紫の人
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広々とした和風の庭園は十一月を迎え、葉の色も染まった。庭の色が変わり、季節が移ったのを知った。
縁台でそれらをぼんやりと眺めていた紫織は、奥内からの声に振り返った。「そろそろお仕度のお時間ですよ」と、ばあやが言う。
彼女はこの春の始まりに正式に婚約を破棄した。その後、手持無沙汰に暮らす彼女へ、家族が勧め、鷹宮家が関わるボランティア団体や慈善組織の理事などの肩書きを持たせた。
家から出る金は彼女の名義で寄付されることになる。その会議めいたものには毎回呼ばれた。名ばかりの役割であるが、場では丁重に意見を求められるのは、悪くない。知らない世界をのぞくのは、案外暇つぶしにも刺激にもなった。
今日は、その会議の日だった。
彼女は返事をし、自分の部屋に入った。着物からドレスに始まり、大変な数の服を持っている。衣裳部屋の洋服を吊った場所から薄い黄色のニットスーツを選び、それに着替えた。破談を機に、このスペースにあった多くの服は処分してしまっている。着たニットスーツはもちろん、吊られているのはその後、新たに買ったものばかりである。
紫織には几帳面なところがある。あの嫌な出来事を引きずるものは、一切この部屋に残しておきたくなかった。元婚約者から贈られたものは、婚約指輪は返却し、残りは廃棄した。高価なものばかりだったが、惜しくなどなかった。また気に入ったものがあれば、値に糸目を付けず買えばいいだけだ。
身支度を整え、彼女は車に乗る。邸を出た車は目的の会議のある某福祉センターに向かった。曇った空から雨がぱらぱらと落ちてきた。天気が崩れ、空気が冷えそうだった。
運転手が「お嬢様、車内は寒くありませんか?」と訊いた。薄手のコートを着ている。大丈夫だと返事をした。
会議を終えたのは、四時前だった。お茶を振舞われたが、口に合うものではなかった。ふと濃くて甘いチャイのようなものが飲みたいと思った。付近のカフェに寄ればいいが、一人では気が引けた。誰か誘うにも、そこまで親しい友人はいない。母なら、出てきてくれるかもしれない。その後、ショッピングに回ってもいい…。
以前の婚約時にはこういったとき、紫織は決まって彼を思いついた。会社に出向き、食事やお茶に連れ出した。忙しそうであったが、嫌な顔を見せられたことはない。
彼との仲が消滅した今、意外にもそういったことが惜しく感じられるのだ。何を失ったとも思わないが、そんな物足りなさはある。
建物から出る際、来るときには気づかなかった、壁の大きなポスターが目に入った。子供に向けたもので、テレビの戦隊ものの出演者たちが衣装をまとい、各々ポーズを決めている。『こわいときには、おとなをよぼう!』。不審者から身を守る意識掛けのもののようだ。すっと視線を外しかけ、その中の一人に紫織の目は釘づけになる。
北島マヤがいた。五人の中の唯一の女性メンバーで、黒と白にピンクを効果的に配置した、アイドルのようないいでたちだ。唇を閉じつつも、微笑んでいる。役になりきっているのか、これで魅力的である。
『紅天女』を獲得したと騒がれていたのに、こんな子供向けの安っぽい番組に出ているのか…。紫織はおかしくなった。
ポスターの下部に『スーパーレンジャー・トランプファイブ』とある。刷られた制作会社名を見て、そこにはつてがあると気づく。
彼女は車に乗り、バッグからケイタイを取り出した。ある衝動でそこから父の社に電話し、父を待たずに、一つの連絡先を入手した。
 
雑多に車が停められた駐車場から、紫織は撮影現場に入った。小ぶりな体育館のような場所だった。中に入るとき、警備員がおり、そこで止められた。それには、制作会社の責任者の名を名乗り、通った。
がらんとした空間の中央に、ラフな格好の男女が数人いる。そこから引いた位置に機材を扱うスタッフが詰めていた。今は本番の前の練習場面であろうか。
紫織の目は中をさまよい、壁に立った目当ての人物を見つけた。十一月になるのに、半袖のTシャツだ。彼女の姿をじっと見つめた。どれほどかして、相手が紫織を認めた。距離があるのに、目を見開いているのがわかる。
わざわざ足を運んでおいて、一体自分は何をしたいのかと思った。何かを咎められでもした気持ちになる。
そのまま身を返し、駐車場に戻り車に乗った。帰宅するよう伝える。もうチャイも母とのショッピングもどうでもよくなった。
走る車の中で、紫織は彼女の髪が肩付近に伸びていたのを思い出す。自分が人を使い、夜道で彼女を襲わせその髪を切り刻ませたのは、いつだっただろうと思い返す。馬鹿なことをしたと思った。使ったのは出入りの庭師の男だった。男は更に誰かを使って実行していた。
彼女はその犯人を、単なる通り魔と思ったのか逆恨みしたファンと取ったのか。そして、事務所はどう処理をしたのか、事件が表ざたになることはなかった。
彼女を傷つければ、彼が目の色を変えて怒ると思った。自分を罵り、怒鳴り散らすと思った。そんな彼を見たい訳でもないのに、期待もしていた。しかしそうはならなかった。
彼女に起きたことを、二人の関係で知らないはずがない。なのに、あの後間もなく、彼は鷹宮の家に、紫織との新居の設計図を持ってにこやかに現れたのだ。「注文しただけなので、初期のプランだそうです。あなたの意見が大事だから、それを聞きたくて」。
にっこりと笑って、彼女へ家の青写真を差し出した彼を見て、彼は平気で自分と結婚を進めるつもりだと感じた。きれいな顔の下の読めない感情が、ふと底が知れず、不気味になった。怖くなった。心が他所へ向いたままの相手と結婚することは、この顔を見続けることだと、今頃わかった。
愛する彼女の髪を切り刻んだ女を、彼は平気で妻にしようとしている。そのことで彼女を守ろうとしたのかもしれない。でも、彼の深い気持ちを知る、一線を越えてしまった自分の行いが、それで終わるとは限らないのに…。
実際、やってしまった行為に震えながらも、次なる計画をあれこれ練ってみたりもした。雑草のように強い彼女が、何をすれば一番堪えるか。女優としてのキャリアをつぶすのでは弱い。そんなもの、彼女ならどうとでも取り戻してしまう。
やはり、女として消えない傷を負わせるのが、一番気に適うようだ。そんな汚れた女でも、彼は後生大事に胸にしまい、紫のバラを贈り続けていくのか…。試したい気分にもなった。
結局、試すことはなかった。
そこまでの意気地がなかったのと、ちょっとしたタイミングのずれだ。すっきりとショートヘアになった彼女が、何かの雑誌でさっぱりとした顔で笑うのを見て、目の前で手を打たれたように、はっとなったのだ。自分のしたことが、この子には何の害にもなってないことを突きつけられた気がしたのだ。
何をやっても、空回り。決して彼女は変わらない。つぶれない。自分の心と手を汚しただけの結果になった。彼を通しての彼女の存在が、いつの間にか、彼を通り越し、直に意識されてきていることにこのときに気づいた。嫉妬に、胸がふさがれるような息苦しさだった。
こんなことが、いつまで続くのか…。
彼を婚約者としてつなぎ止めている限り、彼女の存在は目の前から消えない。当たり前のことがこのときわかり、肩の力が抜けたのを覚えている。
程なく、自分から言い出した。「彼との婚約を止めたい」と。




     

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