たまゆらに花を抱いて
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雇われ乳母に手を引かれ、杏という娘が榊の邸に現われたのは、伊織の話を聞いてから三日後のことだった。
ただ聞いたきりで、受けたきり。決して忘れていた訳ではないけれども、奥の部屋の指図や付ける女中の差配など、迎える支度は何もしておらず、到着の知らせを受けて、今更「まあ」と慌てた。
しばらくはわたしの女中をあてがっておこうか、衣などは急ぎ揃えないと困るだろう。
そんなことをぼやぼやと考えているうち、萩野の先導で杏はやって来た。双子のお蚕さまのような転がる姿とは異なり、杏は幼いながらも、自分の足できちんと立って歩く。
乳母の指示で、桃色の袷の小ちゃな身体をかしこまらせ、わたしの前で挨拶を述べた。艶々した黒髪は短く切り揃えられ、それに縁取られた愛らしい顔は、怖々と強張らせていた。
「今日よりは、こちらの奥方姫さまを母上とお呼びなさいますよう」
萩野の声に、杏はこくりと頭を前に振り、「はい」とうなずいた。
たどたどしくも、言葉を話すその幼い仕草にちょっと見惚れた。女子の子供をわたしはあまりよく知らない。柚城の家にも、長子がまだ幼い頃遊び相手にはいたが、それも自分が子供の頃の話。
男の子とは違い全体優しげに華奢で、まことにかわゆらしい。いろいろきれいな衣などを着せてやるのも、この子がままごとなどをするのを眺めるのも、楽しいかもしれない。
子供が珍しく、またぼんやりとしていたらしい。こほん、と間近で咳払いをされはっとなる。
「少将さまよりお聞きし、お部屋やお付きの者などは、急ぎ萩野が準備を致しましてございます。お衣装なども追って急がせ…」
「そう」
長子が、細々に迷って手を焼いて、どうせ萩野や女中に丸投げすると知って、先もって命じておくところが、どこか実際的な伊織らしい。
目を戻すと、杏はぬれた瞳でわたしを見つめていた。こちらも珍しいのだろう。急に環境が変わり、知らない女子が母上になるのだ。
目元のきれいなところは母譲りなのだろうか。鼻梁の辺りはほんのり伊織に通う気がする。でもそれもほんの微か。面差しに、思いの他彼の影のないことに寂しいようでもあり、ほっとするようでもある。
対面の後は、萩野の目配せで、控えた女中がさわさわと動く。その不意な衣擦れに、わっと杏が泣き出した。怖いのだろうか。怯えたように身を震わせ、泣きじゃくる。
手を伸ばそうとして、先に近い乳母が彼女を抱き寄せた。「おむずがりですか?」と、あやすしながら髪をなでている。
「どうしたの? 具合でも…」
「いえいえ、お気持ちが昂ぶっていらっしゃるのでしょう。何もかもが目新しくて」
それでも泣き止まない杏に、乳母は自分の袖口から何かを取り出した。「ほら」と、取り出したものを杏の顔に寄せた。
それはまったく意外なもので、わたしは思わず「あ」と、口を開けた。折鶴だった。
おかしな光景ではない。幼子に、折った鶴はよく似合いのもの。けれど、自分によくなじむそれが現われたことに、ちょっと虚をつかれたのだ。
白い折り紙の鶴を、「ほら」と乳母はまた袖から取り出した。幾つあるのか、次から次に。
それに、くしゃりとした泣き顔の杏が、次々出てくる鶴が面白いのか、頬を緩ませ笑顔を作る。
見事な乳母のあやし方に見入っていると、彼女はほろりと意外なことを口にした。
「杏さまのために、お父上が手ずからお折りになられた鶴でございますよ。ほら、たくさんございますね。よろしゅうございましたね」
「え」
胸の中がざわざわと波立った。それが妙な胸苦しさを呼んで、長子から言葉を奪う。
杏は乳母の腕の中で、鶴の一つを小さな手のひらに握った。彼女の手に、それは奇妙に大きく、小鳥でも捕らえたかのように見えた。残りは乳母の膝に、畳に散っている。
「また折って下さると、おっしゃておられましたね。よい子でお待ち申し上げましょうね」
「杏のちちうえ?」
「ええ、父上さまでございますよ。よい子でお帰りをお待ちしていたら、きっとまた、肩に乗せて遊んで下さいますわよ」
乳母の言葉に、杏は笑顔で答えた。「ちちうえ」と、またつぶやいた。
機嫌を直した彼女を、ようやく乳母は、わたしに「お抱きになられては?」と近づけた。
こちらを見つめる無邪気な杏をちらりと見、わたしは乳母の声に応じず、立ち上がった。裾をさばいて席を離れ、大声で側女中を呼ばわった。
「誰か」
出かける仕度を命じ、そのまま居間には戻らず庭に下りてしまった。
嫌だ、と思った。
あの子を見ていたくなかった。
 
 
しばらく柚城に留まるとだけ言い置くと、尚と誓を連れ、わたしは榊の家を出た。
そのまま柚城に二泊し、叔母さまの許にも挨拶に伺い、その翌日は双子を置いて、今度は一人で橘家を訪ねた。
橘のお家は、伊織の義母上のお住まいの芝のお邸から、徒歩で小半時もない。静香さまの奥方茉莉さまにうかがったことがあるけれど、女中や使用人同士などはその近さからか、行き来やつき合いがあるらしい。
お隣に、某藩の中屋敷が改装中で、その工事のとんかんという音が風の音に乗って、お邸の中にまで入ってくる。
お庭に面したお部屋で、茉莉さまを前にあれこれお話をしていると、お手隙になった静香さまが現われた。
水浅黄の軽い小袖のお姿で、腕に御子の彩成君を抱かれている。お久し振りの静香さまは、わたしをやや細めた優しい目でご覧になった。
「長子殿もお元気そうで。柚城の殿も奥方も、お変わりないですか? 先だってお目にかかったのは、お城のご用だった」
「ええ、変わりないですわ」
膝に彩成君を置かれると、長子にはにかむのか、御子は静香さまの胸にぴったりとしがみつく。
「こら、ご挨拶を」
静香さまに促され、恥ずかしげにこちらに「彩成」と名乗る君がとってもかわゆい。ふっくらとした頬は茉莉さま譲りなのかもしれない。
静香さまという長子の初恋の殿方は、今でもやっぱり慕わしい。思いの質は変わっても、姿を見たり話をしたり、そばにいると、しみじみと嬉しい。
茉莉さまと仲睦まじいご様子なのも、眺めてほのぼのと羨ましく目に心地いい。
切れ長の涼やかな目もとを寛がせていらっしゃるのを見ると、柚城にあり、わたしの許婚であった頃にはない、ふんわりとした穏やかさを感じる。お幸せなのだ。
藩主の静香さまは、参勤交代の定めで、我が父上のように決まった年数は国許にお帰りになる。それでも江戸にあるとき、常に奥方やご家族の側にあって、穏やかに過ごせる。それで、空いた時間を多分、埋め合わせることはできるのかもしれない。
ふっと、忙しいばかりの伊織の身と引き比べてみるのだ。
御役職柄、江戸を離れることはないけれど、どこかでぽっかりと長子の時間は空いている。
たまの逢瀬と双子とで、それは埋められると思っていた。その分甘えて、密な時間を過ごせばよいのだと、思っていた。長子にできるのはそれくらいだから。
でも……。
「どうなさった?」
いつしかうつむいて、膝の着物の柄を目で追っていた。花のそれからはっと顔を上げる。
「……長子は、静香さまと茉莉さまの御子になれたらよいのに、と思うのです」
本音を言ったつもりが、二人はその言葉に顔を見合わせてお笑いになった。何かおかしなことを口にしたのかしら。
ここでなら多分、時間の流れも緩やかで、穏やかで、そして優しい。そんな気がしたのだ。そしてそれは、このお二人が作るものだろうから。
頭の中を覆った杏の手の折鶴の影を払い、わたしは静香さまにお願いをした。久し振りに剣を合わせてほしいと。
 
 
裾引きにたすき掛けで、邸内の道場で軽く剣を合わせた。
こういう長子の突飛な案を、すんなりと受け入れて下さる静香さまは、本当に兄上のような方だと感じる。
額に汗を感じるまで竹刀を持ち、道場の入り口に控えた近習が「殿」と声を掛けたのを機に、剣先を床についた。
「何だ?」
膝を進めたその者が、ちらりとわたしを見た。どこか見覚えがあると思ったら、柚城に静香さまが伴っていた者だった。彼がわたしのお転婆ぶりを嗤っていたのも、聞いたことがある。
「お客人が…」
「どなたが? 申せ」
なぜかためらう先を静香さまが促し、また再び言い辛そうにちらりとわたしを見た後で、近習は、
「ご老中、榊伊織さまにございます」
と告げた。
わたしは「あ」と言って面食らった。
 
 
静香さまの「こちらへお通ししろ」の声に遅れて、伊織が道場に姿を見せたのはどれほどか。
ちょっとだけ胡乱気にこちらをご覧になる静香さまに、その短い間、わたしはちょっと端折った説明をした。
「伊織に内緒で、榊の家を出てきたのです」
「え」
「ちょっと、事情が…」
その先を告げようか迷ううち、見間違えのない彼の姿が視界に入った。群青の羽織に深縹色の袴姿。その身なりで、お城から直接こちらに来たのだろうと見当がつく。
「すまん、姫に用がある」
ほんの近くにまで伊織が歩を進めたとき、静香さまは側のわたしを軽く腕で押し、自分の背に回るようになさった。
「何のご用か? 先にわたしがうかがいたい」
その静香さまの仕草に、伊織はちょっとだけ笑うと、
「時間がないんだ。貴殿の兄貴面につき合えん」
その言い草に腹が立つ。長子を思って庇って下さる静香さまのお優しさを、あろうことか「兄貴面」などと。
腐れ老中め。
わたしはひょいっと静香さまの背から顔をのぞかせ、
「静香さまは今でも長子の兄上ですもの。勘違いしないで、いんちき老中」
「おいおい」
伊織の組んだ手がちょっと焦れたように、困ったように顎をつまむのが見えた。
静香さまは背後のわたしを振り返り、「お話をされては?」とお訊ねになった。その頬がやや笑みで緩んでいる。
身を屈め、ささやくように長子の耳に唇を寄せ、「夫婦喧嘩は犬も食わないとか…、榊殿はお困りのようだ。長子殿が少しここらで手心を加えてあげたらどうです?」
「まあ」
その小さなささやきが耳に届く訳がないのに、何が気に入らないのか、伊織がちっと、不機嫌なときのしるしの舌打ちをもらした。



        

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