Daddy Long Legs
1
 
 
 
「何があっても、俺を信じて待ってくれるか?」
 
彼の言葉に返す声もなく、彼女は頷いた。彼が何かを決めたのを感じたからだ。その意味は訊かずともわかる気がした。
まばゆいような嬉しさの陰で、怯えが顔を出す。「大丈夫?」とは問わない。そう言ってしまえば、彼の覚悟も自分のそれも、何もかも壊れてしまいそうに思えた。
だから、彼女は彼の胸に額を当て、ただ感じていた。背に回る手の大きさとその温かさを、忘れないように、間違えないように。一心に、心に留めようとしていた。
そんな風に必死でいるのは、どこかで彼との約束をあきらめかけているのだろうか。信じ難く疑っているのだろうか。
わかるのは、今だけ。このときが、自分の中でかけがえのない宝物になるだろうということ。
何度も頷いた。
彼へのものか、自分に宛ててのものか。わからない。
未来はどうでもいい。待とうと思った。いつまでも、彼を待とう。
そう決めるだけで、気持ちは決まる。
彼女は初めて自分から、彼の手を取り、その指に唇を触れほんのり噛んだ。
 
 
あの運命のような客船での夜から、彼に会うことはなかった。忙しい人ではある。
そして、彼女自身も忙しくなった。懸命になっていた舞台の『紅天女』の試演が済み、ほどなくその後継者に彼女が決まった。
しっかりと手ごたえと充実を感じつつ演じていながら、結果に茫然となる。当座はふわふわと雲の上を歩くようにぼんやりとしていた。主演女優を競っていた亜弓は、彼女の勝利を潔く認め、祝福を送った。
ときの人で、マスコミにもみくちゃにされる日が続いた。あまりの騒ぎに、彼女自身が閉口し、勧めてくれた人の家に逃げ込んだ。
その行く先を、彼が知れば、驚いていつもの煙草を取り落すだろう。速水の邸である。彼女にマスコミ避けの避難場所を提供したのは、『紅天女』に執着する彼の義父の速水英介だった。
彼女の前にたびたび現れていた気のいいおじさんが、実は大都グループの会長であり、彼の父であるのを知ったのは、このときである。祝いの言葉と共にさらりと事実を告げられたのだ。あ然とするが、『紅天女』の後継者に決まって以来、驚きにまみれている彼女は、もうびっくりの限界点を超えていて、「はあ」と反応したのみだ。
「あれは随分こっちには寄り付かんから、気にせず好きに使ったらいい」
やはり好々爺然とそんなことを言うが、寄り付かなくなったのは、特に彼が忙しくなり、気楽なマンション住まいを始めたこのひと月ばかりのことで、今日ひょっこり帰って来たっておかしくはなかった。
英介の言葉を疑う理由もなく、他にあてもない。大都芸能の鬼会長だとは覚えているが、彼の父であるという変な興味と親しみも大きい。居心地もいいので、彼女は厚意に甘えてしばらく過ごした。
辞去する最後の日に申し出を受けた。彼女の身を大都芸能で引き受けたいという。正式に月影千草の後継者となり、上演権は手に入れたが、彼女はそれを演劇協会に預けたままでいた。自分が手に持っているのが空恐ろしく、うかつな自分の管理にも自信が持てなかったからだ。
「あんたを縛るような契約はせんよ。出る芝居も自分で選べばいい。報酬も思い切った額をやろう。社として『紅天女』の上演権には手は出さない。マヤさんあんたのものだ。ただ、興行はうちに任せてもらいたい。わしからの要求はそれだけだ」
驚きに「あ」だか「わ」だか言ったように思う。聞いただけでは、悪い話ではない。
それに、大都芸能は彼が社長を務めるところでもある。業界一番の大手であり、そこに所属することは、自分に有利であるのは、かつてそこにいた身だ。彼女にだってわかった。『紅天女』を譲り受けた身でこれからも芝居を続けてくとなれば、今までのような自由なやり方は利かないのではないか…。
「あんたは、一度うちで手ひどい目に遭って、腰が引けるのはわかるよ。だが、わしから約束しよう。今度は真澄に手は出させん。これは絶対だ」
彼の名が出て、頬に熱が上った。彼女の狼狽を英介はどう取ったのか、面白そうに眺め、よければ弁護士立ち合いで契約をしようとつないだ。これが目的だったのだ。彼女をただの親切で泊めてやった訳ではないのが知れた。
それでも、腹は立たなかった。滞在中は手厚く待遇してくれたし、申し出も望外のものと言える。
「わしからも、過去のあんたへのあれのやり過ぎを詫びる。この通りだ」
座りながら、彼女へ頭を下げるから、マヤは慌てて立ち上がった。こんなに偉い立場の人にそういうことをしてもらったことがない。
「いえ、そんな…。速水さんには、すごくお世話にもなりました…」
さすがに、すぐに即答はできない。劇団の仲間に相談もしたい。でも、彼女はまず自分を欲しがる英介の気持ちを知りたいと思った。側へ行き、足元に膝をつき、
「どうして、おじさんは、あの、ごめんなさい、会長さんは、わたしを大都芸能に入れたいんですか?」
もじもじと訊く。それに、英介は少し笑った。舞台を降りれば、オーラの欠片もない普通の女の子である。そのギャップが面白いのかもしれない。
「『紅天女』を欲しがらない芸能社はないだろう。それを使いこなせるかは別として、どこでもあんたを喉から手が出るほど欲しがっている」
「はあ…」
「あんたは真澄と長いつき合いだそうだが、話くらいするのか?」
再び彼の名が出て来て、彼女は俯いた。「話というか、一方的にいつもがみがみ…」
「ははは。そうか、それはよかった」
面白がられて彼女には意味がわからない。
「わしは長く、『紅天女』の上演権の獲得に血道を上げてきた。それで、随分とあんたの師匠に嫌われた…」
それが、月影千草を指すことがわかり、彼女は顔を上げた。速水英介と月影千草の関係を、彼女は深く知らない。知るのは、速水親子が執拗に上演権を狙い、千草の演劇活動のほぼすべてに影響を及ぼし、阻んできたことだけだ。
確かに、『紅天女』は伝説の名舞台で、その上演権には大きな価値がある。だが、そこまで固執するには、理由が乏しいような気もするのだ。
(役者でもないのに…)
千草から始まり、彼女、そしてライバルだった亜弓。それぞれがあの幻と言われる作品の魅力に憑かれたのは、自分が役者で、あの物語を演じたいからだ。本能と言っていい。
英介は彼女に目をやり、ちょっと遠い目をした。彼女を通して何かを思い出しているような、懐かしげな表情になる。
「若い時分に観た、思い出深い作品だ。まだ足も丈夫で、大都も今ほど大きくはなかった。…そんな帰らん過去を夢見てしまうんだろう。歳を取ると、あんたにもわかるかもしれんな」
それは、気持ちのほんの上澄みをすくっただけの言葉に聞こえた。嘘ではないが、英介の本音には遠い気がした。それ以上を問いかねて、彼女は笑って、
「『紅天女』は特別です。何かを感じる人は、少なくないと思う…。物語の端から端まで全てが、とっても素敵な作品だから」
言ってから、恥ずかしくなった。顔を赤くして、
「自分で演じていて、こんなこと言うの、自慢してるみたい。それに、宣伝みたいですね」
「いや、よくわかる、あんたの言う通りだ」
照れ笑いで応じる彼女に、英介は駄目押しのように、だがやんわりと口にした。「大都に来なさい。決して悪いようにはしない。わしに、『紅天女』の面倒を見させてくれ」
頼む、と再び軽く頭を下げる。
真摯な口調に、ほだされた訳ではない。だが、そこに英介の偽らない本音がにじむように思えた。
そこで、気持ちが変わった。元々大都に入ることにはそれほどためらいはなかった。彼の会社であるし、接点があるのは嬉しい。だが、返事を今日この場でするつもりはなかった。それなのに、彼女は頷いてしまっていた。
『紅天女』を本当に好きな人にこそ、上演権を預けておきたい。そちらへ、気持ちが動いたのだ。彼にも『紅天女』へのこだわりがあるが、それはこの父の影響を受けてのものだ。執着したのは、会社の利益と親孝行のためなのでは、と彼女は思った。
「じゃあ、お願いします」
返事に英介は満足げに頷きを返した。「契約の細かいことは、社の者と弁護士を呼ぶ。それと話して、何でも望むことを伝えればいい。のんでやろう」
「え、あじゃあ、もう少しお休みを下さい。まだなんか、本調子じゃなくて」
「易いことだ。うちの女優になったんだ、遠慮せずにもっと泊まっていけ」
「え、でも、あの…」
彼女が躊躇すると、
「構わん、がみがみ言うのは、何年も帰って来ん。寄り付きもしない」
またあっさり、でたらめを言う。着替えぐらい取りに、明日にでも来そうなのに。
彼女の気持ちが揺れているのにすかさず、英介は人を呼び、彼女へ何か精のつく旨いものを用意してやれ、と命じた。
「何が食いたい? 肉か魚か?」
彼女を急いて忙しい。マヤは食べ物に弱く、「え〜と」と頬を緩めた。「ビーフシチュー」
「鍋いっぱい作ってやれ」
この甘やかしのおかげで、彼女の滞在がひと月延び、体重は3キロ増えた。




     

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