猫と君のいる場所
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午後の八時を過ぎて、彼はデスクのコンピュータの電源を落とした。ひゅんという独特の小さな電子音がする。
絨毯で転げながらボールにじゃれている、白い小さな猫を抱き上げた。壁に設置した高さのあるケージに入れようか、キャリーケースにしようかちょっと迷った。猫は彼の手のひらを噛み、手首をまだ弱い爪でひっかいて暴れている。下ろせと訴えているようだった。
結局彼は床に下ろした。部屋の奥にある手洗いと、着替えのための個室が連なる扉に向かった。ここの扉は半分ほど空いたきりになっていた。猫が自由に出入りするためだ。
給湯台の床に猫の飲み水とエサを入れた皿が二つ並んでいる。それを取り上げ、水は捨て、残ったエサは捨てた。洗って干しておく。そこには猫のトイレも置いてある。中の汚れた砂を始末し、それは人のトイレに流して処理した。
手を洗っているとき、社長室の扉をノックする音がした。その音で、誰だかわかる。彼がそのままで返事をして、程なく、ノックの主が部屋に入ってきた。ロングヘアに、色の入った眼鏡、アイボリーのパンツスーツを隙なく着こなした、彼の秘書水城だ。
ハンカチで手をぬぐいながら、彼女の上司が扉から現れた。ネクタイをシャツのポケットに挟み込んでいる。使ったハンカチを、彼は荒く畳んでパンツのポケットにしまった。
「ご用がないようでしたら、今日は失礼いたしますが」
「ああ、構わない。お疲れさま」
奥で水を使っている音から、彼が猫の世話を焼いていたのだと知れた。以前に、世話を変わることを申し出たが、あっさりと却下されていた。
上司が猫を連れて来る日は、週に何日かあり、その日彼は仕事の途中にはエサを入れ替えてやり、トイレの始末をしてやり、息抜きには、コーヒーを片手に猫と遊んでやっている。
あまりに似合わないその珍しい振る舞いに、秘書室では、最初大笑いを抑えるのが苦しいくらい皆が面白がっていた。「あの社長が子猫を肩に乗せていた!」、「速水社長が猫のうんちの始末をしていた!」、「社長が猫相手に、よちよちみいちゃんと言っていた!」…。
無駄のないこれまでの彼の行動からは測れない最近の変化に、秘書室は鷹宮家との悲劇の破談の影響かしらん? などとひそひそ噂し合った。
さすが水城は彼について長く、彼が初めて猫耳の付いたオレンジのキャリーケースに子猫を入れて出社してきたときから、うろたえはしたが、すぐにぴんときてはた。彼のかつての婚約期間の終盤には、自暴自棄なのではと疑う行為もあった。それがのち、彼自身のための策略の一部だと気づき、複雑に思いながらもほっとしたのはまだ記憶に新しい。
だから、破談での精神的な傷から、とんちんかんに会社に猫を連れて来たのでは絶対にない。それはわかっている。そうでないなら、もうあの女優のためでしかない。
またもう一度、つい同じセリフが出た。
「秘書室でお預かりします。わたしだけでなく、役員秘書もおりますし、手がありますから…」
「給料以上の仕事はしなくていい。電話に出ないでいいだけ、君らより俺の方が暇がある」
きっぱりと断るのだ。もうそれ以上の進言は避けて、軽く頭を下げた。身を返したとき、ノックもなく、ドアが開いた。
社に所属している女優の北島マヤだった。すとんとしたワンピースを着た彼女は、水城の姿に、ぺこりと頭を下げた。「こんばんは、お邪魔します、水城さん」。
以前、マネージャーとして苦しい中の彼女の面倒を見たことがある水城には、マヤは思い入れのある女優である。『紅天女』を獲得し、大都と契約を結んでからは、殺到する仕事を慎重に選んでこなし、着実に女優としての地歩を固めつつある。
女優としての華やかな肩書とは裏腹に、相変わらず地味で目立たない、普通の女の子のままだ。ファッションだけは、小遣いが自由になってきて、可愛らしくそれなりにおしゃれに装ってはいる。
水城の目に、彼女の首に華奢なモチーフのネックッレスがうつった。それがハイブランドの品であるのは、すぐにわかった。彼女が自分では、ご褒美としてでも奮発しそうにない品である。更に、そのブランドの小ぶりな紙袋を、数か月前に秘書はこの部屋の、デスクで確かに見た覚えがあった。
「マヤちゃん、お久しぶり。あなたの活躍は、よく知っているわよ。…社長にご用? 今夜は」
「ええ、まあ…、速水さんが、みいちゃんがいるからって」
もごもごと照れながら口ごもる。どうやら彼は子猫で彼女の気を引いたらしい。
「もう、出るぞ」と、彼女へ声をかけ、彼は、デスクの書類を集め、束にしてしまうと、引出しにしまった。椅子の背に掛けた上着を羽織った。
「あ、はい、速水さん」
彼女は床の猫を抱き上げ、「みいちゃん、元気にしてた?」と頬ずりをしている。やはり水城の見立て通り、社長室を遊び場にするこの猫には彼女が絡んでいるのだ。
彼は彼女の手から猫を受け取り、キャリーケースに入れた。その入れ方がしっくりときている。慣れているのだ。猫を提げ、
「稽古場からまた歩いてきたのか?」
「あ、うん。結構近いですよ。でも、余計な運動してすごくお腹がすいちゃった。ははは」
「ああ、何か食おう」と、彼はちらりと時計を見、
「うちに来るか? 何か買って帰ればいい」
「えー、速水さんちかぁ」
「嫌そうな顔をするな」
と彼が彼女の頬を軽くつねった。水城はそれを見て、内心「まあまあ、仲がよろしくて」とにやにやが止まらない。
「みいちゃんがいたら、どこにも入れないだろ。それに、俺も飲めるから助かる」
「あ、そうですね」
そこで、彼は水城を振り返った。「一つ頼まれてくれないか?」。
「何なりと」
「『△▲』に予約を頼む。一つはお任せの握りで、もう一つはちらし寿司を。テイクアウトで。今から取りに行くと、大将に言ってほしい。そこの電話でいい」
水城はメモを取るまでもなく、頭に刻み頷いた。指示通り、デスクの電話を借り、手帳の中から行きつけの有名寿司店の名を拾い、すぐ注文を終えた。
「ありがとう」
短い礼を言った彼が部屋を出る。見送る形で、彼女は二人に遅れて出た。ぴょこんと彼女は水城に振り返り、「おやすみなさい」とお辞儀した。水城はそれに、指で応じた。
猫を提げた彼の隣りに彼女が並んだ。空いた手で、彼女の手を取る。社長室の他、役員室が並ぶ、人けの消えたしんとしたフロアを、二人は歩いて行く。
「寿司でいいだろ?」
「うん、わーい。お寿司。ちらし寿司大好き。黒沼監督より好き」
「比べるな」
その背中を見送り、水城は、
(見てられないわ)
とあてられた気分で苦笑し、秘書室に戻った。
 
途中寄り道をし、寿司を受け取ってから彼の部屋に着いたのは、もう九時近かった。部屋に入り、すぐに猫をキャリーケースから出した。
エサと水を補充したが、猫は見向きもせず、まっしぐらにキャットタワーに向かっていく。これは以前彼女が選んだもので、ヨーロッパ直輸入物との触れ込みだ。日本には十五体しかないのだと、『ペットショップ ラブリー』の例の店主は請け合った。自分が現地で買い付けた、と言うから、彼は「ああ、そうですか」としか返せなかった。
彼はこれを、二体買った。一つは梱包を外してもらいトランクに積んで持って帰った。もう一つは速水の邸に宛て送ってもらった。あちらでも必要になるだろうから。
あの日、飛んで帰れば、彼女にねだられ部屋で組み立てた。構造自体は簡単なものだが、幾つもあるネジがどうしててんでバラバラなのか謎だった。同じようなネジ穴なのに、他のネジが合わないのだ。「買い付けたんなら、現地でチェックしとけよ」と、いらいらした記憶がある。
ソファとテーブルとテレビ、無駄な家具のないリビングの隅に、どどんとキャットタワーが聳え立った。海外のセンスか、支柱からヒョウ柄で、そこに板が何段か出ていて、それらはそれぞれ原色だ。中央には箱があり、丸い穴が開いている。上部には彼女が一目ぼれしたハンモックが揺れていた。
猫がまだ小さいので上にはいけないが、よじ登ろうと試み、爪を砥いだり十分楽しんではいる。
缶ビールを飲みながら、寿司折りを食べた。彼女が今稽古中の芝居の話をして、彼がそれに相槌を打った。
会話が途切れた。しばらく黙った彼女が、箸を唇に当て、彼を見た。
「速水さん、みいちゃんのお世話。ありがとう。すごく嬉しいです」
「それはそれは」
改まって、こんな風に礼を言われ、彼はちょっと虚を衝かれた。寿司を口に運ぶ、その咀嚼の途中で更に、
「速水さんて、何でもできちゃうんですね。こんな風に、赤ちゃんのお世話とかもすいすいとやれそう」
彼女はそのまま素直に感嘆したように言う。彼は彼女のセリフに少しどきりとした。寿司を喉にやって、ビールを一口飲んだ後で訊いた。
「産んでくれるのか?」
「え?」
彼女はそのまま絶句し、しばらくの後で、気まずそうにちらし寿司をぱくぱく食べた。ここの店のものは量が程よく少なめだ。彼もじき食べ終わった。彼女が済むのを待って、彼が告げた。
「この先、そんな風になれたらと思ってる。そういうつもりで、君とはずっと来た」
「…うん…」
彼女は赤くなりつつもうつむいて、膝にかかるワンピースの裾をいじっている。「焦らせるつもりはないし、気長に待つよ」。
彼はそう笑った。数は減ったが、なかなか止められない煙草を手にしている。
彼にしては、小出しのプロポーズのつもりだ。彼女との結婚は、当たり前に視野にあるが、『紅天女』を終え、ようやく自由に女優業を謳歌しているかの様子の彼女だ。不足のない環境に充実した様の彼女を見て、少し待ってもいい、そんな気持ちのゆとりが彼にもあった。
ちょうど今の彼と彼女が互いに立つ場所は、これまで願いつつ叶えられずにいた夢の先のようである。障害は消え、焦がれるほど望んだものは手に入れた。気づけば、想像した以上の余禄が待ってもいた。
傍から見れば、彼の境遇はそうは見えないだろう。上位の家格の令嬢との破談の余波では、人の尊厳やプライドが根こそぎ吹っ飛ばされるほどに、各誌に悪辣に書き立てられた。降るようにあったはずの縁談など、今は絶無だ。成人した男として彼個人のイメージや魅力はおそらくゼロより悪い。
手に残ったのは、手切れの処理の巧みさで大都のグループ企業に損害はほぼなかった、という旧に復しただけの、手柄になるかわからない現実だけだ。
そんなマイナス勘定の彼が、ひっそり手に入れたのは、何にも代え難い彼女との時間と、ついでに白い子猫が一匹…。
彼女はまた「うん…」と返す。
もうちょっと感激してくれると思った…、と彼は若干でなく落胆もしている。何となく彼女のリアクションには手ごたえが薄い。
その気持ちを疑うことはないが、気持ちの比重に違いのがあるのかと、やや白けた気分になった。
そんな感情の延長で、言うつもりのなかった言葉が口をついて出てしまう。自身の進退の話だ。




     

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