シンプル・デイズ
〜長子と伊織のシンプル?な日常〜
 
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日々の中休みのような伊織のいる時間は、瞬く間に過ぎていった。
この後は「しばらく忙しくなる」と休暇の果てにわたしに言い、その言葉通りに連絡もなく、帰らない日が今日で五日になる。
慣れたと思い、当たり前に思えた物事も、主がいると不思議にどこか違う。伊織のせいで詰めた人が多く、それにつれるのか、雰囲気か、女子衆の声も振舞いも微かにきびきびとするのだ。
わたし一人の邸では、一拍の呼吸が違うように感じる。たとえば呼ぶ声の応えや、その速さ。何とはなしに、皆の挙措が弾むように機敏になる。
だからどうと言う訳ではないけれども、主というのは、扇子の要のようだと思う。気にせず、見えていなくても、きりりと締まり、裾の広がりまでを鮮やかに見せるもの。
 
叔母にお誘いを受けていた御台様への伺候があり、わたしはお供で再び大奥へ参った。
このお城の表のどこかで、伊織が偉そうに執務しているのだと思うと、隔てはあっても、彼の知らない間同じ江戸城内にいるのが、いたずらのようで楽しい。
御台様は、やはり久方ぶりのお目通りとはいえ、ほとんどわたしに注意をお向けにならない。これまで通り、叔母に頻りに日々の屈託を口説いていらっしゃる。
わたしは供されたお菓子を口に運び、運んではきょろきょろ辺りを眺め、ときにやって来る可愛らしい小犬に触れて遊んでいた。御台様のお犬は、御居間から続く開け放した中庭に出たり入ったりしている。
「…鷹野の御配慮がおありでございましょう?」
叔母の慰め声に、軽くお首を横に振られた御台様は、ため息混じりのお声で、
「鷹野のことなど…、それも一時の、ことでしか……」
などと嘆かれる。何をお話になっているのだろう。また、上様の御身辺の女性方のことで、面白くなくお気を悩ませていらっしゃるのかもしれない。
長子にはお気の毒だとお思い申し上げるだけで、何もできない。だから口も挟まず、邪魔にならないようにしているだけ。
しかし、ふっと耳に入った「鷹野」という言葉に、伊織が、御台様がご同行になるため行程に苦吟したと言っていた、近く行われるあの上様の鷹野のことかと、ちょっと興味がわいた。
叔母の袈裟の袖を引き、こちらを向いた顔を見ると、
「ああ、長子は伊織殿からお聞きしたのではない? このたびの鷹野は、御台様もお出ましになるのですよ」
それは知っている。叔母が補足するに、今回の御鷹場は武蔵野井の頭となり、そこにあるという御殿にお立ち寄りになるという。
鷹匠が特に躾けた上様の御鷹を放ち、野鳥などを捕らえさせるお遊びで、他、野駆けが御好きな上様のために、年に幾度か執り行われる。幾多ある公儀の御鷹場には、それぞれ御休みになる御殿があり、今回は井の頭池の畔にあるものが利用されるらしい。
「ふうん」
聞きながら、羨ましくなってしまう。
澄んだ空気の中、見事な鷹が空を駆るのを見るのは爽快であろう。拳に載せると聞くけれど、どうなのだろう。そして、行ったこともない地に興味もある。
遊んで暮らしているように思われる大名家は、その実遊びの遠出など、滅多としないもの。武家で奢侈は嫌われるし、国許と江戸を数年ごとに行き来する殿様方には、出歩きはなど倦まれるのかもしれない。我が父上も、上様の供奉以外で、そんなことはなさったためしがない。
伊織は視察も兼ねるとか、何とか言っていたけれど、どうなのだろう。
ともかくも、さすがに御台様は上様の御正妻さま。あれこれどうあれ、その鷹野に御台様を伴われるのだ。叔母の様子では稀であるようである。並みの御愛情ではないだろう。
目の前のお方は相変わらずの憂い顔でいらっしゃるけれども、長子にはそれはきらきらと、まぶしいくらいに思われるのだ。
伊織は祝言を挙げる前も挙げた後も、長子を放ってばかり。立場や忙しさを差し引いても、つれないところも多い。甘い思い出など数えるほども、あるだろうか。せいぜいが、団子を買ってくれたこと、出稽古に顔を出してくれたこと……。
しみったれ老中め。
今は双子の尚と誓がおり、繰り返す騒がしい日々に、紛れがちであるけれども。
それが顔に出たのか、珍しく御台様はわたしにお声を下さった。「行きたいのですか?」
「ええ」
こだわりもなく答えるわたしに、何がおかしいのか、御台様はふっと笑まれた。脇息に預けたお手の扇子を、手慰みに少し弄ぶようになさりながら、
「なら、行きましょう」
ぽつりとおっしゃるので、意味が取れなかった。先に口を切ったのは叔母だ。
「まさか、そのような。適う訳も…」
叔母は呆れた風で言うのを、御台様は軽く受けられ、自分の供に加わればよいとおっしゃる。ここまで言われるのだから、ほんのお気紛れであっても、このお方も本気なのだろう。
「伊織殿がお許しになりませんよ。ご自分の奥方が鷹野に紛れ込むなど…」
叔母の苦笑は呆れたようであり、わたしを通して、御台様のお気紛れを若干たしなめる風でもある。
「ショウショウ…? 言わねばよいでしょう」
「ショウショウ」が、伊織を指す「少将」であると気づく。御台様は、伊織にも言わないで、内緒でわたしを伴うおつもりなのだろうか。それに、わたしもちょっと驚く。

案外、お言葉は掛けて下さらなくても、長子をお気に入って下さっているのかもしれない。
「しかし…、それでは後々面倒が…」
叔母はきっと伊織を始め、わたしが鷹野に加わることで、周囲にかける難儀を慮ってそう申し上げているのだろう。
「あなたの姪御です。何の障りが?」
もしやすると、鷹野に行けるかもしれないと思うと、何だか心が弾んでくる。しかも伊織にも内緒でなど、秘密めいたいたずらに、うきうきと心が踊る。途端に、わたしは御台様に加勢し申し上げ、
「長子は御台様の、御付き女中になりますわ。どなたかに紛れて、ひっそりとしております」
そう口にしながら、ひっそりとしていては鷹も何も見られたものではないと、ぼんやり思った。
「偽りはいけない」
またぽつりと、御台様がおっしゃる。そのままでよいでしょうとおっしゃるのだ。上様も取り立て、側の者を御気になどなさることはないだろうと。
「告げなければよいだけ。それだけ。香月さまも、他言なく」
ここまで御台様のお言葉があれば、決定したも同然だ。
叔母は呆れたように、ちょっと嘆息し、それでも微笑んで、御台様のお思いつきを認めるのか、頷いた。滅多に発揮されない、御台様の茶目っ気というか、いたずらっ気なのだろうか。
叔母は軽くわたしを睨み、困ったものだと呆れた振りをしているが、その実、大して怒ってもいないのは、身内なだけにわかる。
このことで、御台様のお胸に詰まった面白くない嫌な物思いが、ほんの少しでも晴れるのであれば、紛らせるのであればよいではないかと、考えているのではないだろうか。
「長子の能天気が、あのお方にも、ほんの少し感染ればよいのだけど」
刻限に、叔母は帰りの車寄せまでに、徒歩の中そうもらした。能天気はひどいと、頬をふくらませる。
長子にだって、悩みくらいはある。
あると、思う。
できるだけ澄んだものを、胸には入れておきたい。伊織であるとか、尚と誓、または親しい人たちには、何かわたしに感じるのであれば、それを感じてほしい。
長子に思うのは、そんなことだけ。
 
 
生憎の曇天の早朝、わたしは御台様のお供の列に加わり、駕籠の中にいた。
日の暗いうちから本丸御殿を出立し、緩やかに進む上様御台様の供奉の列が御鷹場の地に着いたのは、すっかり明るくなり、燦々と日が空に照り出した頃だった。
曇りがいつの間にか晴れ、からりとした上天気になっている。
今回の行程は、ごく軽い規模のものであるという。それでも御台様がいらっしゃれば女中がおり、駕籠も増え、やはり供人の数は長く連なることになる。
伊織がこの列のどの辺りにいるのだろうと、上様の御側近くだろうかと、視線で探すのだけれども、見当たらない。伊織の側近たちも見知った顔もない。
気になり、休憩の本陣となった邸で、手近の侍に声をかけた。ご老中方は、のわたしの問いに、その侍は、堀田さまという方を除き、干拓視察のためか、昨日御鷹場に先着しているのだという。
その答えに、少し拍子抜けした。
御鷹場に着くと、御一行はまず井の頭池の畔にある御殿に入られる。こちらは池に張り出した大きな露台があり、涼やかに水を湛えた湖面を眺めることができる。
鳥が座したように左右に離れを持つ形の御殿には、ちょうど中央の設えが整った広間に上様がお入りになられ、その右翼になる離れに御台様が入られる。わたしもそれに従った。
少し疲れたご様子の御台様は、気だるそうに脇息にもたれていらっしゃる。こちらにはいらしたことがないとおっしゃっていたのに、物珍しく外の様子をご覧になることもない。
わたしは気持ちのよい風の入る露台に出たくてうずうずするのを、御台様の御前であると、何とか堪えた。
周囲を見渡し、じれじれしているのがおわかりになるのか、不意に、御台様はぽつりと「お楽になさい」と、お声を下さった。
「直、上様の御前に参ります」
そうお手の扇子を露台の方へ振られた。行ってみてもよいということだろう。
わたしは礼を述べると、素直に立ち上がり、林に囲まれた湖面が望める露台に出た。背後に、くすくすとしたお女中方の笑いのざわめきが起こっているようだけれど、御台様直々にお許しがあるのだから、よいではないか。
欄干をぐるりとめぐらせた露台は池に張り出し、頬にひんやりとした水の匂いのする風を運んでくる。
人気のない静かな池には、知らない水鳥が浮かんでいる。「御台様、水鳥がいましてよ。鴨ではない鳥ですわ。何でしょう?」
それに御台様の乾いた、素っ気ないお声が返った。
「鳩でしょう」
けれどもご機嫌のお悪くないお声だとも思う。お悪ければ、何もおっしゃらないだろう。「おほほほ、異なことを」や、「鳩ではありますまい。水に浮くと姫はおしゃいますよ」など、お女中の明るい声も聞かれる。彼女たちもお城を出られたのが、楽しいに違いない。
きらびやかで華やかで、世の憧れの中枢のような場であるけれども、閉ざされ、あらゆる決まりごとが張り巡らされ、それらによる逼塞した感は、どうしても否めない。誰でも、それは感じるのだろう。
たまに、こうやってきれいな空気に触れられる機会があれば、随分とお胸の物思いも、お悩みも減るのじゃあないかしら。
敢えてこちらへ伴われた上様は、御台様のお気臥せりを、きっと御存知でいらっしゃるのだろう。だから、御優しさでお気晴らしにと、大奥のお外へ出して差し上げたのだろう。
他に御側室はおありでも、御台様のことを重く大切に思っていらっしゃる御心にかわりはない。
そうであるといいと思った。
そうに、違いないと。
緑の茂った林の影に動くものが見えた。それが向う岸に駆けて来る。騎馬した人物だ。それが二騎。馬を降り、池を眺めている。
警護の者だろう。笠を頭に、羽織を纏い大小を帯びている。一人があらぬ方を差した。もう一人がそれに答え、頷くさまが見える。相手の肩を叩く。
その手は置かれたまま、何やら話している。遠目であり、離れているからよくわからないが、親しい雰囲気であると知れる。
肩のあの手はいつまで置いたままなのだろう。余計なことが気にかかる。
突然、長子の視界に割り込んだ闖入者のその二人に、なぜそんなに見入るのか、注意を向けるのか。
「あ」と気がついた。肩に手を置かれたままの片方が、伊織に似ているのだ。すんなりとした姿も、腰に手を置く仕草も。腕を組み、懐手にした手が、袖から煙管を取り出すあの腕のやりようも。
いつの間にか、隣りに人の気配がした。見やると、御台様がいらしていた。欄干にお手を置き、湖面に目を細めていらっしゃる。
「イズミ」と、お声を出された。
「え」
わたしの視界にあった二人の男の姿を指差され、「イズミと、ショウショウ」
ぶっきら棒なほどぽつりと言われるのだ。
ショウショウということは、やはり少将。だとすれば、御台様のお目にもあれは伊織に見えるのだろうか。なら、多分伊織なのだ。
イズミとは誰だろう? 
それに補うようにまたぽつりと、「老中若林和泉守利親」。
その名に、やっと思い至る。では、以前わたしを襲わせたこともある、伊織の首座の男色陰険老中ではないか。
目を凝らし、よく見る。いやらしさがぷんぷんと漂う、粘ついたがまがえるのような脂ぎった気味の悪い殿方かと想像していたが、それはきれいに裏切られた。
歳も案外若く、爽やかな雰囲気の好人物に見えるのだ。笑顔を伊織に向けている。その面差しは、美男子と言えなくもない。
まだ肩に手を置いている。
伊織はどうして払わないのだろう。近づき過ぎなのではないか。「絶倫衆道」のと、「粘っこい目で見られると背筋がぞっとする」と、あんなに嫌っていたくせに。
伊織の顔は見えないけれど、どんな顔をしているだろう。肩の手くらい、払えばいいのに。上司だからと言っても、それくらいできるだろうに。
二人が側近く、ごく親しげにそんな風にしているのは何だか不快な気持ちになる。多分、同じことをたとえば静香さまと伊織がしていても、気になどならないだろう。
あの陰険男色老中だから嫌なのだ。
「あ」
とわたしが言うのが早かったか。御台様の「え」が、早かったのか。
いきなり伊織の頭が、若林さまの肩に傾いだ。ちょうど、もたせかけるようにしている。その伊織の肩を、彼の手がなでるように触れている。
頬がかっと熱くなった。喉が渇いて、ひりひりする。
緑の匂いがする風のいい香りも、先ほどまでのように感じられない。
「イズミは、奥方がある」
ぽつりとした御台様のお声。「お子もある」と、小さく乾いたそれは続く。息を飲んでいらっしゃるのがわかる。わたしも、先ほどから呼吸が浅い。
では何で、湖面の向うの彼らはあんなに寄り添っているだろう。
嫌な答えが、どろどろと頭を渦巻く。
いつしか御台さまとわたしは、手を握り合って、驚きに耐えていた。



        

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