天涯のバラ
(1)
 
 
 
(あ…)
 
彼と、その隣りに寄り添う女性の睦まじい姿は、まっすぐに目に飛び込んできた。周囲の風景がぼやけてしまうほど、それは場から浮き立って彼女には見えるのだ。
目にしたものに、彼女の心は固まってしまった。冷えて凍ったようになった。
うろたえる動揺ではなく、硬く感情が止まる。決して受け止めたくない拒否感と、現実を認める恐怖はあまりに巨大で、彼女の胸をあふれてしまう。
これから間もなく、自分は『紅天女』の試演の舞台を踏むのだ。見てはいけなかったのだ。見るべきではなかった。
形作った自分の中の阿古夜が崩れていくように感じた。その基礎となったのは、彼への思いだ。
(駄目だ、駄目だ、駄目だ…)
感情とは別の、冷静な頭が絶望的な判断を下す。
どれほどそのままでいただろうか。
誰かの何気ない呼び声に振り返り、機械的に返事をする。再び、顔を前に戻した。当たり前に、目には彼とあの女性が親し気に映る。その光景は、大きな杭であるかのように彼女の凍った心を打ち砕いた。
(死んでしまう…)
その感覚は、壊れた心から生まれて広がり、その小柄な身体全身を冷やしていった。彼の隣りの女性が、彼女に告げた最後通牒のような言葉が、その際に甦った。何度思い起こしても、あまりに手ひどい痛みだった。
『誤解なさらないで下さいね。紫のバラは、マヤさん、あなたにだけ贈っていた訳ではないのですよ』
彼女が少女の頃から彼に贈られ続け熱く励まされてきたあのバラを、彼女だけのものではないと、紫織は言った。その表情は、驚く彼女がおかしいのだと、言外に告げていた。「当たり前でしょう」と。彼がこれと目をつけた役者の卵に、ああいう形の恩を売り、応援をする。「先行投資だ」と、彼は婚約者に説明したという。
『『紅天女』が手に入るのならば、至極安い投資だと思いません? わたくし、お聞きして、なるほどととても納得いたしました。さすがだと、父なども真澄様の手腕に感服しておりますのよ…』
信じられなかった。信じたくなかっただけかもしれない。
それでも、彼女は信じたかった。いつだって、嫌われ役を買いながらも、彼女に手を差し伸べてくれる彼の優しさと思いやりを。
彼にはきっと愛や恋ではない。けれど、血のつながる家族を持たない彼女には、バラに託された親愛の情はかけがえがなく、堪らなく愛おしいものだった。既に分かちがたい彼女の一部だった。
信じつつも、紫織の確固とした言葉が疑いを呼んだ。それを忘れるために、遮二無二阿古夜になろうと没頭した。見事阿古夜になって、その演技でもって自分の真意を彼に届けたい…。痛む心と彼を信じる気持ちがそれを助けた。
そうして、試演の日。舞台袖から、観客席を眺め、あの二人を目にしたのだ。自分に起こった動揺は、思いがけなかった。二人の姿は彼女の目に圧倒的であり、育んだはずの信頼は脆く、か弱かった。
それは、抵抗できる感情ではなかった。目の前にいきなり幕を下ろされたような、生理的で物理的な反応だった。
そして、彼女は死にたいほどの絶望に、観念してしまうのだ。
このわたしは、もう要らない、と。
 
その代わりに、下さい。
 
(死んで、阿古夜になろう)




      


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