シンプル・デイズ
〜長子と伊織のシンプル?な日常〜
 
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自分の胸の鼓動が、聞こえるように思った。その音も、その響きも。
握り合った手が離れたのは、背中から呼ぶお女中の声でだ。そろそろ上様の御前に参る頃合なのだろう。鷹野が始まるのかもしれない。
お身を翻しかけ、瞬時微かに唇が動いた。「女子の方が、まだまし」と。そんな風に聞こえた。
御台様はちらりと、ぬれた瞳でわたしをご覧になる。少し細めたそれに、労わりの色を感じて、どうしてだかわたしは切なくなった。
「休んでおいでなさい」
そのお声に、御前にはわたしを伴わないおつもりなのだと知り、気持ちがちょっとだけ楽になる。今のざわめいた落ち着かない思いのまま、上様の御前でかしこまっているなど、長子には苦行に近い。
ここに残るということは、鷹野がもしや見られないかもしれないのだけれども、そんなこと、どうでもよかった。
お羽織を改められ、お髪を少し整えると、御台様は一人のお女中をわたしのために残し、お部屋を出て行かれた。
お見送りした後で、再び忌まわしい老中二人の姿を池の畔に探すが、消えてしまっていた。馬の姿もない。また騎乗し、駒を戻したのかもしれない。
お女中が勧めるままに、冷えかけたお茶を口に含む。甘味のある液体が喉に心地いい。もう一杯をいただいてから、席を立った。
「どちらへ行かれるのです?」
お女中の問いに、そこまで、と返し、すぐに戻ると言い置いて、お部屋を出た。渡り廊下の向こうに、上様のお座敷の方か、さわさわと人声が聞こえる。
出てきたのはよいけれど、取立て考えがあった訳ではない。じっとしていられなかっただけだ。
何となく声とは反対に歩を進め、気づくと裏口の方へ行き着いていた。そこでようやく頭の中の思いを覚悟した。問うてみよう。もやもやと気分が悪いのは嫌だ。
「女子の方がまし」と、御台様は言われた。どうせ情人をつくられるのなら、女子である方が、まだ気が楽であるという意味だろう。
どうだろう。長子にはどうであろう。確かに性の同じ女子であれば、互角というか、土俵は同じ。身分がどうあれ立場は変わらない。考えたくないけれど、喧嘩だってできる。けれども相手が殿方なのだったら……。
女子の長子に絶対に敵わないのだ。
外へ出る際に、槍を持った警護の侍に誰何された。身なりを見て、華やかな綸子の小袖姿であるため、御台様付きのお女中の一人と思ってくれたようだ。
伊織に直には訊き辛い。「そうだ」とあっさり認められそうで、怖い。「姫とは別だから許せ」と。
二人は同じ御役柄、共に過ごす時間も多いだろう。長子などよりきっと多いはず。
ここにきて、御台様の「女子の方がまし」というお言葉の重さが、しんみりと胸に広がる。殿方に惹かれる理由など、殿方の伊織にどう尋ねればよいのか。
何となく「和泉守さまはいずれにおわします?」と訊いた。官職名を名乗ったのは、御台様を真似ただけ。御殿女中風に聞こえるかと思ったのだ。
池に近いこの裏口なら、もしやこの侍は彼の姿を目にしているかもしれないと踏んだけれど、果たしてそうで、
「林の奥を行かれるのが見えました」
もしや伊織と共にでは、と疑念がわき、お一人かと問うと、そうだと頷く。「お急ぎのご様子でした」
礼を言って先を、わたしも急ぐ。何をしに若林さまが林の奥に入ったのかは不明だけれども、一人であるのなら好都合だ。
歩を進め、時に小走りで姿を追う。折れた小枝や枯れ草、そんなものが地面に堆積し、その上を華奢な草履で進むのは案外難しい。いい加減疲れてくる。
どれだけ進んだのか、梢の向う、そう離れない場所に若林さまらしい姿が目に入った。誰かと話しでもしているのか、途切れ途切れに会話が届く。その声が伊織のものではないことにちょっと安堵し、足を動かしたとき、視界の左から、さっと横切る影が見た。
黒っぽい袴と羽織を纏った覆面をした侍で、「あ」と思ったときには、その者が抜刀しかかっているのを認めた。別の方角、木の陰からやってきたわたしに、まだ気づかないのか。
林に梢を裂いて降る日の光の筋に、剣の露な部分がきらりとまぶしく光った。その途端、わたしは条件反射のように踏み出していた。
おそらくあの男は、若林さまを狙うのだろう。理由はわからない。そこまでその場では、頭はひらめかないけれども、危ないと、わたしの足は動いていた。
胸には帯に挿した懐剣しかない。丹念に布で巻かれたそんな物を解く時間もない。小走りの最中、足元に頃合の棒切れを見つけた。それを、身を屈め拾う。
手のひらに握り、そのしっかりとした頼もしい棒切れの感触をちらりと感じたのと、男がわたしの存在をはっきりと見たのは同じだったろうか。
わたしは棒切れを剣に見立て、下段から男のうっかり空いた隙へ振りかぶり、そのままたたきつけた。
「曲者」
わたしのその声が、若林さまに届けばよいと思った。いきなりの攻撃に虚をつかれたのか、男は後ろへずるずると下がる。わたしは更に棒切れで男を打ちのめしてやる。
したたかに打った気はするのに、所詮は軽い木材でしかない。男は腕でそれらを何とか受け止め、突然間合いが狭まったのを機に、わたしの手首を強く引いた。
引かれるのとすぐに、ずるりと地面が滑った。この先は藪の広がる斜面になっているのが見えた。痛いほど男の腕につかまれたまま、二人、体勢を崩して、斜面を転がっていく。
ぐるぐると男が上になり、またはわたしが上になる。男の覆面越しに聞こえる荒い息が気持ち悪い。
ごろごろと転がり続け、最後に湿った枯葉の地面の上になったのは、男の方だった。
 
 
実を言えば、夕べから気分は優れなかった。
何を食べる気もせず、頭の芯が痺れたようになり、どことなくだるい。
計画の干拓予定の沼地を、老中連中に見せた。農地に整えた場合の規模が案外にも上りそうで、その収益に換算したものを知らせると、異を唱えることはなかった。
「見るまでは、そうは思えなかったが……。図面とは違うものだ。榊殿にお任せいたそう」
首座の和泉守が告げると、もう一人も頷いた。欠伸をもらしている。時間を惜しみ、圧しての騎馬での早立ちが堪えるのだろう。
これで仕事は済んだも同じで、明日の公方を迎えての鷹野などは、諸々仕度も周旋も済んだとあり、余禄に過ぎない。
夜から咳が始まり、朝方まで止まらず、彼はなかなか寝付かれなかった。そうでなくとも、忙しさに寝足りない日が続いている。
「御台に外を見せてやりたい。武蔵野の干拓視察があるというではないか。ちょうどよい、鷹野を行う。あれも連れることにする」
その公方の声で始まった一連のごたごたも、明日で終わる。済めば、久し振りに邸に帰ってやれるだろう。
伊織は、妻の長子のことをちょっと考えた。その面影に、彼女の纏う甘い香りが、鼻の奥に浮かぶ気がするのだ。
忙しさの終わりに、気が緩んだのか、具合の悪さが徐々に強まったのは、朝を迎えてからだ。
公方一行が御殿に到着し、目通りを終えてから、鷹野までの狭間に、朋輩の和泉守が、用があると、伊織を呼んだ。
聞けば、京の正護院から公儀へ、寺院の池の修繕の費用をねだってきているという。和泉守の許に、京都所司代から知らせがあった。
「池?」
「そう、嫌な顔をしなさんな。そういう風な仕組みになっている。ご存知だろう? 公家には金がない。やらねば例の、勅使になる」
和泉守は白い顔を、ほのぼのと笑ませている。現公方の勅使嫌いは、幕閣の誰もが知る事実だ。
「幾ら?」
それには「ちょうど、井の頭池の大きさらしい」と応じ、大体を見てから話そうと、老中連が本陣とした館から、ぐるりと林を回り、御殿に面した池に駒を進めた。
伊織もその大きさを知っている。敢えて来たのは、騎馬することで、気分転換にでもなるかと思ったからと、後は実際の大きさを見、公家の請求に具体的に難癖をつけるためだ。
畔に立ち、池の上を滑る涼しい風に当ると、少し気分が紛れる気がする。和泉守がつらつらと話す自らの艶話が幾つか。
この男は対面を保つため、真正の衆道であるが、亡父の側室を自身の正妻に直している。その女性が父との間に産んだ、歳の離れ過ぎた義母弟を、自らの嫡男としているのだ。
周囲には、その計らいを、鬼畜のようなと言う人もあるというが、名門の武家として体面を保ち、本来なら叶わない血の通う嫡男まで得、更に亡夫の側室の生活を見てやることにもなり、孝行にすらなっている。
実際には、正妻を母上と崇め、もちろん手も出さず、己は好みの道の遊びに、勝手に耽っていられるのだ。
それを好きかどうかは別として、伊織は彼のやりようを、実に合理的で上手いやり方ではあると思う。
一万両をほしがっているという寺院に、三千の、千五百のと、二人して勝手に金額を下げていき、最期には、将軍家の庇護篤い「寛栄寺に千ほど支払わせればいい」と意見が落ちた。そこで、ゆらりと伊織の視界が揺れた。
「伊織殿? 顔色が悪い。具合が?」
そこからは和泉守に支えられ、御殿の左離れに運ばれた。何を言う気も起きない。
側近らが現れ、横になれと進めるのを断り、脇息に伏せていた。頭がひどく痛む。その奥から、嫌な発熱の気配が込み上げてくるのがわかる。
和泉守が変に艶っぽい視線を流し、公方に伊織の具合を伝えておくと応じた。
それに軽い礼で返す。
(けっ、早く消えろ)
 
半刻ほども身を伏せていただろうか。
使いの者が現われた。公方が和泉守から聞き、伊織の様子を知らせるように寄越したのかもしれない。でなければ、別で控えた彼の側近が、体調の悪い今、会うなど許さないだろう。
開いた襖の向うには、敷居際に控えた御殿女中らしい女がいた。一目で大奥勤めとわかる。
億劫さに声も出さずにいると、向うから話し出した。側の近習の表情が厳しいのが気になる。何かあったのか。
「長子姫さまが、こちらの離れからお出かけになって、お戻りにならないのでございます」
(あ?)
女中が告げるには、長子は御台の意志で、この鷹野に随行したのだという。それが、ある現場を見てから様子がおかしくなり、ふいっと出かけ戻ってこないらしい。
(何をまた……)
目の前がくらりと揺れるのがわかった。確実に熱が上がっているのだろう。
「小半時にもなりましょうか」
不安げな顔をする女中に、伊織は咳の後で、ある現場とは何かを問うた。問いながら、立ち上がる。近習へ手を出し、大小を求めた。
彼女はやや彼を上目遣いに、なじるような気配を見せる。
「…逢引の場でございますわ。少将さまと和泉守さまの」



        

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