Daddy Long Legs
2
 
 
 
彼は電話で指示を終え、自分の作業に戻った。学生時代の写真など、あまりない。少ないそれを、パソコンに取り込み、ある加工をした。少し離れて眺めた。
及第点が出たところで、そのデーターを電話していた男へ送った。次いで、引出しから便箋を取り出し、雑に氏名を書く。そこで、ノックが聞こえた。顔を上げずに入室を待った。
水城秘書が現れた。彼に用件を伝える。それに頷いて応え、秘書へ便箋を突き出した。
「君の字で書いてくれないか」
「何を、でしょうか?」
「この隣りでいい。〜と」
秘書は便箋へ落した目を上げ、彼を見た。彼の言った名は、数年前に大都芸能を辞めたグラビアアイドルのものだった。人気はあったが男性関係のスキャンダルの絶えなかった人物だ。
秘書はペンを走らせ、書ききった後で、
「理由をお聞きしても?」
彼は秘書の手から便箋を受け取り、それをデスクに置くと、カメラでぱちりと二度写した。画像をすぐにパソコンに取り込む。
「好きに勘ぐってくれて構わないよ。ほら、俺はこの通り忙しい」
口元を緩めながらそんなことを言う。
秘書は何か上司が企んでいるのは気づいていた。水城は調査員と聞かされている、社員ではない者との連絡も頻繁だ。こんな手伝いをさせるのだから、隠すつもりもなさそうであるが。
「ご覧の方がよろしいと思いまして…」
秘書は彼の前に、付箋を付けた週刊誌を差し出した。目当てのページを広げて見せた。パソコンを操作する彼が、それを一瞥した。
週刊誌の内容は、彼の過去の女性の件だった。中絶騒ぎを起こし、大枚で黙らせたと報じている。あの鷹宮家の令嬢と婚約中の彼には痛打である。婚約者の耳に入る前に、彼には対策を講じてもらいたい。
こんな記事が出たのは初めてではない。しかし、ここ数年はなかったはず。大都グループの御曹司であり目立つ人だ。やっかみも多い。どこまで本当か知らないが、水城はそこまで不誠実な男ではないと見る。それなりに女性を知る彼に、こんな不始末は似合わない。
マウスを放し、彼は週刊誌を手に取った。肘をつき眺め、それを閉じた。
「ありがとう」
そして、この後四時から予定は入れないでほしいと言う。「紫織さんの親族に会うから」と。
立ち上がり、彼は足元のシュレッダーで、水城が書いた便箋を始末した。
その上司を見て、ため息が出る。何か考えがあるのなら、詳細はなくとも言ってほしい。そこまでの信用がないのかと、不満にも思う。
そんな気持ちが表情に透けたのか、彼は、
「君は知らない振りを通してほしい。今後誰にでも」
「何を知らないのかも、わかりかねます」
黙って煙草を取り出した彼へ、「秘書としての心づもりがございます」と迫った。
なぜだか彼はちょっと笑った。火も点けずに煙草を灰皿に投げ、
「紫織さんに婚約を破棄してもらう」
返事ができなかった。水城の見るところ、鷹宮紫織はこの上司にすっかり恋している。気分は既に妻といった風情で、頻繁に社を訪れ彼を連れ回した。あの人が彼との婚約を棄てることはあり得ない。
そこで、先ほどの週刊誌の嘘くさい記事がよみがえった。シュレッダーで消えた偽署名の入った便箋、調査員への電話…。すべてこの彼が仕組んだ?
まさか、と思う。あの女優への思いが断ち難く、望まぬ婚約に絡めとられ、自棄にでもなったのかと思った。彼自身をいたずらに貶めるだけではないか。とても上手くいくようには思えない。
そのとき、水城は逆らわず引き下がった。じき彼が、無謀な計画をあきらめると思ったからだ。
しかし、そうはならず、彼のことを載せた悪質な中傷記事は、断続的に続いた。ある雑誌では、短期連載の形で特殊を組んでまで取り上げている。その頃には、水城もおおよそのことは把握している。
「マヤちゃん、こんなものを読んだら、ショックで泣いちゃいますわ」
特にひどい中傷を載せた週刊誌を、水城は手でぐるぐると丸めた。彼はそれに返事をしなかった。遅れて秘書の声を鼻で笑った。
しばらく置いて、「あの子はこんな記事、読まないよ」。
「おわかりになりますの?」
「さあな」
いつしか通い合っているかのような二人にあ然とした。二人の間で何か申し合わせがあるのかもしれない。彼の無茶な計画の原動力として、それがあってもおかしくない。
社には記事に関しての問い合わせも増えた。インターネットでの書き込みは、更に悪質でひどいものがある。
一々を拾い、上司に報告を上げはしないが、思うのだ。これらを深窓の婚約者が見なかったらどうなるのか、見ても耐えたらどうなるのか、と。彼が自分を盛大に傷つけただけで終わる。
愚かで無謀な試みに、彼はすっかり虜になっているようだった。それで、現実逃避をしているとしか思えない。
ぼやいてみた。「無駄ですわ、こんな噂を立てたって、あんなにも…」
「それでいいんだ、彼女は」
涼しい様子で答える彼が、水城にはわからない。ため息をそっとつく。あまたある中傷記事のどれかに、彼の学生時代の友人が「超S」と証言していたが、水城からはその真逆に見えるのだ。
せめてもの仕返しに、ある件を報告した。それで彼が笑顔にでもなり、気分転換すればいいとも思う。
「マヤちゃん、昨日大都芸能と契約しましたわ。会長が自ら口説き落としたとかで。さすがお見事な手腕ですわね」
初めて、彼が目を見開いて秘書を見た。信じられないといった顔をしている。その様子に、秘書はひっそりほくそ笑む。
「まあ、ご存じありませんでした? 彼女、お邸で二か月も過ごしたらしいですわ。ちょっとふっくらした頬をしていました。居心地がよかったのかしら? 前は、きつい舞台の後で疲れた顔をしていましたから、ちょうどいいくらいでしたが」
 
 
彼からはその番号に電話したことはなかった。それは、水城を通して渡したケイタイのものだ。ちなみに二台目である。前の物は渡してすぐに、どういう理由でか彼女が壊してしまった。
地下の駐車場で自分の車に乗り、ポケットのケイタイを取り出した。深夜に近い。コールが長く続いた。彼女は寝ているのかもしれない。
彼女からは、日に一〜二度メールが届いた。大した内容ではない。天気がいいとか悪いとか。旨いものを食べたとか、犬を見たとか、猫に噛まれたとか、そんな他愛のないものばかりだ。
彼はそれに、ごく短く返事をした。ケイタイでのメールが好きではないし、無邪気で女の子らしいそれらに何を返せばいいのか、ちょっと浮かばないことが多いのだ。
この日は数日前、秘書の水城からあり得ない報告を受けて、つい電話する気になった。とっとと帰り、義父に彼女の件を問い詰めればいいのだが、それも面倒くさそうで気が乗らなかった。
どれだけか待った後で、彼女とつながった。
びっくりした声を出す。
『速水さん!』
「寝ていたのか? なら、いい、切るから」
寝られなくて困っていたという。寝つきは抜群によさそうなのに、と自分に寄り添って寝た、いつかの彼女の寝顔を思い出してみる。
あれ以来だ。二人だけで話していると思えば、思いが募る。照れがあるのはお互いで、彼は無口になり、彼女はぺらぺらと喋った。
部屋が変わって落ち着かないとか。ベッドが柔らかくて、跳ねていたらさっき落ちたとか…。それにしても意味不明だった。誰か友人に家にでも泊まっているのか。
訊けば、引っ越したのだというからぎょっとした。
「どこへ?」
『どこって、あの、何だっけ。住所はごめんなさい、まだよく覚えていないから。でも、駅なら、〜です。慣れなくて、今日は迷子になっちゃった』
「どうして?」
『だって駅から遠いし、道も複雑で…』
「そうじゃなくて」と言いかけて、止めた。義父の差し金で間違いがない。『紅天女』である彼女を大都芸能で引き受けておきながら、あんな無防備なアパート住まいを許すはずがない。勝手に事を進められて甚だ面白くないが、彼女の今後の安全のためには、是非とも必要なことだ。
自分には今問題があり、彼女に手ずからしてやれないことを、父が頭越しに易々と計らってしまう…。口の中で舌打ちして、腹立ちを押さえ、それで不満を無理に流した。
『会長さんが、色々事件とかもあるから前の所は危ないって…。それに、わたしがいると劇団のメンバーにも迷惑もかけちゃうし。麗も、その方が安心だって言ってくれたから』
「そうか」
短く相槌をした。今度は彼女がちょっと黙る。『速水さん、どうかしました?』
「…いや、君が邸に長くいたそうだから、居心地でも聞こうかと思って」
『あ、…その、お邪魔しました!』
「いえいえ、お構いもなく」
『でも、あれはおじ、会長さんが是非にって、誘ってくれたんです。『紅天女』の試演のすぐ後で、色々ややこしかったときだし。わたしから押し掛けたりしたんじゃありませんからね!』
「君がそこまで図太いとは思わないよ」
よく泊まる気になったと思う。彼女は向こう見ずなところはあるが、元来人見知りをし、恥ずかしがり屋だ。あの義父が、どう説得したのか。
『速水さんは、もう何年も帰らないって聞いたから』
そんな適当な嘘を。昨日着替えを取りに帰ったじゃないか。タイミングが合えば、邸に滞在する彼女と鉢合わせした可能性だって高かった。必要なときしれっと涼しい顔で嘘をつく。彼の知る義父そのものだ。そんなところは自分でもよく似ていると思った。
「気に入ったのなら、また泊まればいい。父も喜ぶだろう」
『…速水さん、わたしのこと、図々しいって思って笑ってるでしょ』
ちょっと声がぷりぷりと尖ってきた。いつものそんな様子が目に浮かぶ。「そんなことない。水城君が、君が太ったって言っていたぞ。うちで何を食ってたんだ、二か月」
『ちょっとだけです、太ったの。本当にちょっとだけ! おいしかったから、ご飯が…』
「へえ、何が?」
『えっと、ビーフシチューがおいしくて、週に三度も作ってもらいました』
嬉しげに語る彼女が可愛い。義父は何を思い、彼女にあれこれしてやったのかと思う。長年の『紅天女』への執着といえば、それで筋は通るが、そればかりではないような気もした。
「大都芸能に入ったんだって? 聞いて知ったよ。驚いた」
彼女はそれも、義父に勧められ契約を決めたのだと告げた。『黙っていて、ごめんなさい。速水さんには、会長さんがすぐに話しておくからって』
聞いていない。契約の日から五日も経つが蚊帳の外だ。
この彼女が、あの義父を相手に上手に逃げを打つなど望むべくもない。契約内容には、目を通した。その厚遇とも言っていい彼女への処置に、彼は文句もない。自分でもそうしただろう。やはりただ、面白くないだけだ。
それらを飲み込んで、今写真を撮って送ってほしいと言った。
「太った天女様を見たい」
『また笑う気でしょ』
「いいじゃないか、笑ったって。どうせ君には聞こえない。いいから、送れ。ほら、けちけちするな、ちびちゃん」
そこで彼から通話を切った。車のエンジンをかける。助手席に放ったケイタイが鳴ったのは、信号待ちに停まったところだ。彼女からのメールの受信を知らせる表示に、頬が緩んだ。律儀に送ってくれたらしい。
手早く開いた。
画面にはぎゅっと目をつむる彼女が写っていた。髪が手振れで乱れているが、カメラの性能で、なかなか鮮明に映っている。ロングヘアを、緩くお下げに束ねているのが新鮮だった。確かに、以前阿古夜の役作りで苦心していた頃の、目の辺りの影が消え、顎のラインや頬がふっくらとしていた。
『三キロだけなの、これでも!><。』
と添えた文字がある。三キロか、と彼は声に出して笑った。一々申告するところが彼女らしい。
信号が青になる。自然画面の彼女に口づけた。無機質な感覚だが、それでも嬉しい。この日、仕組んだ計画が期待する方向へ進んだ。それを自分の目で確かめることができたのだ。この結果で、もう少し踏み込んだ次の手が出せる。
のるかそるかの企みであるが、その緊張に幾ばくかの張りと面白味があるのは否めない。どうあがいても無駄だと思った。絶望しながら手をこまねいていても、何も起きない。が、必ず別の道はあるのだ。
選べばいいだけ、どうとでもなる。進むだけだ。それに気づかせてくれたのは、彼女だ。
いい日だった。だから、彼女の声が聞きたいと思ったのだ。つんと心に染む、あの声だ。その声で、彼の名を呼んでほしかった。それで、心のどこかが埋まる気がした。
帰ってから、短く返した。
『可愛いよ。そのままがいい』




           

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