たまゆらに花を抱いて
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『たつみや』を出た頃には、とっぷりと宵の帳が広がっていた。
通りを歩く人も増え、明かりやこもごも町を彩る色や匂いや、明かりなどがあふれ、華やかに様変わりしている。
行く先を告げて駕籠に乗り、その振動に身を置きながら、ぼんやりとこの町のことを考えた。
ここは、牡丹が住まい人生を送る町である。そして長子には思いも寄らないさまざまな仕事や商いで、暮らす人々がいる。たとえば、先ほどの若林さま贔屓の『たつみや』の者たち。わたしが今乗る駕籠をかく男衆。または、訪れる客もある。それから、三味の艶っぽい響きを鳴らす芸妓たち…。
手の指ではとても数えられない。
たくさんの人々の生きる場所で、その人生の交差する場所。
伊織はここで、葉月という芸妓と出会った。
彼にはほんの気紛れだったのかもしれない。憂さ晴らしの遊びだったのかもしれない。けれども、きっと気に入ったのだろう。
縁の深さか、その逢瀬は杏という命をもたらした。そして、どういう不思議な巡り会わせか、葉月をちらりとも知らない長子が、思いがけずその子の母になることを望まれている。
思いの先は、葉月でもその子の杏でもない。
思いが辿るのは、わたしがよく知る伊織の閨の癖だ。口づけの数であったり、または触れる指の感覚であったり、その際くれる言葉や、優しさ。
わたしがひっそりと抱いて、会えない日々にも胸のどこか奥に置き、また訪れるそのときをしっとりと待っている、それは伊織が長子に知らず刻んだ見えない彼の影のようなもの。
互いにしか感ぜられない、互いを思うことであると知れるもの。
不意に、そんなはにかむようなときめきが胸を浸すとき、長子はまるで、匂やかな花を抱いているかのような心もちになるのだ。
それはたまゆらの、けれども深く甘いわたしだけの幸せな物思い。
伊織は、葉月をどんな風に抱いたのだろう。何度口づけた? 何をささやいた? 
わたしと知り合う以前の話とはいえ、それを思うと、結った髪のつむりの奥、胸の中が熱いほどに焦れてくるのだ。長子だけのものなのに。
それは彼がくれたあの白い折鶴と同じく、わたしの内で大きな意味と重さを持つ。長子だけのもの。
熱い涙がにじみそうな、痛いほどの嫉妬を感じている。抱いている。
けれども、その裏で長子は知っている。
牡丹は、伊織が葉月と逢ったのは「ほんのたまさかのご贔屓」と言った。それはわたしの手前、控え目な表現をしただけなのかもしれない。
でも、「贔屓」なのだ。それは芸妓である葉月との時間を、金で買ったことを意味する。
そういう関係も、花柳界では、粋に恋と呼ぶのかもしれない。
伊織のそれはおそらく、好色腐れ老中の気紛れや気散じだろう。真実彼が葉月に愛情を抱いていたのなら、きっと彼女を身受けするなり、側に置くよう図っただろう。親友の俊輔殿が牡丹を恋人にしたように。多分そんなことを、ためらいはしない。
だが、伊織はそれをしていない。
ただ彼は杏を娘と認め、引き取り、長子に母になれと押し付けたばかり。葉月への手向けの心も、それには含まれるのだろうか。
わかっている。
頭では、きちんとこんな風に納得もいっているのだ。
そして、「時間がほしい」からと、大事なはずの老中の御役職を辞すことまで決意してくれる、その心根が何を意味しているのかも。
わかっているのに。嬉しいのに。
けれど、
だけれども、
やっぱり憎ったらしいあの伊織を、どうかして懲らしめて、頬をひっぱたいて、引っ掻いて、…うんと困らせてやりたい。
余裕ぶったあのいつもの表情を、精々慌てさせてやりたいのだ。
 
 
駕籠が着いたのは、塀をめぐらせた厳しい門構えの邸で、その門の前にはこれも厳しい表情で槍を持った警備の侍が、明かりのそばに二人立っていた。こちらを睥睨するかのような視線を向けてくる。
駕籠を降り、爺やをその辺りに待たせ、わたしはすいっと進み出、その警護の侍に問うた。
「こちらは、盗賊改方〔特別警察機構〕と聞きました。今夜…」
わたしの声を遮って、きつい声で誰何する。
「いかにも。夜分、ご婦人が何のご用か?」
「こちらに、老中の榊…」と、そこでまた厳しく遮られてしまう。「そのようなお方はお越しになられていない」
「だって、聞きましたもの。誤魔化さないで。いるはずでしょう? わたしは榊の家の者です。急ぎの用があって参りました」
もう一方の侍へ、片方が目配せをした。門を通してくれるのかと思いきや、腕をつかまれたのだ。
「なぜ、ご老中のお家の者が、盗賊改方に参るのか? おかしいではないか、娘御。ご老中にご用なら、お城へお遣いを差し上げるのが常。なぜ、こちらへ参る?」
「だから、ここに御役でいると…」
「とにかく、通す訳には参らん。帰りなさい」
意外な誰何の厳しさに呆気に取られたが、ここで帰るのも癪に障る。つかまれた腕を引き剥がし、上役の方を出してくれと頼む。
二人は再び顔を見合わせたが、やはり首を振った。
「ならん、今宵は皆さまお忙しいのだ」
わたしは侍の肩越しを背伸びしてのぞきこみ、大きな声を出した。「どなたか出てきて下さいませ」
「おい」
「こら」
また腕を今度は左右ともつかまれた。「きゃ」と抵抗するが、後ろ手に縛られそうになる。
「無礼な、放しなさい」
目の端に、辻に潜んだ爺やがこの騒ぎにこちらへ進み出るのが見えた。その歩が、どうしてかふっと止まった。
そのとき、「何をしている?」と声がかかった。腕をつかんだ侍共は「はっ」とそれに応え控えるくせに、腹が立つことに、それでもまだ長子を放さない。
「何だ、女子ではないか…」
ひょいっと門の中から出て現われた、思いも寄らない懐かしい顔に、「あ」と、声が出た。
そこに顔を出したのは、あろうことか、以前わたしが剣術指南に出向いていた神柳道場で、同じく教授していたあのぼややんとした師範代だった。
目が合い、長子と知れたのか、彼はやはりぽかんと口を開け、「あ」とつぶいやいた。
「な、長子殿…、どうしてこちらに? 一体全体、何のです? あなたというお方は…」
それはこちらが言いたいこと。当時は仕官先が見つからないとぼやいていたのに、いつの間にかちゃっかり盗賊改方に同心として仕官しているようなのだ。
とにかく、彼が出てきてくれたお陰で、腕を解かれ、中に入ることを許された。
篝火の炊かれた砂利の道を行く。その間彼は、自分が去年こちらに仕官が適ったことを告げた。
「妙なときにいらっしゃって、今宵は特に誰何が厳しいのですよ。捕り物があって、主な皆さまは出払っているのです。誰も入れるなとの上からのお達しで」
「ふうん」
お玄関はがらんと広く、その奥に見える広い畳敷きの間にも姿がない。人気がなく、ただ広々しただけの邸で、お寺のような雰囲気すらする。
「自分は新参ですからね、留守居役を仰せつかったのですよ。あはは」
「ふうん」
のんきに笑いながら、わたしのために、その座敷にお座布団を敷いてくれた。
「あ、遅ればせながら、お礼を申し上げないと。わたしがこちらへ仕官が適ったのも、榊さまのお声添えなのですよ」
「え」
意外な人の登場にも驚いたが、意外な話の成り行きにも虚をつかれた。
聞けば、彼の義兄になる人がこちらの同心で、ある重要な情報を持っていた。けれども誰に告げてよいやら迷い、困惑していたところ、義弟が時の老中を知っていると言う。それで、そのつてを頼りに伊織に会い、情報を渡したのだとか。その際、仕官もしっかり頼み込んでいたという。
「義兄の抱えていた情報は、案外大きな問題でしてね、まあ、榊さまの奥方の長子殿には申し上げてもよいでしょう、こちらの長官がある盗賊方と通じていたのですよ」
「そう…」
それで、とほにゃららした師範代は概要を教えてくれる。事の次第を知った伊織は、部下に任せ経過を探らせていたらしい。そして確証が持てた今、自らこちらへ乗り込み、長官に対面し詮議しているというのだ。
「こう言っちゃあ何ですが、長官には首を傾げたくなるところがありました。榊さまは、力技で急ぎ吐かせるおつもりらしいと、義兄は喜んでいましたよ」
やはり、伊織は盗賊改方にいる。
これが、若林さまの口にしていた「余計な事案」なのだろうか。ぼんやりと思ったところ、
「まさか、ご老中自らが、と我々も驚いているのですがね。まあ、あの榊さまは、元から変てこなところがおありでしたしね」
相変わらず、あっさりとそんなことを言う。自分だって、おかしなくせに。伊織の身分も長子のそれも、まるで知らなかった頃と同じ重さのない口調だ。
それは、決して不快ではない。もしや伊織も、同じようなものを、からりとひょうげた彼から感じたのではないだろうか。そんな気がする。
「ねえ、伊織はどこに…」
わたしの問いをかき消すように不意に、扉の開け閉めする音がした。それに続き、声と足音が遠くから響いた。物音に弾かれるように、師範代は立ち上がる。
「詮議が終わった」
やや慌てて、玄関から大声を出し、人を呼ぶ。土間を出て行こうとして、振り返った。
「あ、榊さまは、この廊下を進んで突き当たりの間にいらっしゃいますよ」
お座布団が温まる間もなく、わたしは教えられた方へ歩を進めた。
 
 
廊下を進む途中、長子の後ろから急ぐ足音が聞こえたと思ったら、急ぎ抜き去っていく。見知った伊織の側近の一人にも思えたが、こちらに気づかず、袖が触れたのを「申し訳ない」と軽くいなして行ってしまった。
まさか主人の奥方が、こんなところにいるなどと思いもしないだろう。わたしを奥付き女中の一人とも思ったのだろう。
目当ての、突き当たりの部屋の襖の前に来た。その襖に手を掛けようとして、ためらった。「捕り方らが戻る前に移せ。長官(おかしら)が捕まるところなど、連中に見せるな。薄みっともねえ」と、伊織の声が聞こえた。
久し振りに聞く彼の声は、嫌な御役目のためか、ひどく機嫌が悪く聞こえた。
師範代の話していた長官の身を移す、その最中のようだ。今、この中に入っていくのは、さすがに邪魔になろう。そう考え、隣りの部屋に移り、少し襖を開け、様子を見つつ待つことにした。伊織が仕事を終え出てくるところを見計らって、捉まえてもいい。
ほどなく隣りの襖が開き、人がぞろぞろと出て行くるのが見えた。真ん中にいるのが問題の人物なのだろう。前後を固めるようにして伴われていく。
それをやり過ごし、わたしは再び襖の前に立った。伊織はまだ中にいる。
「くそっ」
襖の向うからそう聞こえた。何かを罵るような言葉。
「え」
手を掛けた襖を、突然中から何かが叩いた。硬いものが強く投げつけられたようだ。驚きに小さな悲鳴が出た。手が引っ込む。
「誰だ」
足音に続き、物が当たり一部裂けた襖が、すっと開いた。それは先ほど長子を追い抜いていった者で、彼の脇から、両手を腰に置き立つ伊織の姿が目に入った。
彼はわたしを認めると、驚きに眉を寄せた。何かを言おうとして、唇をやや開いた。
「まさか、…奥方さまの、長子姫でいらっしゃいますか?」
間近に見、ようやく目の前の女子が長子であることに気づいたのか、襖を開けた側近は、びっくりして裏返った声を出して問う。
それに答えたのはわたしではない。
伊織だ。
ちょっと手で招くので中に入った。足元には、さっき、多分伊織が襖に投げつけたのだろう脇息が落ちている。
どうしてこんなもの、投げたりしたのだろう。何に苛立って、機嫌を損ねたのだろう。長子の知る彼は、そんな印象などないのだ。
いつも余裕があって、ふてぶてしくて、憎ったらしいくらいこちらをからかって……。
「外してくれ、忠梧。じき俺も行く」
その声に、襖側に控えた忠梧と呼ばれた側近が、恭しくうなずき、部屋を出て行った。
部屋には、先ほど連行された長官がまとったらしい上衣や扇子が一緒に残されている。急なことでか、それを再び身につける暇も余裕もなかったのだろう。
目でそれらを追っていると、伊織がわたしの腕を引いた。側に寄せ、指で顎を持ち上げ、上を向かせる。余った指で唇の輪郭を緩くなぜる。それは伊織のよく長子に向ける癖の一つ。
「まったく神出鬼没だな。俺がここにいると、どうしてわかった?」
「若林さまに聞いたの」
「は?」
ここに至る経緯を、簡単に説明した。
すると伊織はやはり、話の途中から唇の端を歪めて笑うのだ。
「誰にでも食い物をたかるな」
「たかっていません」
やんわり凝らした瞳を優しくわたしに注ぐ。そんな変わらない瞳を向けられると、なじってやろう、ぶってやろう、そんな威勢のよかったはずの気持ちが、どんどんたわんでいく。
さっき伊織は、襖に脇息を投げつけ罵るほど苛立っていた。あれは何だろう、どうしたのだろう。そんなことも気にかかる。
不意に抱きしめられた。久し振りであり、ほんのりと懐かしいその腕の感覚は、やはり、どうしても長子に居心地がいいのだ。
「…すまん」
つむりに置かれた彼の頬辺りから、そんなため息に絡んだ詫びが降ってくる。少し気だるいような、疲れを含んだような、彼の吐息も声も長子の髪に触れ、溶けていく。
わたしは彼の胸の羽織の衣に指を置き、じっとしている。何かが、こうやって抱きしめられる刹那に、通うような気がする。伝わる気がする。
「すまん」
通じ合うのは、伊織の詫びの意味であったり、彼の吐息の重さであったり。やはり彼も同じく抱く、わたしが肌で刻んだその影の匂いであったり。
わたしたちだけのもの。
抱きしめながら、長子に身をもたせかけるような、預けるような伊織の仕草は、その重さに、じっとりと彼の疲れがにじむのだ。
「ほしいのに、手に入らない…」
乾いた伊織の声。
「うん…」
何が? と問わない長子の問い。それに答えもなくて。
ただ、わたしは手を彼の背に回すことで代える。ぎこちなく、それでも確かにいたわりの気持ちを込めて抱いた。
「少し、こうしていたい」
伊織の言葉は髪から耳に流れ、水を飲むようにするりと胸にしみていく。



        

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