天涯のバラ

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月日が流れた。

一時、激しく変わった彼の周囲は、ある時期を過ぎればおっとりと動きを止め、またゆるゆると過ぎていく。

婚約者であった紫織との結婚後、体調を崩し気味であった義父に代わり、彼は大都グループの後継者として、グループ内の指揮権をほぼ譲り受けた。しかしながら、いまだ主軸を大都芸能に置き、グループの仕事を兼ねる日々だ。

そして、派手に噂された政略結婚であったはずが、その後も鷹通との提携はこれといって進まず、彼は一つ二つあちらの企業の名ばかりの社外役員を務めるだけに留まっていた。鷹通グループに持ったはずの野心も、いつしか消え、今の肩書きに不満はないが、何のための結婚だったのかと、ふとぼやきも出る。

望むものは、何一つ得ていない。いたずらに年ばかりを重ねた気がしていた。

しかし、この道を選んでしまったのは、自分だ。悔いは大きいが、あきらめが強い。五年とはそういう時間だった。

(一番変わったのは、きっと彼女だろう)

数か月前の彼が代表を務める大都芸能だけではなく、グループ全てを包んだかの熱狂を思い出す。『紅天女』を獲得後、渡米していた北島マヤが、彼の地で栄えある賞のノミネートを受け、レッドカーペットに登場したのだ。

そして邦人での個人受賞は皆無のその賞で、彼女は助演女優賞という栄冠を手にした。素晴らしい快挙だった。その瞬間は、中継されており、リアルタイムで社が盛り上がった。彼も社長室で授賞式を見ていたが、彼女の名が呼ばれたとき、ガッツポーズが出た。共にテレビを眺めた役員連や秘書課の連中も、歓声を上げた。

式の後のパーティーの模様も流され、日本からのクルーが彼女にインタビューをした。案外小ぶりなトロフィーを持ち、清楚な白のドレスを着た彼女が慇懃にそれに答えていた。応援してくれた人々、スタッフの協力、それらがあっての幸運だと、優等生のコメントをすらすら述べた。

彼は、少女の頃の彼女をよく知る。それゆえに、今の成長に舌を巻く思いだった。まぶしいその笑みを見ながら、ふと自分と彼女に流れた時間を思った。長いそれは、こんなにも二人を遠くに追いやってしまった。

インタビュアーの

『何か、日本の皆さんにメッセージはありませんか?』

そこで彼女が、あの有名な金のトロフィーを上にかざし、大きな声を出したのだ。

『社長! 獲りました!』

自分へ向けた派手なメッセージに、彼は思わず、くわえた煙草を膝に落とした。素早く払ったが、もう少しでズボンを駄目にするところだった。

テレビでは、彼女の周囲がその発言を受けて、大層盛り上がっている。「シャチョー」とうるさい。しばらくすれば、彼女の映画での相手役の俳優が現れ、彼女をハグして見せ、映画のシーンを模して、軽く抱き上げた。

『大変盛り上がっています。現場からは以上です』。

社長室も大盛り上がりだった。珍しく秘書の水城までもがはしゃいでいる。役員たちは、早速、明日の株価が楽しみだと嬉しげだ。

その後彼女は帰国し、彼の元に現れた。祝賀会で人も多く、簡単な挨拶だけでその場は終わった。彼は彼女を大いに褒め、久しぶりに和やかに短く話した。彼女はあの賞を受賞後忙しく、やや疲れているようだった。

 

五年前、彼女が紅天女を射止めたのち、その興行を大都芸能に任せ、自身も所属したいと申し出た。どういう風の吹き回しか、彼の口説きが効いたのか、今でも不思議に思う。しかし、彼には異存はない。破格の契約をその場で結んでやった。

理由を訊いたことがある。自分を嫌っているのではないかと。彼女は首を振り、「女の子の「大っ嫌い」なんか、真に受けないで下さい」と、ちょっとぎこちなく笑った後で、

「わたしの知る中で、役者でもないのに、速水さんほど『紅天女』にこだわっている人って、いないから」

(君が演るからだ)

そう答えられたら、どれほど楽だろう、そのときは思った。果たせる訳もなく、義父以来の親子の悲願だとか何とか、嘘でもない言い訳をしてごまかした。

その後、大盛況の本公演を済ませた後で、彼女が、お願いがあると言って来たのは、夕方だったように覚えている。仕事をしながらコーヒーを何杯も飲み、その苦みと煙草のえぐみが口の中にまとわりついていた。

何でも叶えてやるつもりだった。私心を抜いても彼女は彼と社にとって、確かに天女様だ。大きな利益を産んでくれ、これからもそれを見込める大女優に育つだろう。所属女優となり世話を焼け、ずっと一番近くで見守れることが嬉しかった。

彼女とは生き方が交わらなくとも、それは自分の変わらない役目だと思った。彼は先に、紫のバラの仲介人である聖を通して、彼女の「もう紫のバラは卒業したい」との気持ちを伝えられている。念願の『紅天女』を獲得し、確かに彼女の中の女優としてのあるゴールだろう、と彼には納得できた。

寂しくはなるが、今度は社長として大いに励ましてやればいい。苦言も減らし、嫌われないように努めよう、などとらしくもないことを思っていたのだ。

彼女が言い出したのは、渡米の話だった。勉強のため、あちらに渡りたいという。できれば、そのサポートを頼みたいといった。住居や語学研修のスクールなどのことだ。この辺りの知恵は、彼女の友人が付けてやったのだろう。本来のマヤにない細心だった。

「本公演は速水さんの都合でいつでもやって下さい。必ず帰ってきます」

笑顔で言う。

晴れ晴れとしたそれに、彼は虚を衝かれ、返事が遅れた。どう返したのか。これからは、匿名でもなく日向で、社の看板女優として気持ちを砕いてやりたいと望んだその思いやりは、彼女の意志に、しぼむように瞬時萎えたのを感じた。

自分勝手なそれを、彼は表に出さないよう努めたが、気持ちは塞いだ。身軽に自分を置いて遠くへ行ってしまう彼女が、恨めしかったのだ。

止める理由がない。

出来る限りの援助は惜しまないと告げ、渡米や滞在の費用は社が持つと伝えた。仕事は抑えるが、どうしても必要なものはこなしてくれないと困る、そう言ったとき、彼女は少し首をすくめた。また嫌な言い方をしたのかと、臍を噛みつつ彼は彼女から目を逸らした。

見送りもない。長い決別になる前の、それが最後だった。

渡米後も、彼女は大都芸能の仕事に、年に二度ほど帰国した。不定期の『紅天女』の公演と、舞台がメインの彼女の知名度アップに、グループの関連企業のCMをあてがっている。大型ドラマがあれば、ゲストの形で押し込ませた。

これらは彼が一々指示はしないが、それらしい意図を示し、絵を描かせている。

彼女はアメリカで言葉と演技を習い、幾つかのドラマに出るようになった。向こうの社員の話では、意欲的にオーディションを受けているとのことだった。バックを持たない無茶で徒手空拳な彼女のアプローチは、実力があれば、向こうでは好意的に見られることも多いようだ。

数本彼女の出るドラマを彼も観たが、流暢に英語を話し、いきいきと演技をしているのが伝わった。あちらでの生活を心配したが、事務所の制約も希薄で気楽なそれは、案外向いていたのかもしれない。

会わずにに過ぎた月日が長くなり、それでも彼は、彼女の気配をいつも探した。そんなとき、彼女がハリウッド大作映画の準ヒロイン役を射止めたとの報が飛び込んで来きたのだ。

映画は天才詐欺集団が挑むコンゲームを扱ったものだ。主役は誰もが知る大スターだ。彼女はその詐欺集団の一員で、『キャット』と異名を持つ、日本女性を演じることに決まった。

日本人という下駄があったのは確かだが、彼女は監督自らのオファーで、オーディションの最終選考の座をものにしている。数名に絞られた女優の中から、彼女は役を勝ち取った。

三流記事に、向こうの映画会社が日本での収益を見込み、キャット役には『紅天女』女優のネームバリューを持つ彼女の名が最初からあったのだと書かれていた。オーディションは世間向けのパフォーマンスだったとの見方もあるという。

そう言うこともあるだろう、と彼は記事を見て思った。自分なら、そういう付加価値のある女優を選ぶ。しかし、付加価値の『紅天女』ですら、彼女は実力で勝ち取ったのだ。記事が何を書こうが、彼女の女優としての才を揺らがすものではない。

映画の撮影が始まれば、彼女の応援に日本からも数名飛んだ。クランクアップすれば、今度は宣伝で、彼女は他のスターらとの割り振りで、アメリカからアジアを回った。日本に来た際は、滅多に出ないバラエティー番組などにも出演を指示し、顔と映画の名を売らせた。

普段のCMやドラマと違い、これには彼も力が入った。自身で指示を出し、大いに世間に名を売らせた。

映画は大ヒットし、『全米が笑った! 唸った!』と日本でも話題作になった。彼ももちろん観たが、並み居るスターらを前に彼女の存在感が遜色ないことに、そら恐ろしさすら感じた。自分が雛から見守り育てた彼女は、スクリーンの中で輝き、生まれ変わったように大きな存在になった。

シーンの一つに、印象深いものがある。キャットが相棒とする背の高い俳優がいる。二人は下らない喧嘩ばかりしているが、互いの腕を信じ、実は思い合ってもいた。緊張の続く場面の果て、任務の成功時に、キャットは相棒に走り寄り、抱きつく。相棒も彼女を高く抱き上げ、深い口づけを交わすのだ。

日本の富豪令嬢を騙るキャットは、大層な振袖を着ているが、そのシーンでは裾の乱れも露わに、両脚を広げ相棒にしがみついている。キスシーンもあるから、その後の流れを想像させる演出だった。

スカッとし、面白い映画だ。興行主でもある彼は思う。こういうものが一番流行るしうける。観る人を選ばず、誰が見ても楽しめるからだ。

ほどなく映画はその年のアメリカで賞にノミネートを受け、彼女も好演を果たしたことで助演女優賞にノミネートを受けた…。

賞の余熱も程よく冷め、彼女は今も日本にいる。こちらで映画を一本撮ることになっているのだ。

 

 

それは、彼が出先から戻って来たときだった。夕刻で、これからまた一時間もすれば接待に出なくてはいけない。その間、少し仕事をこなそうと、部屋に戻る途中だった。

ドアに手を掛けたとき、背後から華やかな声が聞こえた。秘書室のドアが少し開いている。そこからもれてきているのだ。

「気を使ってもらって、却って悪いわ。忙しいのに、マヤちゃん」

水城の声だ。

「そんな…、わたしは出番が少なくて、パリにも遊びに行ったようなものなんです。それ、水城さんのイメージです。好きじゃなかったら、ごめんなさい。トイレの芳香剤にでもして下さい」

彼女の声だ。あれこれと世話になった社長秘書の水城に、海外の土産を渡しに来たようだった。話の流れで、品は香水らしい。アイドル女優時代に彼女のマネージャーを務めたこともある水城を、彼女は信頼しよくなついている。

水城はおかしそうに、

「おかしなこと言って。ありがたく使わせていただきます。これ、高いでしょ? 限定品だもの」

「さあ…、そんなことないですよ」

「ねえ、お茶でも飲んでいかない? 社長もじきお帰りになるから」

「あ、社長! まずいんです」

「何が? 久しぶりじゃない。前は祝賀会で会ったきりでしょ? マヤちゃんの受賞、本当に喜んでいらしたのよ」

「ははは…。わたしお土産、秘書室にしか買ってこなかったんです。うっかり…。ほら、社長にとってはパリなんて、千葉みたいなものかと…」

彼女の言葉に、秘書たちが大笑いしている。出にくいが、このまま隠れて聞き意味を立てるだけも面白くない。と彼は秘書室に進み、そのドアを開けた。





           


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