たまゆらに花を抱いて
9
 
 
 
「老中を、辞めてしまうの?」
幾ばくかの彼のため息を感じた後で、わたしはそう訊いた。
一番問いたかったことであったけれど、答えの知っている問いかけ。ただ、伊織の口から、彼の言葉にしてほしいだけ。
彼はちょっと黙ってから、「ああ、そのつもりだった」と言った。
「そんなことを訊きに、ここまで来たのか?」
「……大事な御役職じゃないの?」
「そりゃ、大事だろうが、何も俺でなくていい。じき空く京都守護か、大阪城代に替われたらいいと思っていた。その予定だった」
「上方へ?」
「ああ。暇じゃないだろうが、老中ほどではない。時間もできるし、まず邸を空け続けることはない」
そこで彼は、意外なことをほろっと告げた。上方へ移る話は、もう既に父上にも告げてあったのだという。
「え」
「候は、喜びはしなかったが、国許への行き帰りに姫に会えるのなら、と、数年のことだ。まあ許しももらっている」
何て手回しのいい。さすが、腐っても老中。わたしはふうんとそれを受け、受けながらも、なじる文句をつい口にする。
「長子は最後なの? 伊織についてなんか行かないと言ったら?」
「来るだろ?」
そんなことをしゃあしゃあと言って、言葉の端がちょっと笑うのだ。「団子なら、京のを腐るほど買ってやる」と。
「まあ…」
この期に及んでも、長子をからかってばかり。むくれた腹いせに、足でも踏んでやろうと思ったが、上方へ移るという伊織の話は、希望の話であったことを思い起こす。ご破産になってしまった彼の希望の話だ。
彼はそこでごく短く、老中の辞職は沙汰止みになったと、その理由を口にした。京の朝廷からの帝の勅使が、江戸の辻で暴漢に遭い刀傷を負ったためだ。
「風流ぶった貴族が、都大路でも歩くつもりで夜遊びに出たらしい。運悪く、ここの盗賊改方が追っている連中とかち合って斬られたようだ」
「勅使殿は殿方なのに? お公家方は剣を使えないの?」
「さあな。いきなりだったのかも知らん。どうであれ、あんなずるずるしたもんを着ていては、そりゃ太刀はさばきにくいだろう」
伊織が皮肉げに言うのは、お公家方がまとう袖の広く長い装束のことだろう。母上なども同じように『長袖』などとわるくちをおっしゃる。
それら報告は、先ほど下がって行った忠梧という者が、彼に告げたのだろうか。だから、それを聞いて伊織はその苛立ちを、脇息に投げつけることでぶつけた……。
伊織が小さく舌打ちした。よほど腹に据えかねるのだろうか。そういえば、老中連は、勅使のお迎えが絡んで、ここのところその準備に忙しかったのだと叔母さまがおっしゃっていた。
それから、伊織の願いも。
それが皆、今夜の勅使殿が斬られた事件で水泡に帰してしまった。
「時間がほしかった」
「うん…」
「どうしても、ほしかった」
彼のくれるささやきは、髪の筋に絡めて、それからしんなりと溶けていくのだ。長子の顔を毎日見たいこと。触れていたいこと。双子に、もっと父らしくしてやりたいこと。できれば、杏を含めて家族でありたいと願ったこと。
「杏も?」
「嫌か?」
その問いに、わたしは瞬時返事をためらった。答えは出ている。わかっている。けれど、まるで喉に引っ掛かった魚の小骨のように、ささいなわだかまりが消えない。
伊織はそこで、腕を解いた。ほんのり赤みのある瞳をわたしに向ける。指で、やんわりと顎をつまみ、軽く上向かせた。
「嫌なら、いい。姫に無理に母になれとは言わない」
「でも、伊織は長子にそうしてほしいのでしょう?」
「ああ、でも…」
無理にとは言わない、と彼はもう一度繰り返した。
行灯の灯が、油を吸ってじじっと焼ける小さな音を立てる。遠くで物音がする。その音に、伊織が微かに視線を襖向うに流した。
お勤めがあるのだ。忙しい中、長子にばかりかかり合ってはいられないのだ。
戻した瞳の先に何を見るのか、彼はわたしの目を見つめ、長く瞬きをしなかった。
「俺が…」
そうつぶやいて、伊織はわたしの額に唇を置いた。優しく滑るように目に這わせ、長子の瞳を閉じさせる。指は耳朶に触れ、頬をつまむようにいじる。
まだまぶたに触れたままの彼の唇が、ほのかに開いた。
「きついことを言う。少し堪えてくれ」と、そんな前置きを置くのだ。
「なあに?」
「惚れた姫の産んだ双子なら、愛しがって大事に抱いてやる。その一方で、芸妓に産ませた杏のことを、姫の機嫌次第で、俺は見捨てようとしている。どちらも同じ俺の子なのに、だ」
「あ」
「そんな俺でもいいのなら、そうする」
伊織は苦いように、ちょっとだけ笑うのだ。「姫がそう望むのなら、そうする」と。義母上の許などいう次元ではなく、どことも、長子が杏の気配すら感じないですむように遠くへ。
「なあ、どうしてほしい? 姫の望むようにする」
これは長子に問題の下駄を預けたばかりでなく、脅迫に近いではないか。伊織の言葉は、そんな恐ろしいことを長子に選べと言っている。
杏は何も知らない。幼くして、あんな頑是ないまま母を失った不憫なだけの娘ではないか。わたしの心一つで、まさか伊織は、あの子を本当に、いずこかへやってしまうつもりなのだろうか。
「姫の望むように」と、すべてを長子の選択に委ねた振りをして、それは現実や責任からから逃げているだけではないか。
「…ひどい、そんな」
わたしはいつしか、伊織の問いに涙をにじませていた。そのくせ唇を噛み、目を怒らせ、ひどい伊織を睨むのだ。
「だから、言った。きついことを言うと」
「腐れ…老中……」
「何とでも言え。腐れているから、辞めようとも思った。そんなことより、早く選んでくれ、時間もない。姫の望むまま、いかようにも計らう」
どうしてそんな冷めた顔で、どうしてそんな恐ろしい決断を長子に迫れるのだろう。不憫だと可哀そうだと、わたしの不快を知って敢えて引き取った娘なのに。自分の血の通う娘なのに。
長子がためらいを引きずる素振りを見ると、途端に翻意する。なら面倒だとばかりに、ややこしいからとばかりに、彼のいつもの嫌な癖のように、倦んで背を向けてしまう。
「姫が腹いせに廓にでも売ってくれというのなら、それでもいい。俺も腹を括った」
わたしは、伊織にそんな不愉快な決断を急かれている状況に我慢がならず、顔を背けた。そのまま彼の胸をどんと突きやった。
「人でなし。自分が芸妓に産ませておいて、知らずに放って置いて。…長子の顔色をうかがって、そんな不憫な子を捨ててしまうなんて…、平気なの?」
「仕方がないだろう。俺は奥方に頭が上がらんからな」
あっさりと冷たいことを、言ってのける彼の嫌らしさに怖気が振るう。わたしの機嫌のためといえ、そんな卑劣な真似をしていられる彼もわからない。そして、そんな人を唯一の背の君と崇めて添っていたくなどない。
やや首を傾げ、瞳を凝らし、淡々とした表情を崩さない彼の冷酷さが憎くなった、腹が立った。伊織という人が、長子にはわからなくなった。
葉月は、杏を残して逝かなくてはならなかった。どれほどの切なさだったろう。いかばかり悔いたろう。会ったこともない、知らない彼女のそんな胸の痛みが思われ、長子の心までじんわりと苦しみを帯びるのだ。
伊織は責任逃れに、彼女も彼女の娘の杏も、それからわたしの気持ちまでも踏みにじるようなことを告げた。
わたしは背を向け、襖に進んだ。「おい」と背に声がかかったが、応えてなどやるものか。悪徳狼藉老中め。
あれこれと悩んで、涙したのが馬鹿みたい。長子が夫に選んだのは、こんな愚かな人だったとは。こんな人を好きになったなんて。
襖に手を掛けたとき、肩に伊織の手が置かれた。「待て」と言い、強く引く。そのまま腕をつかまれた。
「放しなさい、伊織とは話したくないの」
「俺に怒ったのだろう? 嫌な奴だと不快になったのだろう?」
わかっているのなら、訊かなくてもいいじゃないか。何を今更、言い訳など、聞いてやるものか。「なあ、姫」と顔をのぞく伊織に構わず、わたしは力を込めて、そのつかむ手を振り払おうとした。
「放して。放さないと人を呼びます。一、二、三…、あああああああ!!」
ためらいもなく大口を開け、声を出した。その口を、伊織が慌てて手のひらで塞いだ。
塞がれながらも騒いでやる。
「止めろ、みっともねえな。本当に叫ぶ奴があるか。嘘だ、嘘。さっき俺の言ったことは皆、嘘だ」
「あ?」
「すまん、試した。姫の本音が聞きたかったんだ。すまん、驚かせたな。許せ」
「は?」
伊織はどうしてか、いまだわたしの口を封じた手を外さないまま、再び、先ほどの話はすべて嘘だと繰り返した。
長子に、杏を捨てやってしまうか否かを迫ったことも。わたしの意に沿うのなら、あの子を廓にでも売ろうと言ったことも。
ひどいことを冷たく言い放ったのも、皆嘘だと言う。
「すまん。騙すような真似をして、悪かった」
伊織はおかしそうにわたしを見て(まだ口の指を外さず)、笑うのだ。わたしが心根では、杏を疎んじていないのを知り、嬉しいのだという。
何が楽しいのか、人を驚かせておいて。腹の立つ。
まったく腹黒老中め。
心が凍りそうに嫌だった。知らない伊織がわからずに、怖かったのに。
「なあ、許してくれ」
そんなことを柔らかい口調でささやき、やんわりと背に腕を回すのだ(まだ口の手は外してくれない)。
伊織は油断がならない意地悪で、ずるい。容易く、長子の心を千路に揺さぶってしまう。
「ひどい。騙したのね、この…陰険男色色魔老中」
「和泉守と一緒にするな。俺がいつ、色魔で男色になった?」
わたしの罵りを、呆れるように言いながら、彼の瞳も唇の端も、どこか緩み、今にもほろっと笑みがこぼれそうなほど。
「なあ、許してくれ。姫の本当の声が聞きたかっただけだ。それだけだ。すまん」
そんなことを図々しく口にし、やんわりと胸に抱き寄せるのだ。衣にしみた煙管の香が、こんなのときにも、伊織の側にいることを、つんと心に響かせる。
それで、いきり立った気持ちが、嘘のように凪いでいくから不思議で。そんな単純な長子の気持ちの流れに、ほぞを噛む。
やはり伊織がそのような卑劣な人ではなかったと、当たり前のそんなことが嬉しい。
意地悪で、ふてぶてしくて、冷たいときもある。嫌な癖も、不満もいっぱいある。けれども、知らず授かった杏という娘の身を大事に不憫がり、愛しがっている気持ちは、通じる。理解ができる。
「可哀そうだ、不憫だ、でいい。それほどあの子に邪気なく優しさがもてるのなら、そこから始められないか? 駄目か?」
長子にそれは受け止められるだろうか。心に抱いていけるのだろうか。
説くように言った後で、彼は「すまん」とまた詫びた。
「急かせて、すまん」
「うん…」
伊織の思いは叶えてあげたい。けれども、心を偽って、大丈夫なのだろうか。正直、そんな迷いがある。
それらを思い、彼(まだ口の手は封じたまま)の瞳を見るのだ。真っ直ぐにこちらへ注ぐそれは、ほんのり赤く充血し、やや凝らすいつもの癖で長子を映している。
それが不意に緩んだ。伊織は、さっきのでたらめなせりふの中で一つだけ、本音があったという。
「俺は姫に頭が上がらん。な、当っているだろう?」
まあ、しゃあしゃあとよくもそんなことを、にやにやと笑いながら。
わたしは、唇を塞いだままの彼の指の腹を、きつく噛んでやった。伊織はそれにちょっと眉をしかめてから、ようやく指を外し、
「俺の指を食うな」
などとやっぱり唇で笑い、わたしの片頬をつまんだ。
彼の口づけを受けるのは、ほのかに久しぶりで、だからほのかにはにかんでしまう。深く重なって、わずかに離れ、ほんのりまた触れ合う。
「言い忘れた」と、伊織がささやきにつないだ言葉は、小さくない驚きとそれから開く喜びを、わたしの胸に呼んだ。
「俺は、迷わず姫をとる。…知っておいてくれ」
首筋に置かれた指が滑って、喉を辿る。その指の感覚に、つきんと胸の芯が痛い。
「あ」
伊織が好き。
長子は伊織が好き。
ふと、襖の向こう、廊下をこちらへ向かう足音が届いた。足音が高いのは、気づかせようと、襖内のこちら気遣ってのことだろう。
彼は刻限なのだ。急ぎのお勤めがあるのだ。
身を離し、わたしは何となく身を返した。
「行くのか?」
「…うん」
供はあるのかと問うので、爺やだけだと答えた。
「こちらから出させる」
それには、うんとかああとか曖昧に応えると、伊織はちょっと厳しい口調で「連れて行け」とたしなめる。「危ない」からと。
そう言われると、否やはない。うんと、うなずいておいた。そんな優しさに、途端に今更のはにかみが込み上げてくるのだ。面映いような、頬が熱くくすぐったいような、そして咲き初める花のように、確かに心がほころんでいる。
だから、敢えて顔を背けたままでいた。
再び、襖に手を掛けると、伊織の声がした。しばらくまたお城に詰めるだろうこと、それから、
「俺が迎えに行ったら、柚城から帰って来るのか?」
「え」
「迎えに行く」
「…うん……」
曖昧な返事のままにしておいて、襖を開ける。やはりそこにはやや距離を置き、控えた者がある。
伊織は彼にわたしの供を用意するよう命じた。「予め柚城藩へ、俺の名を出して使いを出しておけ。それで済む」
あ、と思う。確かに時刻は遅くなっている。何の連絡もせずにいて、柚城の邸では、長子を心配しているかもしれない。
長子はなんてのんきなのだろう。そうと気づけば、父上も母上もご心配の上お怒りになるところだ。
伊織が何気なく、当たり前に散りばめたそんな気遣う事柄に、彼に守られている確かな実感が、ふわりとわたしを包むのだ。




        
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