。よほどさっきの彼の軽口にぎょっと、びっくりした顔をしていたのか。

「…うん……」

伊織はもう一度わたしの頭にぽんと手のひらを置き、

「団子は欲張って一人占めするな。あの忠義者の姫の爺やにも分けてやれよ」

伊織は顎で軽く後方を示した。

わたしは後ろを振り返り、数件先の店の軒先に、客にすっかり同化させている自分の爺やの姿を認めた。よく目を凝らさないと見つけられないほどだ。

わたしに見つかったのを知り、ばつが悪そうに、ほうっかむりした手拭の顔を手の甲でこすっている。爺やには、道場で戻るまで待つように言ってあったのだ。

視線を戻すと、伊織はいつの間にかわたしから離れており、人波の中に歩を早めたのか、消えていた。




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