猫と君のいる時間
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「じき、俺は大都芸能を離れる。他のグループ企業に行くことになるよ」
彼女が顔を上げた。よほど驚いたのか、彼の顔を見つめたままだ。
「速水さん、大都の社長さんじゃなくなるの?」
「まだはっきり決まってないが、大都の別の所でまた社長さんだと思う」
「ふうん…」
破談後の今も、一部提携を残す鷹宮家との交渉窓口は、彼である。そのためもあり、グループ内の中核企業である運輸の方に、父は彼を推していたが、彼は彼で、中で業績の芳しくない観光・ホテル産業の方のテコ入れに興味があった。以前のグループ統合での会議では、そちらの経営陣に強く誘われた経緯もある。御曹司の彼が入ることで、大きな資金投資の決済が下り易くなるとの期待があろうが、そんな下心が見えても、歓迎してもらえるのなら、新しい環境で仕事もやり易かろうとは思う。
多額の資金を投入し、旧態の宿泊施設ではなく、複合の会員制高級リゾート開発を展開したいと聞いた。悪くないと思う。なら、それとは対照的に、自分は逆にごく低コストのものを考えたい。傘下の外食企業の協力を得れば、思い切って格安なものを提供できそうでもある…。
大都芸能に首までどっぷりとつかってやって来たが、今抱える仕事をこなしつつも引いて眺め、こんなことを考える余裕ができた。
ごり押しすれば、希望の異動も叶うだろう。そして、そちらへ自分が動けば、役職・仕事柄の視察や出張が増えそうである。地方へあちこち飛び回ることもあろう。必要ならやる、構わない。
しかしそうなれば、彼女と会う日が今より減ってしまうのでは、とそんなことを危ぶんでしまうのだ。本当に気持ちに余裕ができたのかどうだか怪しい。
「…だから、俺が行った後で、間違って社長室に飛び込んで行くなよ。新しい社長が面食らうから」
「そんなこと、しません!」
彼女らしくふくれて返したが、すぐに、声をトーンダウンさせ、「速水さんがいないのなら、行かない…」などとしょぼくれたように言うから、彼には堪らなく可愛い。
彼が大都芸能に社長として収まって九年。その期間のほとんどを嫌われ尽くしで過ごしたが、彼女なりに大都芸能の社長としての自分に愛着を持ってくれているのがわかり、面白くも嬉しかった。
彼女は食べ終わった寿司折りをぎこちなく片付けながら、
「…何か変わってしまうの?」
「今までのように、君の仕事に目を光らすことはなくなるから、さぼり放題だ。楽になるよ、きっと」
「さぼってなんか」とぼやきながら、彼女はごみを始末しにキッチンに入った。戻って来ても喋らずに、猫を構っていたと思えば、そろっと彼に寄り添ってくる。ソファに掛けた彼の脚の間に身体を入れ、膝に頭をもたせ掛けた。
「大都芸能にいないなんて、速水さんじゃないみたい…」
「多分社屋は、君の稽古場や撮影場所とは遠くなるから、呼びつけることはもうないよ」
「ふうん」
彼の肩書きが変わることが、彼女に何の作用があるのか彼には分らない。ただ先を寂しがっているようではある。
彼は彼女の足先に、自分のそれを当てくすぐるようにいじった。彼女は彼に膝に指でくるくると小さな円を描きながら、口を開いた。思いがけないことを言う。「月影先生と、速水さんて、似てるから…」
(嘘だろ…)
瞬時言葉に詰まった。似てはいないだろう、全然。と心中大否定だ。
彼女の師である月影千草と大都芸能の社長である彼が彼女に対して果たした役割は、よく似ているという。そういう意味なら、頷ける。
「月影先生は、わたしに基礎から演技を教えてくれました。厳しくて、最初はびっくりするくらい稽古はきつかった…。速水さんは演技の先生じゃないけど、わたしが間違えたり違う方を向くと、無理やり引きずってでも、役にあたらせてくれました。あれは、嫌になるくらいしつこくて、本当に嫌だった。ああいうときの速水さんの目って、おかしいんじゃないかってほど冷たかった。引っ張ったりつかまれたり、腕もすごい痛かったし。それにがみがみうるさくて、いつもうっとうしくって。会うたびげんなりして思っていたんです。実はゲジゲジの方がよっぽどましだなって。でも…」
そのせいで、『紅天女』にまでたどり着き、今の自分があると彼女は締めくくる。二人には恩があるという意味だろう。伝わるが、月影千草に比べ、自分への表現が彼の心情には辛辣過ぎて、返事も返せない。往時の彼の振る舞いを恨んでいるかのようである。
言い過ぎだろ、とむっとするが、思い当たることばかりで、心が塞いだ。
自分へ抱くだろう彼女の感情など無視して、行ったことばかりだ。きっと傷つけて嫌われるとわかっていたし、あんな年頃の女の子には適切でも親切でもない、誰が見てもひどい対応だった。
あのときは一番効果的だったと信じたが、本当にそうだろうか。単に手っ取り早い、手軽な方法を取っただけではないか。もっと別な、優しいやりようがあったのでは…。彼女はけろりとそれらを乗り越えてはくれたが。
彼女の将来のために、あの頃の彼は観念してやれたことでも、必要があったとして、同じことを今彼女に対して行える自信は、彼にない。まず嫌われるのが怖いし、心情的に無理である。
男女の仲になり、距離は縮まった。けれども彼女にいつでも行使できた、彼のある強さがすっかり錆びついてしまっているのだ。
こんなことも、大都芸能を離れる決意の一因にはなっている。
彼女に言うのはいろいろ憚られ、「もうしないよ」と、のみにしておいたが。
彼女はこだわりなく、
「ここのところずっと、周りの人が優しくて…。どんな風に演じても、怒られも怒鳴られもしないし…。ちょっと肩すかしっていうか、寂しい気もします。がみがみ屋の速水さんまでいなくなっちゃったら、拍子抜けしちゃうな」
あの月影千草が見い出し育て上げ、冗談にならない苦労の果てに、『紅天女』を獲った彼女だ。誰がその演技に文句をつけられよう。彼女のとぼけた不満に、彼は口元に笑みが上った。
「俺だって、もう君の芝居をけなすなんてできないぞ。天女様に無礼でおこがましいからな」
「また…!」
彼女は彼を見上げて頬をふくらませる。
「そんなに、叱られたかったら。黒沼さんの所へ行って来い。彼の手掛ける芝居に潜り込めれば、何なりとケチはつけてもらえるだろ」
彼女は、「黒沼監督…、いいかも」とつぶやいている。組むのは『紅天女』の本公演以来だから、得意のアポなしで、本当に行く気かもしれない。
彼は、彼女の髪に指を置き、絡めていじった。ちびちゃん、と呼び、
「もう君の後ろにべったりと俺がついていなくてもいいと思わないか? 今更所属のお偉いのに付き添われて動く女優でもない。俺が社長として、君にしてやれることはそう多くはないんだ。逆に、俺じゃない方が都合がいいことが、この先増えるはずだ」
「…どういうことですか?」
「君とのこんな関係が、邪魔になることも出て来るよ。気をつけてはいても、お互いに私情を挟んでしまうことだってある」
彼女は身体の向きを変え、やや視線を下げ彼女を見る彼と向き合った。何か感じることもあるのか、彼女は小さく頷いた。
「そっか…、速水さんと水城秘書がデキてたら、ちょっといろいろ、ややこしそうですね。水城さんと話しているだけで、デートの約束してるみたいに見えますもんね、絶対見える…! 水城さんが素敵な服を着ていたら、速水さんが贈ったんだって思っちゃう。きゃあ」
想像に照れて顔を隠している。たとえがあれだが、理解はしているようだ。
(何が、きゃあ、だ)
そんな彼女を彼は膝に抱き上げて、後ろから抱きしめた。抗いはしないが、彼女は、
「あれ、もうわたしの後ろにべったりいなくてもいいんじゃないんですか?」
「まだ大都芸能の社長だから、べったりついておくよ」
彼女のうなじに口づけながら、以前彼女にした提案をもう一度出してみる。一緒に暮らしたい、と言った。
「環境がこれから変わる。これまでのようには会い辛い。君とはもうすれ違いたくないんだ」
「それは、わたしもです…」。か細くもくすぐったげな声が返って、嬉しくなる。
「…ここで?」
「セキュリティやマスコミ対策にはここは都合がいい。戸建てに近い構造で、独立性が高いからプライバシーも守れるよ。君が不満でないのなら、ここがいいとは思う」
「でも…わたし、ちゃんとできないし。騒がしくして、速水さんに迷惑かけちゃうから…」
「俺は、君がちゃんとして、騒がしくなかったときを知らないぞ」
「そうやって、意地悪ばっかり言うんだから…!」
「稽古の都合もあるだろうし、今のマンションはそのままでいいよ。遅くなったり、君が一人になりたければ、そっちへ帰ればいいだけだろ」
そう言って、彼女の逃げ場を残しておくのを彼は忘れない。彼の長年の勘で、彼女には程々の自由がある方がいいと知っている。彼のエゴで縛りつければ、彼女が苦しいだけだと…。
「ただ、無断外泊は止めてくれ」
「そんなこと、しません! …多分」
「多分?」
彼がそこで、彼女の首をやんわり噛んだ。それに彼女は「きゃっ」とくすぐったそうに首をすくめる。
「しない。絶対」
同棲の了解が取れた。彼はほっと満足して、彼女の空いた首から手を差し入れた。滑らかな肌を指がたどっていく。
ふと、彼女が「あ」と声を出した。決然とした口調で、
「駄目。帰らないと」
「何で? 朝送るから泊まれ」
「だって…」
「用があるのか?」
「そうじゃないけど。…着替えがないんだもん」
情けない声を出す。
いつかのように自分のものを貸す訳にはいかず、「我慢してくれ」など、女の子を相手にデリカシーのないことも言い辛い。そういう積み重ねが、過去の彼を「ゲジゲジ」で「嫌になるくらいしつこくて、本当に嫌だった」相手にしたのかもしれないから。
彼はため息をついて、ブラジャーの胸に触れそうなところで彼は手を引っ込めた。
怒った声を出すのを避け、それでも面白くない気分が言葉に出る。
「着替えくらい置いておけよ、今度は」
「ごめんなさい…」
彼女はしょげて彼の膝を降りた。一人で帰すことはできない。彼も飲んでいるから車を出してやることも無理で、タクシーを呼ぼうと立ち上がった。
彼女は彼の足元で、自分の大きなバッグをごそごそ探っている。台本やら飲みかけのペットボトルやら菓子の箱やら雑多なものが、ぽんぽん出てくる。
「何してるんだ?」
「ごめんなさい、片付けますから、すぐ。あの、もしかしたら、あったかも、と思って…」
「何が?」
「前に麗の所に泊まる予定で、それがなくなったときの、使わなかった着替えです」
「あるのか?」
意外なところから幸運の可能性が湧いてきた。彼までが彼女の手元を祈るように見つめる。
「出てこい出てこい、パンツ〜」
無意識だろう、小さな声がそんな呪文を唱えている。ややして、彼女の手が、目当てのものを探り当てた。畳んだタオルと一緒に白に水玉のくるんと丸まった布が現れた。
「あった!」
「やったな」
彼も声が出た。何をやり遂げたのかわからない。
「でもこれ、駄目な奴…」
彼女は見つけた下着を、またバッグにしまった。彼にはその意味がわからない。「これ、古いし、可愛くないから、嫌だ」。
彼に見られたくないということらしい。
何を言うのか、と。彼はあきれもするし、何より今夜彼女と過ごす時間をあきらめきれない。外側の布の柄なんか、気にもならない。脱がす過程は大事であるが、何よりもその内側にこそ用がある。
彼は屈んで、彼女と姿勢を合わせると、そのまま抱き寄せた。
「もう、どうでもいいから」
「だって、あれ、中学生みたいな奴だもん…」
「中学生だっていいじゃないか」
「え? いいの、速水さん 中学生…」
「いや、よくないよくない。今は、君のパンツの話をしてるんだ」
「…速水さん、気にしない? 毛玉ができてても…」
「しないよ」
見る機会があっても、そういった際は、彼は彼の作業で忙しいのだ。脱がしたパンツの確認にまで手が回らない。
じゃあ、と彼女は頷いた。「泊めて下さい」。
でも、と条件を付ける。彼の腕をつねりつつ、
「…笑ったら、今日はしないから」
「笑わないよ」
約束して、そのままキスをした。少しだけ長くキスしてから、彼をとんと押しやった彼女が、「お風呂に入りたい」言う。どうぞ、と促せば、替えの下着を持たずにふらふら行くから、彼がバッグから出して追いかけた。
「ほら、忘れ物」
彼女はひったくってそれを後ろ手に隠した。彼を上目づかいでにらみ、
「何か言いたいことあるんでしょ?」
「どうして?」
「目が笑ってるもん、速水さん」
「笑ってない。言いがかりだぞ。俺はいつもこんなだ、性格がいいから笑顔が絶えないんだ」
「嘘ばっかり!」
彼女がバスルームに消え、彼はリビングのソファに戻ると、抑えた笑いをふき出した。彼女に聞かれるとまずいから、傍のクッションを口に押し当て、長く笑っていた。
(本当に、中学生が買いそうな奴だった…。犯罪者だな、俺は)
彼だって、中学生の下着事情は知らないくせに、げらげらとおかしがっている。比べるまでもなく、彼の経験で、女性のあんな下着を脱がしたことはない。
みいちゃんが、不審げに甲高く鳴いた。すとんとキャットタワーの下段の板から降り、彼の足元に来た頭をソックスの足先にこすりつけてくる。
始まった彼女との時間では、その流れが異なるかのように、物事はまず円滑に運ばない。突拍子もない行動に彼は振り回されるし、結局譲り続ける自分にもあきれ、そんなこんなでため息も出る。
それでも、手放せない。
彼女とはずっとこういう風に行くのだろうと思う。騒がしくて、おかしくて、腹も立つ…。でもとびきり楽しいのだ。
こういうことを幸福だというのかもしれない。
目には見えない。でも実感のあるこの感慨を自分は絶対に守っていきたいと思った。
 
 
 
 
 




            

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