天涯のバラ
64
 
 
 
冷たい言い方に、彼は虚を衝かれた。その彼を措いて、彼女は更に冷たい声でつないだ。気持ちを抑えられないように言葉が飛び出す。
「お姫様って、それだけの人じゃないですよ。意志を曲げてもどこかに嫁いだり、人の目が常に周りにあるから、身を律し続けて、我慢して我慢して我慢して…。そんなことばっかりしてるんじゃないんですか? だから、皆が尊敬したり敬ったり、命令を聞くじゃないんですか?」
「…ちびちゃん?」
彼女はそれに返さず、首を緩く左右に振った。
「…身を律するって、普段は病弱なのに、道の悪い梅の谷では健脚になることでも、運動もしないのに、速水さんでも持て余すボリュームのあるフルコースを毎回ぺろりと完食することでも、…「まあ、真澄様ご覧になって、北島マヤとあの桜小路とかいう少年、よく似合いますこと…」とか、上から偉そうに言うことじゃありませんから」
彼女の滔々とした声を最後まで聞き、彼にもそれが彼女の冗談だと気づいた。彼ですら忘れていた、当時はちょっと首をひねったはずの疑問を、彼女も見つけていて、更に覚えていたことが驚きだった。しかもそれを、毒気の抜けた今頃ジョークにしている。
「…君は人が悪いな。よく見ている」
遅れておかしさがこみ上げ、彼は笑った。それがなかなか引かず、ちょっと涙が出た。彼女は身を乗り出して、ティッシュでそれを拭ってくれる。
「ごめんなさい」
彼女はちろっと舌を出した。ようやく笑いを収めた彼は、
「紫織の真似が上手いな。本人かと思った。何かもう一つやってくれ」
「速水さんの方が、人が悪いじゃないですか。そんなに持ちネタはありません」
「いいじゃないか、何でもいい。アドリブでいいから」
「えー」
彼女は困った風でいたが、ちょっと目を泳がせれば、程なく彼を見て口元を引き締めた。やや首を傾げ、もう演じる様でいる。
「ねえ、真澄様、驚いて下さいませ。わたし、黒沼監督からお役をいただきましたの。狼少女のジェーンですわ! ですから、北島マヤには負けませんことよ。あの少女になさったように、わたしにも肉片を投げてやって下さいません? わたし、きっと上手くジェーンを演じ切って見せますことよ、あなたの妻に相応しく、魂の片割れとして…」
彼は「狼少女のジェーン〜」の件で、既にふき出していた。頭のどこをどう通ったら、こんな筋書きが出て来るのか。笑いながら呆れてしまう。
彼がやっと笑いを収めた頃、彼女はもう知らん顔で箸を進めている。最後には笑いに流してしまったが、彼女はその少し前までは、紫織への隠し難い反感を吐き出していたのだ。
「冷めちゃうから、食べて」
その声に頷きながら、彼は前に黒沼と話した際のことを思い出していた。彼女が『紅天女』の試演を迎えるその少し前の日に、紫織に呼び出され、何かを言い含められた事実があると、黒沼は教えてくれた。
昔のことだが、彼には言わないという彼女の約束を破り、彼に告げてくれた黒沼に頼まれた通り、そのことを彼女に問い質すことはしたくなかった。根にあるのは、彼への思いやりなのだ。紫織の行いは、彼に原因がある。そして、紫織の行為に、彼はおのれを責めるからだ。
何があったのだろう、と想像するしかない。「試演を応援してもらった」と彼女は言ったとは、黒沼の言だが、その通りである訳がない。
(その逆の、何かを脅すように言われたのだ)
過去どんなに彼女にアンチの態度を取った者でも、彼女は寛容に接している。代表格は、演出家の小野寺だが、平気な顔でパーティなどでは並び、歓談しているのだ。多感な少女期の、敏感で初心な気持ちを踏みにじられたことだって、多々あったはずなのに。
彼女の度量の広さや欲のなさ、その大物感さえ漂う人となりに、彼は密かに感服している。
(俺など敵わない)
と、いつも舌を巻いているのだ。
その彼女が、どうして紫織には厳しいのか。ときも経ち、何よりあれの妨害は身を結ばなかった。彼女の方が何枚も上手であり、『紅天女』は元より、海外での成功も手中にしている…。
なのに、今もどうして引きずるのか。それを、彼への愛情だと理由づけるのは、うぬぼれが過ぎているかもしれない。
(それもあるだろうが…)
きっと、それだけではないのだ。
食事が済む頃、彼女が言葉少なな彼へ、悩みの解を与えるように言った。
「ごめんさない、速水さんの奥様だった人なのに。…わたし、あの人のこと、人として嫌いなんです」
「いいよ、誰だって苦手な人間はいる」
「ごめんさない」
それでこの話は打ち切った形になった。
ふと思えば、紫織だってこの彼女を嫌い抜いていた。彼を理由に上げていたが、それだけではなく、人の相性であろうかと、彼は何となく考えていた。
どうしたって相容れない仲はあるのだ。自身と紫織を振り返り、彼はそう思った。
(それでいいじゃないか)
 
食事の後で彼女と風呂に入った。身体を労わって性的な交渉はこのところご無沙汰である。そのせめての慰めのつもりなのだが、それが余計に彼女を抱いていないことへの寂しさを煽るようだ。
バスタブに二人で浸かり、後ろから彼女の腹に優しく手を回した。彼の大きな手のひらが当たるそこは、少しだけふくらみを感じさせる。
この子が生まれる前に、離婚の決着がついて、本当によかったと思った。婚外子として誕生するのでは、やはり彼には引っ掛かりがあった。そして、正式な夫婦の子として、彼女に産ませてやれるのも嬉しい。
義父にとっては彼も彼女も養子である。これは、彼も知らず義父も誤解していたようだが、弁護士より、彼らの例は法の婚姻禁止の例外に当たり、そのままで婚姻が可能との説明を受けた。
もう婚姻届けも手に入れてある。ふと、彼女はドレスや式を求めるのだろうかと考えた。
どう思うか訊けば、彼女は顔を彼へ向けた。もちもちとしたその白い頬に口づけたくなる。実際そうした。
彼女はくすぐったそうに、「え」と返した。
「だから、結婚するとき、どうしてほしい?」
「ええっと…、…結婚しないといけないんですか?」
「は」
「このままじゃ駄目ですか? せっかくお義父さんもできたし、速水さんとも兄妹になれて、もう家族じゃないですか」
彼女は朗らかにそう言う。あまりの返しに、彼はすぐに言葉が返せない。つい、額に手が行った。
「え」
彼女が驚き、「どうしたの?」と彼の顔をのぞく。
「どうもこうもない。君と結婚することばかり考えて来たのに、何だ、それは…」
「今のままじゃ駄目なんですか?」
「駄目だ」
彼女は目を細めて、ちょっと切なそうな表情をする。「このままがいいのに…」
「俺と結婚するのが嫌なのか?」
「だって…」
「何が、だってだ?」
彼女はぼそぼそとした声で、彼の妻になるのは大変そうだから、自分は務まらない、とつないだ。
(何を言ってるんだ)



           


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