天涯のバラ
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彼は呆れて二の句が継げなかった。彼女は彼に向き直った。ほっそりした白い肩に洗って緩く巻いた髪が垂れている。張りのある乳房をぷるんと揺らして、彼女は彼へ腕を回した。
この仕草に彼はとても弱い。彼女が裸であれば尚のこと弱い。大抵のことはこれでのめる自信がある。
彼女は自分への彼の愛情をかたに、話を進める癖を持っていない。が、甘えるときは大概こういう風に迫るから、彼にとっては同じようなものだった。
ぴたりと肌を合わせ、
「お義父さんも、形なんか後で都合をつければいいって、おっしゃっていましたよ」
「事情が変わった」
養女にしてからは彼女も「お義父さん」と呼ぶし、彼などより余程密な親子らしく振舞っている。義父は遅くに出来た『紅天女』の娘が嬉しいようで、彼女にはめろめろと言ってもいい。
彼女は、「彼の妻になるのが大変そう」と嘆くが、実質同じことをしているのがわからないのか。「だって…」と甘える彼女を抱きながら、彼はおかしく思うのだ。
変わらずパーティーでは彼のパートナーも務めているし、彼が無理なときには名刺を持たせて取引先に挨拶に行かせることもある。海外では彼の名代もこなすし、彼の不在のパーティーや会などでも「速水」を名乗らせているし、主催としてなり代わり、音頭を取らせることも珍しくない。
「大体、牡蠣をくわえながら「速水へのお名刺ならお預かりしますよ」と言えるのは、君くらいなものだろ」
彼女は彼の言葉に、「くわえてません。食べてたんです」と頬をふくらませる。カクテルパーティー形式のものが多いが、ああいう場で彼女はものを食うのが上手い。目ぼしいものを見つければ、「休憩」と称して食べている。その様子が可愛くて、見ると彼はいつも目尻が緩む。
彼が接客で忙しいとき、彼女が彼あての挨拶の名刺を受け取ることも多いのだ。それを彼女は着物の帯に挟み、のち彼に渡す。その束から、彼は自分から声をかけるものとそうでないものを選り分ける。
以前は、紫織の状況から、妻である人間に仕事を頼むことを考えはしなかった。しかし、彼女が現れ、易々と彼の負担を軽くしてくれる今、彼女を妻の存在に改めても、同じ対応を望んでしまうのだ。
速水の人間であるのなら、出来るときにはそれなりの仕事をするべきではないかとも、意識が変化してきてもいた。どうしても嫌なら、強いはしないが、彼女は彼の見る限り、そういうことに向くようだ。
男の彼より大女優の彼女がやれば、社交も華があり、ずっと喜ばれることも少なくない。
「今まで通りでいい。…嫌なのか?」
「そんなことないです。速水さんのお手伝いくらいなら、気にならない」
「じゃあ、何が気になるんだ?」
彼女はそれにはっきり返事をしない。これと言う理由があるのでもないのかもしれない。ただ、過去からの「彼とは不釣り合いだ」という固い思い込みの残滓が、彼女を頑なにさせているのでは、と彼は思う。
「噂を気にして君と過ごすのは、もう嫌なんだ」
「…うん」
幸い、二人の仲はこれまで不倫スキャンダルの対象にならなかった。住む場所の選定もあるし、何より意外性があったのかもしれない。
昔から仲が悪いと評判だった二人だが、『紅天女』以降の彼女の活躍から、彼が彼女の利用価値を重視し、重用していると見られている。
離婚が成った今、彼女との仲は自由だが、妊娠を芸能誌に嗅ぎつけられるのは、厄介だった。妊娠期間を知られ、不倫関係の子であると取り沙汰されれば、彼女の名に大きく傷がつく。
お腹の目立たないうちにさっさと籍を入れ、出産までの間は派手な活を控えさせ、知らん顔をしてやり過ごしたいのだ。発表など、子が生まれてからでもいいと彼は判断している。
「…結婚したら、もう怒らない?」
「え」
彼は彼女が何を訊いたのか、わからなかった。しかし、すぐにそれがある出来事を指すと気づき、苦笑いが出た。
それは、まだ彼女の妊娠がわかる前のことで、今から五カ月ほど前の話だ。彼女の醜聞がまた芸能誌を賑わし、彼はそれを見てつむじを曲げていた。
相手がまた気に入らない。日本に帰国している彼女と仲のいい里美との記事で、二人が横浜埠頭の辺りを寄り添ってデートする様が何枚も写されていたのだ。
彼が出張していて留守のことで、その隙を里美が狙ったようにさえ感じられ、記事を見て余計に頭に血が上ったのを覚えている。
事実は里美に呼び出され、二人の郷里である横浜近辺を話しながら歩いた、というに過ぎない。その話も、里美は黒沼の元で一本舞台を踏むことが決まり、『黒沼組』の看板の彼女にアドバイスをもらいたかったというものだ。
マスコミに撮られることも、里美の側には計算があったかもしれない。以前はアイドル俳優の里美も、武者修行の渡米が長くブランクも大きい。彼女とのショットはどう書かれても、里美に注目が集まり、今後の日本での再活動にマイナスになることはないのだ。
「あんな人目につくところで、人一倍目立つ奴がうろうろするのは、君の名前を利用する打算があるからだ」。彼は決めつけて彼女を怒鳴りつけた。「『紅天女』を受け継いだ君が、迂闊過ぎるぞ」。
それに彼女は、「そうだとしても、里美君も、今日本でまた再開しようと一生懸命だし…。ちゃんと何でもないことを説明すれば、みなさんにわかってもらえます」。
「誰が「ちゃんと説明」するんだ? 君じゃない。俺がそうさせるんだ。こっちの迷惑も考えろ。君の浅はかな同情心で、何人の人間が右往左往させられると思う? 前回からどれだけ日が経った。ふざけるな」。
「ごめんなさい…」。
「何様のつもりだ。自分を別格だと思い上がるのもいい加減にしろ。君の男あさりの後始末は、もううんざりだ」。
「思い上がってなんか…」。
「勝手に帰れ。俺は知らん」。
これを、彼はあるパーティーの帰りに公衆でやらかしたのだ。会場のホテルのロビー付近のことだ。引っ込んだ場所ではあったが、会を終えた華やかな装いの人々が数名いて、ぎょっとして彼らを遠巻きに見ていた。
最悪なことに、彼は腹立ち紛れに、ダストボックスを蹴り倒してもいる。「あ」と彼女がそこへしゃがんだ。片付けようとするのだ。
背後に「お客様、こちらでやります」とホテルマンの声が聞こえた。「ごめんなさい、散らかしてしまって…」。詫びる彼女の声がした。それも苛立たしくて、彼はそのまま車寄せに出て、仕事の残る会社へ戻った。
あれほど逆上したのも、パーティーで抑えた理性が、彼女の彼の動揺を全く意に介さない、平静な様子に逆なでされたのかもしれない、と一人になってから彼は思った。
そして、後悔は強かった。何と言っても、彼女の素行を厳しく注意した体をしていても、根っこは単なる私的な嫉妬なのだ。
彼は彼女と男女の仲になって三年近いが、里美と彼女がしたような、ああいう普通のデートなどしたことがない。いつだって人目を気にし、出歩くこともままならない。妻帯者の自分を常に自覚し、彼女の名に障らぬよう、行動を律してきたつもりでいた。
自分が彼女を相手には決してできぬ自由を、他者が勝手に謳歌する様に、彼は憤慨したのだ。しかし、と反省もした。
(幾ら何でも、あんな場所で、やり過ぎた)
自分の名はどうでもいい。冷酷で驕った御曹司だと、元から噂のある人物だ。実業家は人格評判を気にしてする仕事でもない。構うことはなかった。
だが、所属の社長にあれ程「男あさり」だの「思い上がるな」だの、ひどく面罵された彼女の側はそうではない。何人もの人間が聞いていた。それは事実を含んで大きくふくらんで、伝播していくのだ。
どうでもフォローしてやらなければ、と彼は思った。そうでなければ、ほぼ罪なく彼の八つ当たりの的にされた彼女が、あまりにも可哀そうだ。
社に戻り、デスクで思いついたことをメモし、それを手に秘書室に向かった。九時を回り、誰も室内にはいない。メモを水城のデスクに置いて部屋を出た。
メモには、明後日の某所との会談の日程変更を記してある。同じ日時に、彼女が彼の頼みであるレセプションを任されているのだ。それに都合をつけ、同行してやろうと思ったのだ。
廊下に出たとき、足音が聞こえた。音へ顔を向けると、彼女がいた。まだ着物を着ている。いつもは会の後に着替えるのだ。それをせず、すぐに彼の後を追って来てくれたのがわかる。
走ってきたのか、少し息を乱している。その姿に、ちくんと心が痛んだ。すぐに謝ろうと思った。彼女を「浅はかな」となじったが、ずっと浅はかなのは彼の方だ。軽度のことで感情を剥き出しにし、いつもそれで彼女を困らせてばかりいる。
しかし、彼が口を開くより先に、彼女が謝った。
「ごめんなさい…」
手の荷物を落とし、彼の垂らした手をつかんだ。「怒ったんでしょ? 速水さん。わたしが馬鹿だから…。迷惑ばっかりかけて…」
言葉が遅れたのは、彼が感動していたからだ。あんな馬鹿げたことをしでかして彼女を置き去りにした自分を、彼女は追いかけて、こんな風に許してくれている。それが嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
「何か言って。ねえ、速水さん」
「悪いのは、俺だよ」と言うつもりが、どうしてか、声になったのは、「俺だって、ずっと君とああいうことがしたかった」。
そんな拗ねたものにすり替わった。「ああいう」は、彼女が写真を撮られた、里美との横浜デートを指す。偽らない本音だが、
(しまった)
いい年をした男が、みっともない。と、口にしてすぐ恥じたが、取り返せるものではない。彼女ははっとした顔をしただけだった。笑いもせず、軽蔑も見せない。
ただ、「ごめんなさい」と彼に抱きついて涙ぐむ。
怒りを発散させれば、彼だって一人なった時点で悔やんでいたのだ。どうやって仲直りをしようか、と残した彼女を思い、悶々としてもいた。
「もういい。仕事も終わったし、帰ろう」
「怒ってない? 馬鹿なことをして…」
「俺だって悪かった。人前で君を怒鳴りつけた」
そんなこと構わない、と彼女は愛らしく彼のシャツに頬を寄せる。それで仲直りもでき、二人の間は事なきを得た。
しかし、さすがに噂は立ち、彼も知った人に会えば「天女様が御し難いからって、お灸をすえてやったんだって?」などとあちこちであてこすられたりした。
男をやや下げた感の彼に反して、雑誌に「勘違い天女様」や「我がままセレブ」と書かれ続けた彼女の方は、怒鳴りつけられた後、騒ぎを起こしたことを詫びて始末し、きちんと場を去っていることなどから、逆に名を上げた。
記事によれば、大都芸能に甘やかされて野放図にしているはずの彼女が、その社長に公衆で手厳しく痛罵され、置き去りにされたのだ。それを粛々と受け止めた彼女には同情も集まり、どうも雑誌の評判とは違う…、との見方もなされてきたのだ。
結果オーライだったが、それも彼女の人徳のなせる業だ。
そのようなことがあり、彼女の「…結婚したら、もう怒らない?」となるのだ。
しっかり記憶に新しいそれらを思い出し、彼は苦く反省する。「悪かった、もうしない。君を妻に出来たら、あんなみっともない嫉妬はしないよ」
ううん、と彼女は言う。怒ってもいいけど、と。
「あんな風に置いて行くのは止めて、嫌なの…」
「そうだな。ひどいことをした、すまない。本当に悪かったよ」
「…じゃあ、結婚してもいいかも」
「いいかも?」
彼女は「へへ」と笑い、ちょっとのぼせてきた、と湯から上がった。立ち上がった彼女の白い腹部が彼のすぐ目の前にあり、ふとそこに唇を寄せた。そのまま下におりそうになり、控えた。余計な悪戯を仕掛けて、抱けずに寂しくなるのは自分の方だ。
ふと彼女が恥ずかし気に彼から身体をひねり、視線を避けた。
「いいんですって」
「え」
「だから…、先生が」
それで彼はぴんとくる。しばらく医師より安静を言い渡され、性生活は皆無だったが、その許可が出たのだ。
「いいのか?」
バスルームを出る彼女の背に問いかける。彼女はすりガラスのドアから顔だけ出し、
「激しいのは駄目、だって。出来ます?」
「得意分野だ」
「嘘ばっかり」
彼女はくすくす笑い、「じゃあ、待ってます」とドアを閉じた。
彼は気持ちが昂ぶって、湯で顔を洗った。馬鹿みたいだと自覚しながら、心が浮立ってしょうがない。
ついさっき、彼女に「君を妻に出来たら、あんなみっともない嫉妬はしないよ」などと約束したが、正直なところ、守り切れる自信は乏しいのだ。何かあれば、きっと感情をすぐ波立てしまう自分を易々と想像できる。
まだ幼い少年期に、鋳型にはめるようにきつい矯正をかけられたた自己を、彼は頑健なものだと思い込んだが、それには例外があると今は知る。彼はある意味自分をメッキだと感じるが、彼女が絡めば、簡単に地金が出た。それは、当たり前の男の顔だ。
過去の彼はそれに複雑な刺激を味わい、やや不快でもあったが、身も心も彼女を手に入れる今は違う。
惚れた女の前で本来の顔を出すことは、幸福なのだと。現在の彼は知っている。
 
 
 
 
長い物語に最後までのおつき合いを、まことにありがとうございました。



           


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