たまゆらに花を抱いて
7
 
 
 
牡丹の家を出ると、もう夕焼けに辺りが包まれ出している。ほんの気散じの出歩き。改まった供人も伴わず、娘時代の頃のまま、爺や一人を連れたのみだ。
その爺やは、わたしが表に出てくると、いずこからかひょっこりと後を付いて来た。
深川界隈は、これからが華やかな時間。雪洞にもじき灯が入る。
通り過ぎる人々も増え、気の早いお囃子の音も届く。微かに匂う酒の香に、白粉の艶っぽい匂いも混じり、それからどこかの仕出し料理の匂いも感じられる。
ちょっと空腹も感じたので、やや歩を速めた。日のとっぷりと暮れる前には邸に着きたい。いずれかで駕籠でも調達しようか…。
「ねえ、爺や」
振り返ったとき、爺やとわたしとの間にすっと割り込んできた男があった。薄い淡紅藤の着流しをりゅうと身にまとった男は、頭には編み笠を載せ、腰に大小を携えている。
「もしや長子姫では? 少将殿の奥方の…」
絵草子から抜け出てきたようななりの男は、すんなりとした身をやや傾げ、わたしの顔をのぞくのだ。
その細面の柔和な顔に覚えがある。瀟洒な侍はまさしく、好色男色陰険老中の若林さまそのお人ではないか。
「あ」
「やはり…、あなただ。いかがされたのです、女子がこのような場所で。もう日も暮れかけている」
闖入者の登場に、飛び出そうする爺やを制し、「伊織の…上役の方」と断っておいた。
優しげな笑顔を作り、それを面白そうにこちらに向ける。一見穏やかな好人物であるけれど、以前彼は保身のために、誤解が介在するとはいえ、長子を斬らせようと刺客を送ったこともある、邪悪陰険老中だ。
「知人の所に寄った帰りなのです。駕籠を拾うところですわ」
若林さまは、深川界隈に、わたしのような身の武家の女子が知人のいる奇妙さを深追いもせず、うなずいた。
「ああ、それならいい」
何がいいものか。
彼は、自分はこれからちょっと、贔屓の店に顔を出すところなのだという。
「世に『袖すり合うも、多生の縁』と申すでしょう。こんなところでお見かけするとは奇遇だ。ちょうどいい、あなたもいらっしゃい」
「え」
「お気になさらず、わたしのごく馴染みの場だ。ご遠慮などなく」
「え」
彼は空いた長子の左手を、促すようにやんわりと取った。白い優しげな手なのだけれど、やはり殿方。練達した剣のたこが、指の節に感じられる。
「さあ、さあ。ほんのわずかですよ、ここからは」
いつの間にか、わたしの背後の爺やにもぬかりなく目配せをし、「姫のお後を付いて参るよう」などと命じている。
遠慮などではなく、迷惑に近いのだ。改めて辞退を告げようと、若林さまに顔を向けたとき、ちょうど長子のお腹がくうと鳴ったのだ。
嫌だ。牡丹の家で、さっき団子を食べたばかりなのに。
「ほらほら、わたしに何か奢らせて下さい。夫君の伊織殿には、いつもよくお世話になっている。だからか、あなたもとても他人とは思えない」
「でも…」
お腹の音を聞かせてしまった恥ずかしさと。途端感じ始めた空腹をいやしたいのと。それから、ちょっぴり彼がどこへわたしを誘うのか、その「馴染みの店」とやらに興味がわいたのと。
そんなことで、つい歩は導かれるまま、進んでしまう。
それにしても、長子の背の君伊織、そしてこの若林さま。幕府の要となる老中のうち二人もが、重臣の身を顧みないふらふらと軽々な出歩き癖などあっていいのだろうか。
よほど普段の供連れが、窮屈な性分なのか。
ほんのちょっと、何だかご政道が心配になってくる。
 
 
若林さまがわたしを誘ったのは、歩いてほどなくの、小路に入った先にある『たつみや』と暖簾の下がる店だった。二階家で、暖簾を潜った先の砂利を敷いた小道を抜けていくとその店はある。
てっきり、普通の料理屋に伴われたのだと思った。ところが、じきそうでないことが、知れてくる。
扉を潜った折から、ちょっと匂ったことのない焚かれた香の匂いが漂う。袴を着けた若い衆がずらりと居並び、彼らが若林さまの到着に、一斉に「殿」とかしこまるのだ。
玄関の脇の、待合のようなこざっぱりとした部屋に招じ入れられる。塗りのたらいを捧げ持った少年一人が、現れた。別の一人がそれに浸した布巾で、素足の若林さまの足を拭き、その後は別の布で拭い、それが済むと首、そこからやんわりと襟を寛がせ、のぞく胸に布を差し入れ拭ってあげている。
若林さまは慣れているようで、なすがままだ。
彼らの濃いほどの密な甲斐甲斐しい世話の焼き方は、女子の長子にはたじろぐものがある。最初は目を丸くし、その後は気恥ずかしくなって目を背けた。
まさか、こちらにも手拭の手が伸びてくるのかと、知らず腕を抱いていたけれど、わたしにはお薄が振舞われたきりでほっとする。そして、いずれも美少年がそろうのにも、唖然となるのだ。
「もう、よい。こちらの姫に何か旨い物を差し上げてくれ。由々しき姫だ、粗相のないようにな」
それから、若林さまが『桔梗丸』と呼ぶ、これもきれいな少年の案内で、奥の座敷に入った。
壁のお軸に違い棚、脇息と机が並ぶ、ごく当たり前の設えに思えた。やっぱりこちらにも、いい匂いのする香が焚かれている。
ほどなく料理が運ばれてきて、勧められて箸をつけた。おいしい。
若林さまは、どんどん小鉢に箸を運ぶ長子とは違い、桔梗丸に注がせた酒の杯を、ゆっくりと飲むばかり。
時折、癖のないことを訊いてくるだけだ。双子の様子や叔母さまの近況など。
「どうです、旨いでしょう? 陰間茶屋と陰口を言う者もあるが、使用人は皆、躾も仕込みも一流なのですよ」
「はい、おいしいです」
ここが、いつか若林さま絡みで伊織が教えてくれた男娼がいるという陰間茶屋なのかと。そしてそんな場所にいて、当の若林さまに、夕餉を振舞われている今の自分に、ちょっとぎくしゃくとしたおかし味も感じる。
若林さまの傍らには、桔梗丸がどこかしどけない素振りで控えていた。二人がただならぬ仲なのは、その雰囲気で知れる。交わす笑みの加減や、単純な奉仕を超えたような触れ方が、それとわかるのだ。
その桔梗丸は、若林さまの指図でわたしの杯にも酒を注いだ。何となく口を付ける。
ここは、男色家の若林さまのごく私的な秘密の場所なのだろう。どうしてそんな大切な場所に長子のような部外者を連れたのか、ちょっと見当がつかない。
それを問うと、彼は、
「一度、きちんとあなたにお目にかかりたかったのですよ。わたしは以前のお詫びも申し上げてない。よければ、過去の話と流していただきたい」
「あ」
人を斬らせようと図って、虫がいい、傲岸な。そう思ったけれども、長子は栗のご飯がおいしくてついお替りをしてしまっている。そんな手前、夕餉をご馳走になる彼にまだ遺恨があるとも言えず、ぶすぶすと水に流す形になった。

好色男色老中め。
お腹が満ちてくると、目の前の寛いだ若林さまの様子が不審になってくる。伊織は、「老中は忙しい」と、「時間がない」と、邸に帰らない日も多い。最前会ったときも、あまり時間のないことを口にしていた。
それが当たり前だと思っていた長子には、こうしてのんびりと陰間茶屋で遊んでいる若林さまの行いが、誠に不思議なのだ。
伊織は老中でも、下っ端だからなのだろうか。だから難儀が多いのだろうか。
そんなことを訊ねると、若林さまはわたしの空いた杯に自ら酒を満たしてくれ、その後銚子を戻した手で、傍らの桔梗丸の膝を撫ぜた。
「はは。御役の量に、それほど差はありますまい。ただ、たまの休みに、少将殿はあなたのおられる邸に帰る。わたしの場合、邸ではなくこちらに足が向くだけのこと。それだけですよ」
「ふうん」
そうなのか。これでも長子は、伊織の少ない自由を独り占めしているのだろう。
頬が熱くなってきた。注がれるままに杯を重ねたからかもしれない。お腹もいっぱいになった。嗜みのないことだけれど、少し眠くなってくる。
今夜はすぐに眠ってしまいたくないのだ。眠るまでに考えたいことがあるから。牡丹から聞かされた話のあれこれ、こもごもを、長子なりに整理してみたい。
伊織のことや、長子自身のこと。これからのこと。思い出の詰まった過去ばかりではなく、二人のこれからのことを。
それは、今夜でなくてはならないような気がする。明日でもでもなく、今宵でないといけない。兆す胸の凝りの在り処が、長子にはようやく見えてきた気がするのだから。
けれども、ご馳走になり食べたらすぐに帰るのでは、あまりにも失礼かと、小さな欠伸を噛み殺しながら、もじもじとしている。そしていると、若林さまの方から切り出してくれた。
「そろそろお腹もくちくなられたでしょう? 長居をおさせると、わたしが後で伊織殿に叱られる。お帰りなら駕籠を呼びましょう」
「…ありがとうございます」
彼が桔梗丸に駕籠の用意をさせに遣る、その間に別の少年が皿を持って現われた。桔梗丸か若林さまの指図か知らないが、皿にはおいしそうな甘味が乗っている。
「お待ちの間、召し上がるとよろしい」
皿の水菓子を食べていると、明らかに少年らの軽やかな足捌きとは違う音が、襖の向こうでする。襖の前でそれは途切れ、代わりに声がかかった。
「殿」
若林さまがのんびりと脇息に身を預けていたが、その声に「やれやれ…」と小さくもらした。身を起こし、「入れ」と応じる。
すっと空いた襖から滑り込んできた男は、一目で若林さまの側近と知れる雰囲気の者だった。にじり寄るように膝を進め、その際隙なく、ちらりとわたしに視線を向けた。不審なのだろう、どうして主人が贔屓の陰間茶屋に、女子を同席させているのか。
「構わぬ、少将殿の奥方だ」
「え」
「よいだろう、愛らしい知己ができた」
驚いて黙り込むその者に、若林さまが気だるそうに、「何用か? 火急のことなのだろう? 言え」
「は…」
ためらいつつも、彼は話し出した。
お家内の内密なお話かと、わたしはなるべく耳に入れないよう、変に真剣に水菓子の匙を口に運び続けた。それでも、二人とは距離がない。ほろほろと聞き取れてしまう。
一瞬、若林さまの優しげな表情がほんの少し尖った気がする。それがまたわずかな間の後で緩む。
「勅使の…」、「猿渡公望候が…」、「お命に別状はなく」、「お一人にて遭われたと…」などなど。聞き取れたのは、こんな端々。
これだけでは意味がわからない。
いつしかいけないとは思いつつも、耳をそばだててしまっている。水菓子も平らげた。駕籠の用意ができるまで、手持ち無沙汰で暇なのだから仕方ない。
若林さまは報告を脇息にもたれながら聞き、すべてを聞き終えたのかうなずいて、手で側近を払う真似をした。その仕草が意外であるのか、
「然るに、急ぎ登城のご用意をなさらねば…」
「よい。今お城に、老中は誰がある?」
「堀田さまがお一人で。榊さまはお出かけのご様子」
「ふむ、少将殿は盗賊改か…。まあよい、まだ知らぬ振りをしておけ。わたしに用があれば、堀田殿が使いを寄越すだろう。勅使に大事ないのであれば、今参じても、無駄骨だ」
下がった側近と入れ替わり、そこへ、ちょうど桔梗丸が戻ってきた。その彼の手を引き側に寄せると、座らせ膝に頭を預けて横になった。
「少将殿も運のない…」
欠伸に紛れ、小さくそう言うのが聞こえた。
桔梗丸は駕籠の用意ができたと言うが、若林さまのもらした言葉が気にかかる。胸に引っ掛かり、腰が上がらない。
彼は伊織の何が「運のない」というのか。先ほど側近と交わしていた話に関係するのだろうか。
じりじりするわたしとは裏腹に、彼はそのまま心地よさげに瞳を閉じた。その顔辺りを、桔梗丸が扇子の手で扇いでやっている。
聞き耳をはしたないと思いつつも、問わずにはいられない。「運のない」など、耳にいい言葉ではない。先ほどのどこか剣呑な側近の報告に端を発し、もしやよからぬことが、伊織の身に降りかかるのではないか。
そんなことで焦れてしまう。
「ねえ、若林さま。長子に教えて下さいませ。なぜ伊織に「運のない」などとおっしゃったのですか?」
その問い掛けに、桔梗丸がこちらを不躾な視線で睨む。お休みの邪魔をするなと言いたいのだろう。わたしはそんなものには頓着せず、もう一度問いを重ねた。

「ねえ、教えて下さいませ」
それに、ゆっくりと応じた若林さまはやや難儀そうに身を起こし、机に置き去りの杯をもう一度手に持った。それを無言で傍らの桔梗丸に突き出し、見てもいないのに酒が満たされた頃合に、優雅に口許に運ぶ。
こくりと酒を飲み込むのが、白い喉の動きでわかる。
「もうあなたにはお話しかと思っていたが…」
「何をです?」
「少将殿は、近く老中職を辞められる」
「え」
若林さまの告げた言葉に、わたしは絶句した。瞬時、驚きで言葉の意図が量れなかった。伊織が老中を辞める……。
しばし黙り込んでしまったわたしに、軽い若林さまの笑い声が届いた。
「何も、上様より蟄居をこうむられたなどの悪い意味ではありませんよ。単に、少将殿がご自分でお決めになったことだ。しばらくの後で、京都所司代(朝廷対応・西国大名らの監視役)か、大阪城代(大阪城守護・西国大名の監視役)に就かれると、内々に決まっていたのです。浪人らの雇用の確保などの件を含め、あの方が上進申し上げ、ようやく上様のお許しを賜ったところでした」
「どうして? 上方に」
「さあ、それはご本人にお聞きになったらよいでしょう。わたしには、時間がほしいのだとおっしゃるだけだった」
「ふうん…」
伊織が老中を辞そうとしていたという。いきなりの若林さまの話に、気持ちがどきどきと落ち着かない。どうして伊織は上方に行こうとしたのか。どうして長子に一言も告げずに…、
「あ」
そこではっとなった。

もしや、と、思う。

まさか、と気づく。
彼は言っていたではないか。それはまるで捨て台詞のような、耳に痛い言葉であった。突き放すような、見捨てるような嫌な響きを持っていた。伊織の内側から、彼にややこしいわたしは、切り捨てられたと思った。
けれども確かに、長子に言っていたのだ。
『これでもまだ、老中の奥方だ』と。
あの頃には、伊織は老中を辞める気持ちも準備も固めていたのだ。だから、言った。『まだ』と。
知らず、唇を嘆息めいた吐息がもれた。ため息ではない。驚きと、ほっとした何かとの、その発露。
「しかし、今回の件でそれもすっかり白紙になった」
「え」
そういえば、若林さまは伊織がどうして「運のない」のか、いまだ告げていない。
顔を向けると、彼は白磁の杯を唇に触れさせながら、淡々と言うのだ。伊織の老中辞任の件は、彼が退任まで何の緊急な事態がなければ、という留保があったのだという。
けれど起こってしまった。京の朝廷より遣わされた勅使殿が、江戸の辻で暴漢に遭い刀傷を得た。
「上様は元より、伊織殿の辞任には御不快であられた。このことで、とても伊織殿を御放しにはなりますまい」
ですから、と彼はつなぐ。「運のない」と。
「急な辞任に併せ、それがため余計な事案も抱えられたのに…、まったくご運のない」
のんきに桔梗丸に扇子を使わせている若林さまに、わたしは訊いた。伊織が今、どこにいるのかを。
「お城お濠、清水御門の前、盗賊改めに御用でいらっしゃる」
それを聞くと礼を言って立ち上がった。
若林さまはわたしを目だけで見送る。そのまま再び桔梗丸の膝に頭を預けてほどなく瞳を閉じた。
伊織に会いたくなったのだ。
話すことなど何もないと思ったのに、問うてみたい言葉は、今頃、ほろほろと胸からあふれてくる。
伊織に訊きたい。
そして、彼に会いたい。



        

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