王子様の願い事
見つめるだけの(7)

 

 

 

家中が慌ただしい年の瀬。国許からの使いや人や、ごたごたとそんなものに紛れて、わたしの周囲も落ち着きのないざわめきが過ぎていく。

いつしか年が明けた。

 

松の内も過ぎると、祝賀の雰囲気も薄れるもの。

父上は上様のお城への日参からようやく解放され、そのお骨休めか、贔屓の力士に御前相撲を取らせる。賭け物などなさり、催しは大層盛り上がったらしい。

母上はそろそろ新しい年の社交を始め出し、次の茶会に着る新調した打掛を、腰元らの前で羽織り、具合を確かめていらっしゃる。

「長子も参りましょう。○○さまも、姫をお連れと聞きますからね。
京風のお点前なのですって。話の種に目にしておくのもよいものですよ。
まあ、柚城の家風にはなじまない、だらだらとした所作なのでしょうけれども。
お口では皆さま否定なさりながらも、どなたもどなたも、京風と聞けば、まるでありがたいかのようなもてはやし方。わたくしは、あれは武家としてみっともないと思うわ。上様のおわす江戸にこそ、洗練された流儀がありますのに、誠に面妖なこと…」

母上のお言葉こそ、だらだらと続くのだ。親交のある某夫人が都で誂えた染物を自慢したことや、茶室を某公家の邸を模したものに改築したのだとか……。

「何がよろしいのやら、長袖(公家のこと)が。遊び暮らしているだけではありませんか。
国家老が申すに、おつき合いをなさる京都所司代の方がたも、あまりの見地に違いに呆れていらっしゃるらしいわ。歩くのも左が先か、右が先かで縁起を担ぐらしいのよ。日が暮れてしまいますわ。おかしなこと、おほほほ」

母上は、ご自身が歴とした武家の出であるから、更に伝統と格式の勝るお公家方をお好きではないみたい。妙な対抗意識をもっていらっしゃるよう。長子の目にはそんな風に映る。

『あれは姉上の劣等感の裏返しなのよ。見てごらんなさい。柚城の殿が、江戸へ登られる際は、必ず京土産をおねだりなさるのよ。芯からお嫌いな訳がないでしょう』

というのは叔母さまのご意見。

そんなことを思い返すと、衣装を改め、『江戸の染が一番ね』という母上のお言葉も、滑稽でお可愛いものに感じる。

「長子はお茶の会はいいわ。ご遠慮します」

母上の前を辞して、わたしは道場へ向かった。静香さまがこのところ、午後の空いた時間、剣を合わせて下さるのだ。

最初は戸惑った。それでもわざわざわたしに、そう話を向けて下さるお優しさに逆らえなかった。

何とか距離を縮めようとなさるお心もわかる。

そして、罪悪感も。

着替えて道場に入ると、既に静香さまのお姿があった。供回りの者と何かお話をしているよう。

わたしに気づくと、微かに頷かれた。

わだかまりも何も消えたように、わたしはそれに応えるのだ。

甘えたがりな妹として、兄上に対するかのように他愛のなく。

「お待たせして申し訳ありません。母上のお話が長かったの。静香さまも、よくご存知でしょう? 『長袖のわるくち』」

それに緩く彼は笑う。供から手のひらに竹刀を受け取り、別の手に持ち替えるその仕草。

「長子殿は、なかなかの巧者でいらっしゃるよ。我らの流派とは異なるが…」

そんなことを側の供に話す、寛いで首を少し傾げる様子。

目にするのが痛いほどまぶしい。沁みてくるのだ。

わたしが先に踏み込み、彼がそれを容易に竹刀の先で捉える。触れさせた剣先に、強い腕の力を感じる。

見つめ合う瞳。

「腕をやや下げた方がいい。余計な力が抜ける」

「ええ」

やたらと打ち込ませるばかりの伊織の稽古とは異なり、静香さまは要所要所で、長子の剣の悪い癖を、細やかに直して下さる。

 

どうして少し過去に会えなかったのだろうか。取り返しの効かなくなる前に。

どうして……。

 

繰言が、竹刀を交えながら、くるくると巡る。

あなたの妻でいたかった。

それは、長子が裸の心で思う願いだ。

確かに感じる恋。堪らない、全身に響くほどの思い。

こんなにも近い。

これは、もう喜びでもときめきでもない。

わたしのためを思いやって下さる静香さまへ、せめてもの虚勢だ。『長子はもう平気』と思っていただきたいだけ。

心苦しさを秘めた、あなたの困惑した瞳を見たくないだけ。

 

 

『約束はできないが、考えておく』

団子と共にその言葉をくれた伊織とは、あれきり会っていない。あの出稽古の神柳道場にも、ぱったりと来ない。

何の連絡もない。

元より、叔母を介しての知り合いにしか過ぎない間柄で、個人的に親しいという訳ではない。遠慮なくものを言う彼が、長子は珍しくもあり、また気安くもある。それだけだ。

老中という幕府の要職にある彼は、それは忙しいのだろう。しょっちゅうわたしに構っていられるほど暇ではないはず。

そのうち、何か言ってくるだろう。

そう思い、毎日を過ごしていたけれど、そろそろ一月を過ぎた頃から少しずつ苛立ち始めた。不快と言った方が近いかもしれない。

『考えておく』と言葉をくれた以上は、何がしかの応えがあってしかるべき。武士に二言はないはずでしょう?

それとも、あれはその場しのぎの言い訳だったのだろうか。口先のみの出まかせで、とわたしの意志をはぐらかすような……。

そう考えるとまったく面白くないので、はっきりさせたくなる。誰であろうと、誤魔化されるのは嫌い。

できないなら、できないと口で断りがほしい。口先老中め。

わたしは朝の出稽古の前に伊織を捕まえようと、早目に邸を出て、叔母から以前聞いた彼の邸に足を向けた。麻布から芝の方へ向かう途中にあると聞き、『銀杏が見事よ』とも教えてもらってある。

ほどない距離で、少し迷ったものの往来の人に訊ね、足がくたびれる前に見つかった。

ぐるりとめぐらした塀から広壮な邸内がうかがえる。切り妻の屋根の連なりがのぞけ、そしていまだわずかに葉の残る、それは立派な銀杏の木が見えた。

 

 

おとないを求めたわたしに、女中の取次ぎの後で、上品な老婦人が対応に現われた。趣味のよい倫子の裾引きを纏った、髪に白いものが混じる、きっと伊織のご母堂と思われる方だ。

わたしは偽らずにそのままの名を告げ、念のため叔母の名も出し、そして故あって知己の伊織に面会をしたいのだと告げた。

釈然としないのだろうが、ちょっと呆れたようにもお笑いになる。その笑顔に気品があり、確か継母でいらっしゃると聞くのに、ほんのり伊織の整った面影が通う。

剣士姿の怖じないわたしの態度おかしいのか、「お目覚めになったばかりなのですよ」と、奥内へ入るのを許してくれた。

長い廊下を抜ける途中、控えの間に数人が既に座しているのが知れた。彼らはきっと伊織の供人なのだろう。
これまで伊織は、身分を感じさせない身軽な一人歩きだったので、そんなことにでも違和感が肌をなぜる。
長子は彼の言った嘘を信じ、ほんの前まで彼を、退屈を持て余した旗本の妙な御曹司だと思っていたのだ。

でも、伊織は老中という幕閣の要職にある重い身。

ちょっと意地悪で、ふてぶてしくて、団子を奢ってくれ、剣がたつ。深川のきれいどころに人気もある……。

わたしは伊織という人を、少し知っているつもりだったけれど、何も知らない。老中である彼のことも、何も知らない。

 

襖の向こうで伊織は起き抜けらしく、小袖着のまま緩く肩に薄物を羽織り、お膳に向かい朝餉を食べていた。

さらさらとご飯を喉にかきやっている。わたしの姿を見ると、しばし箸を止め、ここまで案内をして下さったご母堂に、視線を走らせた。

「あなたに可愛らしいお客様ですよ。火急のご用がおありだとか。香月さまのお身内のお方というので、お通ししました。よろしいわね?」

お母上のお姿が消えると、伊織はまた箸を動かし始める。わたしが周囲をうかがう気配を感じてか、給仕の女中を下がらせた。

お新香をこりこりと噛み、ぶっきら棒に問う。

「何だ? 朝っぱらから」

「わかるでしょう? 用向きは」

応えずに伊織は欠伸をもらし、「ああ、夕べの『百々膳』の酒が、まだ抜け切らん」などとちょっと頭を振った。

わたしは約束の言葉をもらえず、焦れて朝早く、こんなところまで足を運んでいる。そのわたしの気持ちを逆なでするような物言いに、すっかりふくれて皮肉を返した。

「深川だけではないのでしょうね、伊織が遊ぶのは。老中も大変ね、お忙しくて」

「役職で出向いた場だ。人と会うことも老中の仕事のうちさ。酒でも飲まんと、やってられん話もある」

伊織はわたしの皮肉にも乗らず、あっさりと応じた。

「ふうん」

仕事なのか。そう聞くと、それ以上責める気も削がれてしまう。ただ愚痴めいた言葉がこぼれるだけ。

「道場にも、ちっとも来てくれないし」

「あれは姫の仕事だろう。俺の役目じゃない」

「それはそうだけど…」

伊織は唇の端を少し上げて笑う。すっと空いた茶碗を差し出した。何をしたいのか、意図がわからずぽかんとすると、

「使えねえな。人が茶碗を差し出したら、替わりの飯をよそうもんだろ」

などと、呆れた声を出すから、面食らう。

「まあ、失礼ね。お茶碗を向けられたことなんかないもの。知らないのは当たり前でしょう?」

「だったら、覚えろ」

お櫃は伊織の側にある。わたしより近い。自分でよそえばいいじゃないかと思いながらも、お櫃から自分でお替りなど、父上も静香さまもそんなことはなさらない。しょうがなく、お櫃からご飯をよそい、伊織に返した。生まれて初めての行いに、手がぎくしゃくとする。

当たり前のように彼は受け取り、ぱくぱくと食べ出した。

「時間がないんだ。それで、話は?」

「だから、静香さまの件。覚えているでしょう? 橘のご生家に帰っていただくっていう、あれ。「考えておく」って言ったじゃない」

「ああ、ああ」

その今思い出した、というような頷き方も気に入らない。それは、伊織は『約束はできない』と言いはしたが、『考えておく』ともはっきりと言ったのだ。言質は取ったといってもいいのではないか。

伊織は食事の後で、煙管に火をつけた。おいしそうに吸い込み、ゆっくりと煙を吐く。

「難しいな」

「縁組を取り持った、老中の若林さまのことが引っかかるの?」

「それもないことはないが…」

「じゃあ、何?」

時間がないと言った伊織は、そのくせのんきに煙管をくゆらせ、もったいぶった仕草で、堪った灰を煙草盆に打ちつけた。

「空いた婿の座はどうする? そうすぐには見つからんぞ。それにまず、柚城の殿が頷かんだろう」

「父上は、長子の言うことはきいて下さるわ。叶えて下さるわ。今までだって、そうだったもの」

「それはそれは」

伊織は片膝を立ててそこに肘をつき、瞳を細め、どこかぼんやりとわたしを見た。

「姫は誰でもいいといったな? 『静香さま以外なら、誰でもいい』と」

「え」

何を言いたいのだろう。確かにその気持ちは変わらない。あの方でなければいい。静香さまでなければ、誰でも同じ。

誰の妻になるのも同じ。

気持ちは進まないけれど、父上が柚城のためとお決めになったのなら、長子に否応は、ない。ただ一番好きな、あの方でなければ、心は辛くない。

 

「俺ならどうだ?」

 

「え」

からかっているのだろうと、思った。また普段のようにからかっているのだと。

伊織は方膝を立てたまま、頬を預け、わたしを見ている。瞳をほんのりと凝らし、唇にうっすらとした笑みを乗せて。

一瞬そのまま、まなざしを止めた。

瞬きをした後には、彼は立ち上がり、手を打っていた。出仕の仕度に人を呼ぶのだろう。

襖の向こうに人の歩く気配がする。

わたしは座ったまま、お櫃のおしゃもじをまだ手に持っていた。もう用がないのに。

「姫に惚れてる」

彼はぽんと小袖の胸を叩いた。いつの間にかここに住んでる、と。

 

その告白のほんの一呼吸の後に、襖が開き、さやさやと人が現われた。

衣を重ね、藍の下衣に淡い地の精好織りの裃を纏った伊織は、まるで知らない人みたいだった。

古参の奥女中なのだろう、大小を捧げ持つと、伊織はそれを受け取り、腰に挿した。

「柚城のお姫さま、そちらはお返し下さいませ」

ふと仕度を終えた後で、その女中がわたしに振り返った。眉を寄せている。殿方の朝の出仕のお仕度に、部外者の若い娘が同室するなど、ふしだらだとでも思っているのかもしれない。

「え」

「こら、それだ。しゃもじじゃあ腹はふくれんだろう?」

顎でわたしの手を示し、おかしそうに伊織は笑う。さっきの告白など吹き飛ばすかのように軽く、朗らかに。

「悪い。これ以上はつき合えん。今日は閣議がある。俺からの申し出だから、遅れる訳にはいかん」

「閣議?」

何気なく問うと、遊廓や花柳界といった花街に関する新たな法のための閣議だという。

ふうんと返し、わたしは慌てて立ち上がった。ひどく場違いな場所にいるように感じて、にわかに居心地が悪くなった。まるで逃げるように邸を辞した。

知らない伊織。

その伊織がくれた告白。

ざわざわと騒ぐ胸。

それらを抱えて、わたしはしばし途方に暮れる。




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