たまゆらに花を抱いて
3
 
 
 
「本当に、長子だけ?」
「ああ。叩いても振っても、何も出ん」
わたしの問うた声は変に低く、それが疑いを込めたものに聞こえておかしいのか、伊織の返事はちょっと笑いを含んでいた。
その声の響きが気に入らない。一体誰のせいで、気持ちを波立たせていると思っているのか。
こんなにも、今だって、胸が痛むほどに。
伊織の馬鹿たれ。
わたしは、そばにある彼の足指辺りを狙って、体重を掛けぎゅっと自分の足袋で踏みつけてやる。
それに伊織は応じず、代わりに脇に腕を入れ、そのままわたしの身を、赤子にでもするように軽く抱き上げた。
不意なことで、上背のある彼の肩にしがみつく形になった。
背を叩き、下ろしてと言うのに、伊織はそれに答えず、更に肩に乗せるよう抱え上げた。まるで男衆が、お布団だとか庭に敷いた毛氈でもひょいっと肩に背負うさまのようだ。
その荷物でも扱うように長子をあしらう仕草が腹立たしくて、すっかり割れた裾から出た足で、彼の脚をぶってやる。
「下ろして」
「なあ、ちょっと考えてくれ」
「何を?」
「杏のことは、驚かせた。それは俺が悪い。すまなかった。それでいい…」
「なあ」と抱いた手で背をなぜる。伊織は何を言いたいのだろう。
「もし、俺が「そんな娘は覚えがない。知らん」と突っぱねていたら、きっとあの娘はどっかに売られるだろう。後ろ見のない女子はすぐ買い手がつく。先は奉公勤めかもしらんし、芸妓の茶屋かもしらん、身を売る廓かもしらん」
「え」
「俺ならそんな目に遭わせずに済む。易いことじゃないか。娘に認めればいい。それだけで何でも与えてやれる。名も、地位も、親もだ。なあ、考えてくれ、俺たちなら、杏に何でも与えてやれるんだ」
姫にはそうしてほしい、と伊織と言う。
「頼む」と結んだ。
わたしはしばし返事もできず、ただ彼の肩にしがみついていた。いつしか背を叩く手も止まっている。
伊織の子を憐れむ気持ちは、その言葉から長子にも伝わった。彼は多分、杏という娘の存在を知るや、何の造作も迷いもなく、その子を引き受けることを決めたのだろう。そんな気がする。
わたしに適うことで、ある一人の娘のこれからが決まるのだとしたら、否やはない。
長子には、伊織がそうあってほしいと望むのであれば、自然に心は決まってしまう。
「…うん、わかったから。下ろして」
「いいのか?」
「うん、だから、下ろして」
わたしの身を畳みの床へ滑らせる途中で、思い出したように伊織は腕を止めた。
「もう一つ」と、ぺちりと腰を打った。「冗談でも、剣に手を出すな。大怪我をする」
それを言われると、あまりの自分のはしたなさに長子は返す言葉がない。「だって…」と口ごもった後で、斬る気などはなかったと告げた。
「逆刃に返そうと思ったの。それを伊織が止めるから…」
「俺じゃない、姫がだ。持ち慣れん剣に絶対に触るな。うっかり手を滑らせでもしたら、手首が飛ぶぞ」
伊織はようやくわたしを畳みの床に下ろした。
ちょうど爪先の部分に、先ほど彼に投げつけた本が当たった。目を転じると、他にも扇子や諸々が散らばっている。続く床を延べた寝間にもおはじきが飛んでいた。
ちょっと前までは気にならなかったのに、気持ちが収まって目にすると、自分のお転婆振りがさすがに恥ずかしい。叔母さまがご覧なったら、きっと呆れて笑うだろう。「長子はまた…」と。
「おい、わかったな?」
伊織の念押しの問いに、「うるさい」とつい気恥ずかしさで答えた。ぽろっと出てしまった言葉だけれど、改めて思うまでもなく、女子が殿方に対して口にすべき言葉ではない。
しまった、と気づいたときにはもう遅い。
「あ?」
彼のこのちょっと不機嫌な問いの後には、いつも突き放すような長子への短い文句が降ってくるのだ。「知るか」だとか、「言ってろ」だとか。

「…ごめんなさい」
なのに、どうしてか、伊織はそこで小さく笑った。
ぽんとわたしの頭に手を置き、それから頬を、いつものようにぷみっと猫の子にでもするようにつまんだ。
「姫に惚れてる。全部好きだ」
 
 
身を横たえた床で、身体をよじると目におはじきが一粒見えた。それは行灯の灯にきらりと輝いて光った。
指を伸ばそうとすると、後ろから伊織が、抱きすくめるようにしてわたしに指を捉えた。そこに何かをつまませる。挟んだそれは別のおはじきで、彼は枕辺にあったのだと笑った。
おはじきごと指を絡めて握る。そのまま唇を合わせた。解けた伊織の指がわたしの手首から首に移り、単衣の開いた襟口に滑り込んだ。
乳房を包んで、やんわりといじるのだ。
くすぐったいような、けれどときめくような。
少し冷えたように感じる肌が、それでまた、うっすらと焦れてくるのだ。
微かに抗った。もう嫌だと。眠いのだと。
それを彼は弄ぶようにあしらい、口づけて肌にはっきりと長子が嫌がる跡をつけた。
「またしばらく帰ってこれん」
「ふうん」
「…何だ、素っ気ないな」
「伊織がいないのは、いつものことだもの」
唇の奥に何かを押し込めて、ようやくそんな憎まれ口を言う。
「老中は何でも屋で、厄介なことが多い」
「え」
伊織の声に、顔を横に向け逸らした目を戻した。すぐ前にいつもの癖の、ほんのりと凝らした瞳がある。
その瞳でこちらの目をなでるように見つめるのだ。
「俺と会えない間、寂しいか?」
「え」
「なあ?」
「…寂しい。でも、双子があるから…」
平気、とつなげようとした。その短かな言葉の狭間に、伊織の方が先につないだ。
「俺は一人だ」
「あ」
彼は寂しいのだろうか。忙しさの中で、長子や双子に会えず、だから寂しいのだろうか。
「寂しいの?」
伊織はそれに、ちょっと笑うように答えた。「そんなときもある」と。「だから、会うと抱きたくなる」のだと。
何と慰めようか。何と言葉を尽くそうか。
考えるうちに、唇をふさがれた。少し意地悪なほどきつく封じ、息が切れそうな頃、ようやく緩んだ。
「意地悪」とつぶやく声をかわし、伊織は、
「だから、会わない間に不安な思いを持っていたくない」
「不安?」
「姫は、訳のわからない妙な理屈で、俺を疑うのが得意だろう? あれは敵わん」
「そんなことないわ。長子は至極真っ当だもの」
返した言葉に、彼は吹き出した。人の首筋辺りで、笑いを堪えている。
失礼な、腐れ老中め。
少し抱き合って、少し話して、それから、眠るため瞳を閉じた。
 
辺りがうっすらと明るくなる頃、肌に触れる気配で目が覚めた。
眠りから覚めたものの、身体が痺れたように固まり、頭が重い。隣りで伊織が既に起き、わたしの頬に手を置くのが感じた。
彼は今朝登城の予定だ。今月の晦日、京の都より勅使がお城に入られるとか。その準備など忙しいといっていたのを、何となく虚ろに思い出す。
共寝をすると、どうしてかその翌日は気分が悪いことが、長子には多い。今朝もぼんやりと気分の悪いのを感じていた。
伊織の様子に急いで身を起こそうとするのを、彼が押し留めた。「いい。横になってろ」
そのまま、ほんのりと唇を合わせる。
離れ際、緩く彼の歯がわたしの唇を噛んで、そして離れた。



        

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