たまゆらに花を抱いて
5
 
 
 
しばし、静香さまと瞳を合わせた。
こちらへの諭すような、促すような優しげな瞬きの後で、わたしはややうなずいて見せた。
伊織と話したいことなど、見つからないのに。
いつしか静香さまのお袖をつかんでしまっている。その手を離そうとして、ちょっとためらい、頬に感じる視線に顔を向ける。
その先には伊織が羽織の腕を組み、静香さまには急くようなことを言っていたくせに、焦れた様子も見せず、いくらか伏せがちな瞳でわたしを眺めていた。
留守がちな彼だけど、子までなした夫婦の仲。取り繕っていても、機嫌のよくないことは感ぜられる。
杏の到着後すぐ、不意に邸を出てしまったわたしが気にかかるのだろう。御役目の忙しい中、時間を割いてここまで来てくれた。
それが嬉しくないと言えば嘘になる。
でも、長子はどうしてほしいのだろう。そんなことがしてほしかった訳ではない気がする。
胸にもやもやとしたものを詰めたまま、わたしはようやく静香さまのお袖を離した。
伊織のほんのそばまで行くと、すぐに彼は身を出口へ翻した。それから振り返り、
「邪魔をした」と静香さまに詫びにもならない詫びを口にし、ぽんとわたしの背を先へと押した。
 
 
お邸を後にすると、伊織はわたしを往来へ促した。「帰るのなら、送る」という。
「どちらへ?」と問おうとして、止めた。伊織は純粋に、わたしが榊の邸に帰りやすいように、迎えに現われてくれたのだろうから。
「…うん」
とうなずく。それに彼も微かなうなずきで返し、背後に控えたわたしの供人や駕籠などを柚城の邸へ帰した。
数歩遅れて、彼の背について歩を進めた。
築地塀が続く武家屋敷の建ち並ぶ界隈を、時折駕籠や人が行き交う。
乾いた午後の風は、涼しく首筋をなぜていく。
伊織は一人でやってきたのだろうか。供の姿が見えない。ちらちらと視線を辺りに流すと、たちまち歩が遅れた。
ふと伊織の背が止まり、わたしを待ってくれる。歩を早め追いつくと、彼は手を差し出した。
「すまん」
何の意味の詫びなのか、そうつぶやくように言い、重ねたわたしの手を握って引いた。それで伊織と並んで歩く形になる。
どうしてだろう、嬉しかった。その何気ない仕草も、勝手に邸を出た長子を伊織がちっとも怒らず、優しいのも。
伊織はわたしを邸まで送ったら、その足でお城へ戻ると告げた。

「すまん、あまり時間がない」
おかしな伊織。謝ってばかり。
そんなことで、頬が緩む。噛んでばかりいた唇がほころぶ。
まだ婚儀も挙げていない頃、出会って間がない頃、伊織はこうやって長子を送ってくれたことが幾度もある。
叔母さまの庵の途中の恵向院の池では、一緒に鯉に餌をやった。その麩菓子まみれのわたしの指を、握って絡めたのだ。
いつ振りだろう、こんな風に二人きりで、何もなく歩くのは。あれから随分経ったような気がする。
色んなことがあって、色んなことを通り抜けて、やっぱりまたこんな風に二人でいる。それは当たり前のようで、またとても得難いことにも思われる。
何とはなしに、懐かしいようなものが鼻の奥に匂って、わたしは隣りの伊織を見上げた。
伊織は瞳だけでわたしの視線を受け、
「なあ、姫…、杏が気に入らないのか?」
「え」
「前も言ったな、嫌なのなら無理には言わない。母上に預けることにする」
「…そうじゃない……」
そんなのじゃない。
ふんわりと和んだ気持ちが、しゅるりとしぼんでいく気配。そうじゃないのに。
わたしは瞳を前へ戻した。前方から威勢のいい掛け声の駕籠がやって来た。美々しいそれに乗ったのは、きっといずれかの藩の女方だろう。
「じゃあ、何だ?」
ちょっとの嘆息の後で、伊織は問う。「姫が好き勝手しているのは、一向に構わん。気にもならん。気ままな大きな猫みたいなもんだと思ってる」
「長子は猫じゃないもの」
「犬でもいい」
それには答えず、代わりに頬をふくらませた。失礼な、腐れ老中め。
その頬を、伊織が軽くとんと指の節で叩いた。
「ふくれているのも、構わん」
答えないで黙っていると、「なあ」と、そのまま伊織は言葉をつないだ。
「様子を知らせに遣ったら、三日も前に、姫が双子を連れて出て行ったと返ってきた。しかも、杏と対面してすぐの話と言うじゃないか。……俺をあんまり驚かせるな」
それにも黙っていると、彼は「気紛れならいい」と言う。「我が侭なら構わん」と。
「杏が原因じゃないんだな?」
伊織すら存在を知らなかった杏が、理由などではない。無垢なばかりの幼子にどんな恨みをぶつけられようか。
長子はそれほど卑怯ではないつもり。
そんなのじゃない。
あの子が握り締めていた折鶴を目にした途端、胸が苦しくなった。見ていられなくなったのだ。杏を抱いた乳母の袖口から、それはたくさんの白い鶴たちがこぼれてきた。
あれは、長子にだけくれるのではなかったの?
誰でもいい、ただ女子を慰めるために、伊織はあれを折るの?
こんなことで焦れて悩ましいのは、長子が我が侭だからなの?
でも、伊織は……、
「…って、言ったじゃない。我が侭でいいって」
長子だけに折ってほしいのに。
あの小さな白い折鶴たちは、伊織との空いた時間の狭間や、抱いてくれる宵の甘やかな枕辺や、つないで絡めてくれる指先や、二人きりの記憶の中に散りばめていたいのだ。
長子だけにあってほしい。
「あ?」
嫌な反問の後で、伊織が歩を緩めて止めた。こちらを向き、その仕草につれ、つないだ指がほろりと離れた。
「どうした?」
やや焦れた伊織の声がする。そして、唇の端をやんわり歪め、
「『静香御前』から、妙な病気でも伝染されてきたか?」
からかうような、そんな無礼極まりない馬鹿なことを平気で言う。性根の腐ったいんちき老中め。
気づくとまた、長子は唇を噛んでしまっている。
履物の、じっと地面に擦れる音がし、それを潮に伊織は歩を進める。進めながら、少し低い声で、
「杏が原因じゃないのなら、あの子の前で、冷たい態度を見せるな。酷だぞ。幼子でも親のそんなことは、案外よく覚えているものだ」
それはいけなかった。
考えが足りなかった。一瞥も与えず、言葉も掛けず、急ぎ邸を出た長子の姿を、あの杏はどのような思いで眺めていたのだろう。
可哀そうなことをしたと悔いた。
けど、
歩を進める伊織の背が、少し離れた。その距離を、歩を早め縮ませる気持ちが起きないのだ。彼を追うその一歩が出ない。
わたしが、杏に見せてしまったつれない行いを責めるのであれば、なぜ長子があの子を見たくないほどの気持ちを持ったのかを、伊織は勘繰ることすらしてくれない。
すべて我が侭、気ままで片づけてしまう。それならいいと、許してしまう。それは寛容なようで、優しさのようで、長子への怠惰だと思った。
わたしの様子に気づいたか、先へ行く伊織の背がこちらを振り返った。瞳を凝らして、驚いたような、ちょっと鋭いほどにこちらを見ている。厄介そうに、歩を運んで戻ってくる。
「どうした?」
「なぜ、折ったの?」
「は?」
わたしは杏にあげた折鶴のことを問うた。「なぜ?」と。伊織は不審げに瞳を細め、わたしを見ながら、
「子供は喜ぶものだろう?」
「長子にだって折ってくれたわ」
「姫がほしがったからだ」
伊織は指でわたしの顎をつまんだ、ちょっと乱暴な風にそのまま上げると、「何を言っている? 意味がわからん」
不意に、彼への腹立たしさとか不満、憤りがわっと込み上げてきて、わたしは顔を背け、気持ちの勢いのまま、「帰らない」と言った。
「あ?」
多分、伊織の頭の中を占めるものは、そのほとんどが替えの効かない大事な御役職で、そしてその隙間が長子や双子なのだろう。
そして今はそのわずかな中で、わたしはきっと杏の割合より小さいのだ。双子より小さいかもしれない。
「柚城に帰るわ。榊のお家には戻らない」
「ややこしいことを…」
伊織はちっと、舌打ちをした。
「何が気に入らない?」
「伊織が嫌い」
わたしは彼に背を向けた。背後で剣呑に黙り込む伊織の気配がする。けれども、彼の怒りも焦れもちっとも怖くない。もし長子に手を上げたりなどしたら、大声で人を呼んでやる。許してなどやるものか。
「左京」
突然伊織が近習の名を呼ばわった。左京というその者は、長子もよく見知っている。歳若い者だけれども腕が立つと、伊織が好んで控えさせているのだと、耳にしたことがある。
二人きりだと思ったのに、どこかに控えていたらしい。不思議で、きょろきょろと後ろを見やると、辻の折れたところから左京が姿を見せ、伊織のそばに来るや、片膝をついて控えた。
何をする気なのか、ぽかんと伊織を見上げると、彼は左京にわたしを顎で指し示し、「柚城藩の中屋敷に送ってやれ」と命じた。
「かしこまりました」と受けた左京が、
「然るに、殿がお一人に…」
「構わん、千代田まですぐだ」
わたしは左京に向かい、「送らなくて結構よ。一人で大丈夫。そうだ、橘のお家に供人を貸していただくわ」
「送ってやれ」
強い口調で伊織が再度命じ、ちらりとわたしへ一瞬瞳を向けて、すぐに逸らした。
「これでもまだ、老中の奥方だ」
そのまま彼は背を向けた。振り向きもしないその姿は、すぐに左に折れてお邸の築地塀が消してしまう。




        

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