たまゆらに花を抱いて
6
 
 
 
後味の悪い別れの後、わたしは左京に送られ、柚城の中屋敷に戻った。
ここではすべてが元のまま。
たとえば、数年前までのここで過ごしてきた日々のように、何も変わらない。父上や母上がおられるし、女中らはきびきびと動く反面、仲間内の忍び笑い交わす。母上の猫はのっそりと急に顔を出し、父上が贈って下さった長子のちんは、きゃんきゃんと廊下を滑っている。
表の方では家臣の声が届くし、手を入れさせている庭からはその造作の音も耳に入ってくる。
違うのは、静香さまの影が当たり前にないことと、そしてその辺りを這いずる双子の姿だ。そして、わたし自身がもう以前の自分ではないことを、一番知っているのだ。
風のよい気持ちのいい午後、わたしの許へ母上が、観月の席の話を持ってこられた。これは月の美しい宵を見計らって催される、我が邸が例年執り行う内々の行事で、白金の叔母さまもいらっしゃる。
それに母上は伊織を呼んだのだという。
「いらっしゃれないと、お返事があったのですよ」
あっさりとそう使いからの返答があったのは、今朝方のことらしい。
そうであろうと思う。伊織にはのんきに月を見る嗜好も、その時間もないだろう。
母上は面白くないのか、少々むっつりとしたお顔で、
「殿はご理解があって「ご老中は忙しいものだ」などとおっしゃるけれども、我が藩の婿君になられたというのに、味気ないこと」とぼやかれた。
「以前も○○家のお茶席にもご招待したのに、代理を寄越されただけでご本人はいらっしゃらないのだもの。伊織殿をご覧に…、お会いになりたいとおっしゃる方々もあったのに」
母上にしてみれば、おつき合いのご友人方に「老中の婿君」を、精々自慢なさりたいのだ。
彼は母上の見栄の思惑など知らないだろうけど、優雅にお茶の席で時間を潰す趣味もないはず。
「そんなの無理だわ。だって、長子や双子にすら素っ気ない人なのだもの」
口にして、じんわりと自分が今ここにいることの意味が、胸にしみてきた。言い訳も取り繕うのも面倒で、他言はしていないけれど、伊織ははっきりと長子の前で告げた。『これでもまだ、老中の奥方だ』と。
言葉の意味など、探らなくてもわかる。彼にとってわたしは、あまりに面倒で、もう手に余るのだろう。奥方にしておくほどの価値も、ないのだろう。
だから「ややこしい」と言い、苛立ったように舌打ちなどして見せるのだ。
悲しくもあり、悔しくもある。
長子にも悪いところはある。けれども、きっとそれだけではない。長子のせいだけではない。
伊織は言葉も足りなくて、多分優しさも足りない。思いやりも、ちょっと少ない。
長子が好きなら、大切なら、どうしてそんなもの惜しむのだろう。どうして面倒がるのだろう。ふんだんにくれたっていいのに。あふれるように、降るように。あのいつかの日の葛篭に詰まった折鶴のように……。
しみったれ老中め。
そんなことをつらつらと思い、気持ちが滅入った。
適当に母上の愚痴におつき合いをし、うなずく。側女中の忍が、届きものだと栗のお菓子を持って現われた。それを口に含み、咀嚼の中、ほろっと母上のお話が耳に引っ掛かった。
「…先ほどの観月のお断りも、お返事が遅いと思ったら、使いが申すに、丸の内の本邸ではなく、芝のお母上のお邸からだというではないですか。
御役職でお忙しいとおっしゃる割には、ご自分のお母上に大層孝行でいらっしゃるのね…」
「ふうん」
そう受けながら、釈然としないものが喉の奥にあるのだ。確かにあれでも伊織は、孝行息子だろう。義母上に優しい。けれど、彼が義母上の邸にいたのは、孝行だけが目的ではない気がする。
多分、きっと彼は、杏を義母上に預けにそのお願いで伺ったのだ。長子が彼女を見ないから。邸に帰らないから。
それから、もうじき、伊織の奥方ではなくなるから。
 
 
観月の宵は、美しい月夜だった。
襖障子を開け放し、庭にせり出して設けた露台に銘々に座り、のんびりと月を眺める。風がちょっと冷たく、厚く織った友禅が嬉しい季節になった。ばちばちと、焚かれた篝火から火のはぜる音がするのも耳にも暖かい。
父上も母上もご機嫌よく、叔母さまも朗らかにいつもの優しい微笑を浮かべている。側には乳母に抱かれた双子が、これも厚着をさせられてある。
「本当に、伊織殿もいらっしゃれればよろしかったのに」
母上はまだそんなことをおっしゃっている。それを叔母さまがやんわりとたしなめた。
「お忙しいのよ。筆頭老中の若林さまもおっしゃっていたのだけれど、事案などが重なると、ご自宅にお帰りになるのは、月に一度あるかないかだそうよ」
叔母さまのお言葉に、母上は今更ながら、
「まあ、そうなの、それは大変な…。長子が不憫だわ」
と感嘆しつつももらさる。父上は「長子は世間知らずの姫に似ず、夫君の不在をよく我が侭も申さずに堪えているな。随分と大人になった」と、鷹揚に長子にうなずいて見せられる。
そんなお二人を見ていたら、ひどく悲しくなってきた。不意に込み上げた涙を、わたしは指で抑えた。
その仕草に母上ももらい泣きをされる。父上もお席を立たれて長子の肩をなぜて下さるし、叔母さまも優しい慰めを言って下さる。
「今は勅使のご準備で、老中方も大変そうでいらっしゃるけれど、それが済めばまた少しお楽になりそうよ」
そうではない。腐れ老中でしみったれの伊織に会えないのが、辛いのじゃない。そんなことが悲しくて泣くのではない。
父上も母上も、そして叔母さまも。
長子が伊織に三行半を突きつけられたこと。彼と離縁になったら、どれほどびっくりなさるだろう。悲しまれるだろう。申し訳なさで、涙が止まらない。
それを思うと、そんな日が遠くないことが悲しいのだ。
 
 
ちょっとした思い付き、気分転換で、久し振りに深川の牡丹の家に足を向けた。
彼女は不在で、以前も会ったことのある小女がびっくりした様子で、突然押しかけたわたしを中へ招じ入れてくれた。
わたしを上げると、鈴という彼女は妙にかしこまり、おどおどとして土間にぺたりと手をついてしまう。
わたしと彼女との身分の懸隔が甚だしく、仕様のないことだけれども、ここは牡丹の家。長子はその客人に過ぎない。鈴の大仰なへりくだりは、あまり気持ちがよくない。
もじもじとする彼女から、牡丹がじき指南先から帰ることを聞き出し、ついでに気になるその態度を変えようと、「お茶を淹れて」と頼んだ。
そのお茶を一口飲んだところで、がらりと格子戸が開いた。畳を立ち、廊下へ出た。
すっきりと垢抜けた縞のお召姿の牡丹が、三味線を抱えている。身をかがめ下駄を脱ぎかけ、その先の泥の汚れを袂の布でさっと拭う。
きれいな仕草だな、と見惚れていると、牡丹は何気なく顔を上げた先にわたしを見つけ、
「まあ」
化粧気のない顔を驚かせ、けれどすぐに弾けるような笑顔を作る。
「毎度、びっくりさせて下さる姫さまですわね」
「ごめんなさい、急に」
「いいえ、大分お待ちになられたんじゃあないでしょうね?」
「ううん」
牡丹は鈴に新しいお茶の用意を言い、「頂戴ものなんですよ。姫さまはきっとお好きでしょうから」と、手の包みを鈴に渡した。
ほどなく塗りの二月堂の上に出されたのは、まだ温かい串の団子だった。餡子のこんもりと乗ったそれは、いきなりわたしに過去を辿らせる。
前に伊織は、こんな団子を、長子によく買ってくれた。
「さ、どうぞ。お熱いうちに」
「ありがとう」
手を伸ばし、指で串をつまむ。一つ口に含み、その心地のいい甘さが口の中に広がるのと同じように、じゅんと胸に思い出が広がった。
いつかあの人は、ついたくさんの団子をほしがる長子を、「食い意地が張ってる」と笑った。自分は食べないくせに、意地悪を言いつつ、からかいながらも長子のために幾つも買ってくれた。
それは楽しかったように、嬉しかったように、今は思う。
そんなことを思い出すうち、こくりと喉の奥にやった団子の代わりに涙がせり上がってきた。
いきなりの涙に、牡丹は慌て、「どうか、なさいましたか? 団子に変な物でも?」
長子に懐紙を渡してくれながら、牡丹はこちらの様子を、ちょっと困ったような優しげな表情でのぞくのだ。
ああ、こんなに気立てのいい、美しい女子なら、さぞ殿方は穏やかでいい気分になれるのだろう。彼女と接しているのが嬉しいに違いない。仮にわたしが殿方なのであれば、絶対にそう思う。牡丹のような女子と添いたい。
伊織だって、本当なら長子みたいなじゃじゃ馬ではなく、こんな気の利く優しい女子が似合うのだろう。いいのだろう。
そんな気がする。そして、自分が惨めになるのだ。
心配げにわたしを見守る牡丹に、
「伊織に、三行半を突きつけられたの」
「ま」
彼女は手を頬へ持っていき、しばし固まった。「姫さま…」とつぶやくように言い、それからちょっとだけ嘆息し、
「杏さまの件が…?」
わたしは鼻をしゅんとすすりながら、懐紙で涙を拭い、牡丹へ事のあらましを打ち明けた。
杏のことは、元は牡丹が発端と言える。朋輩芸妓葉月の産んだ伊織のややのこと。それを知りながら事情で黙していたことも、それから葉月の死により伊織に告げることを決めたのも、皆牡丹なのだ。
秘する必要など、どこにもない。
終いまで聞くと、牡丹は静かにやや下がり、畳に指を付いて、こちらへ頭を下げた。
「姫さまには、ご堪忍のならないことをお耳にお入れする次第になりまして、誠に申し訳あ…」
わたしは彼女の詫びを遮って、畳に触れた指をつかんだ。「違うの、そうじゃないの。牡丹に、怒ったりなどしていないの。誤解しないで頂戴」
「ですが、…面白かろうはずが、ございませんじゃないですか。…それが今回のお悩みの…元でございましょ? まさか姫さまに三行半だなんて、ちょっと、旦那のご性分から、にわかに信じられませんが…」
わずかに顔を上げた牡丹は、落ち着いた口調で、彼女が伊織に打ち明けるのを決めた理由を教えてくれた。
「嫌なお話かもしれませんが」、と牡丹はは前置きし、言葉をつないでいく。
身寄りのない葉月の境遇から、彼女が亡くなれば、程なく杏は、いずれかへ引き取られてしまうのは必定だったという。
「葉月ちゃんは、ちょっと性質の悪い置屋に籍のあった芸妓だったんでございますよ。そのせいで、気の毒に、とっくに返し切ったはずの借金が残っていましてね。
そんな抱えの芸妓の産んだ子になれば、あの置屋の主が離すはずがないですよ。しかも女子となれば、その手の場ではいい値で売れますからね」
その話は伊織に聞いたことがある。だから、彼は引き取ったのだと言った。
わたしは、それは伊織にも聞いた、と言った。牡丹は軽くうなずいて見せた。彼女の形のいいきれいなつむりが、微かに動いた。
最初牡丹は、伊織に真実を隠し、いっそ自分が杏を引き取ろうかと思ったという。
「ですが…、あたしのような者が申すのも、口幅ったいんでございますが、相手が誰であろうが、あの子は、紛れもなく榊の殿さまのお子でございましょう? それはほんのたまさかのご贔屓でございましたけれども……。
歴としたお武家のご立派なお父上がいらっしゃるのに、どうしてあたしのような者に育てられて、日陰者に身を落さならなきゃいけないのか、不憫な目に遭わなきゃいけないのかと、どうしても、このままにしておくことができなかったんでございますよ」
そう思い、一人の胸にしまっておくには大き過ぎる問題だと合点し、恋人で伊織の親友俊輔殿に相談したという。
俊輔殿は牡丹の話を聞き、まず「伊織に隠すのはよくない」と判断したらしい。里子にするにせよ、どうするにせよ、「あいつの選ぶことだ」と。
「「それが男の責任だし、義務だ」と、俊輔さまは強くおっしゃるんでございますよ」
ようやく顔を上げた牡丹はそこで、ほんのりと笑んだ。「ふうん」と聞いていたけれど、俊輔殿の言葉のさわりは、ちょっぴり牡丹ののろけだと思う。
そうして、俊輔殿より杏の存在を知った伊織は、ちょっとだけ黙り込んだという。その後で、「そうか」と声を出し、
「「すまん、手間を掛けた。任せろ、俺がもらう」と、俊輔さまにおっしゃったのだとか。その後で、お邸にほんとにお迎えになるでございましょう?
…こんなこと、旦那の奥方さまの姫さまに申し上げるのも、まったくおこがましいもんでございますがね、あたし共のような者から拝して、榊の殿さまのなさりようは、ほんとに男気があって、まあうっとりと、聞くだに惚れ惚れいたしましたよ。
あたしがあんまりくどくどその話ばっかりお耳に入れるんで、俊輔さまは妬かれて、後が大変でございましたけどね」
その牡丹の話に、わたしの口許にふっと笑みが浮かんでいた。彼女の優しい、でもさっぱりとした気性が、しんみりと心地よかったのだろう。
そして、どこかでやはり伊織が、幼子を見捨てないほどの優しさを持っていたことも、長子にはどうしても嬉しいのだ。
長子の背の君である人には、やはり卑怯な人ではあってほしくない。
いつしかどこかで芽吹いた知らない命であっても、それを無残にぽいと見捨ててしまうような人であってはほしくない、そう思う。もし彼がそうであったのなら、と同じ子を育む女子として、ふっと肌が粟立つのだ。
許せない気持ち。
それはどこに由来するのか、そしてどこまでを、長子は心の奥で伊織を許せているのか。
それがはっきりとしてきたように感じる。そんなことにほっとするのだ。
「おなかが空いた」
「まあ、お茶を入れ替えましょうね」
「ありがとう」
少し冷めた団子に手を伸ばし、もう一度口にする。その甘さに、自分の心のどこかが、つきりと痛んだ。



        

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