紫の人
2
 
 
 
彼との仲がおかしくなり出したのは、いつからだったろう。誰からも鳴らない電話をもてあそび、そんなことを思う。
幾つかあった危険を示すようなシグナルに、気づかず鈍感であったなら、彼とはそのままでいられたのだろうか…。
見合いののち、婚約に至った。つき合ってすぐ気づいたが、彼は結婚を急いてはいなかった。紫織の扱いは丁寧で、親切だったが、それ以上ではない。年も年になり、親がうるさいので引っ張り出されてきた、といった感がはっきりと見えた。それは、紫織の方も同じだった。
互いに、降るように来る縁談の中から、選び選ばれた相手に過ぎない。彼はそうでありつつも、鷹宮家の名に断り難い色気を感じてはいるようだった。
煮え切らない態度の彼が、それでも紫織の欲求に折れて婚約に至った。それからだ。
母が声を荒げて、使用人を叱っていた。滅多とないことで驚いた。内容は週刊誌に載った彼のことだった。そのことで噂し合う使用人をばあやが気づき、事が事で母へ注進したようだった。
週刊誌は母が取り上げ、ばあやが処分した。何が書いてあるのか。隠されれば余計な興味も出る。口をつぐむ皆をあきらめ、紫織はインターネットでそれらを調べた。目当ての記事は幾つもヒットし、指を噛みながらそれらに見入った。
華やかな芸能関係に身を置く彼への、やっかみに尾ひれの付いたでまかせだと思った。しかし、内容が悪辣過ぎた。
彼の母のことからその出自、彼の側の親族からの証言というものもあった。どこから来たかわからない闇のような母子が、速水の家を乗っ取った、と書かれていた。他、御曹司になりおおせてからの彼の学生時代の傍若無人な振る舞いと行動。当時の学友の言葉もある。「超S。あの頃から、嗜虐性があるのは気づいていた。やばいなって」。大都芸能の社長に就任してのちは、どれほど女優やアイドルの卵をもてあそんで捨てたか知れない、とまである。果ては、芸妓に産ませた隠し子まで登場した。
一々それらには、真実かも、と思わせるある信憑性があるのだ。写真であるとか、関わった人物の言葉と使ったとされるホテルの彼と女のサイン…。それも紫織を震えさせた。
驚きに、言葉を失った。頭の中が白くなった。見合いをするにあたり、鷹宮の家でも彼について調べはしたはずだ。祖父や父が、問題のある男を身内に入れはしない。
まさか、と思い否定が欲しくて父と祖父に疑問をぶつけてみた。二人は紫織が下卑た噂をどこで拾ってきたのかと、眉をひそめた。
ところが、否定はしないのだ。噂に言及はせず、一通りの身上調査はしたといった。二人の目から見て、これといって問題は見られなかったという。
「あの男が、紫織一人を貫くように見えたのか?」
ねんねのようなことを、と笑った。祖父も父も家庭とは別に常に女性を置いてきた。紫織の耳にも届くほど、女の影は絶えなかった。子供もある。その子たちが、鷹宮の家の敷居をまたぐことは、決してない。
そんな二人にとって、彼のどこまで真実かわからない噂は、どうでもいいことらしい。気になるなら消してやろうと、言った。その口は、彼を問い詰め、噂の審議を質そうとは絶対に言ってくれないのだ。
泣き崩れる紫織へ、
「あの男に今わしが叱りつけでもして、襟を正させたところで、結婚後はまたその襟も乱れる。家と家の結婚は、こういうものだ。観念しなさい」
愛娘だ、愛孫娘だと蝶よ花よと育てられた。その二人の真意はこんなものだった。母に泣きつけば、当に観念を極めたこの人は、「本妻であることが、何よりも大事なこと。物の数にも入らない女のことは、目に入れてはいけません」と、良家の妻の心のありようを解くのだった。
経験ある母の言葉は強く、そんなものかといつしか納得できた。そして、当の彼には、あの噂について決して口にはすまい誓った。それが鷹宮家の娘のせめてもの矜持だと思った。
それでも母は娘を思い、家の男たちがしなかったことを彼にしてくれた。その面前で遠回しであるが、彼をなじり、そして身を律することをきつく求めた。彼はそれに、慇懃に頭を下げ、恐縮した様子を見せた。その彼の母にひざまずくような姿を見、紫織は溜飲が下がる思いがしたのだ。
噂の半分にも真実はないだろう。けれども、心の奥のどこかで、自分は彼のことを見下げていることを知った。
その後である。彼に心から愛する女がいることに気づいたのは。やはり、母へ泣きごとを言った。
「ひどい。どうしたらいい?」
冷静で強い母が、何か策をくれるかも、と思った。だが、母は娘の手を取り、ただ繰り返すのみだった。「慣れなさい。我慢なさい」と。
 
北島マヤへの疑心が、紫織の中でいつしか育ち、あるきっかけでそれが疑いではなく、確信に変わったとき、何かが胸で爆ぜた感覚があった。怒りと驚きに混じり、ああ、やはり、と物事が腑に落ちた、妙な安堵もあったのは不思議だった。
彼に恋をしていた。幼い頃の恋心とは違い、初めての成熟した気持ちと言ってよかった。ただ、自覚していたが、彼に恋する自分が好きでもあった。彼のことでときめく日々は、きらきらと嬉しかった…。
死んでやろう、と突発的に思った。一瞬だけは本心だった。それはすぐ冷める。持って行きようのない心を、何かの形で吐き出してしまいたかっただけかもしれない。
生まれてから、紫織は数え切れないほど仮病を使ってきた。嫌な授業、嫌な行事は皆それでかわしてきた。紫織の養育を一任される母がそれを許してきたし、また世話係のばあやも彼女に甘かった。
自殺を図って見せるのは、その集大成ともいえる。
池に身を沈めた紫織に、使用人の目もあって、家族はすぐに気づいた。とんでもない騒動になった。やや水を飲んだだけだったが、医者がすぐ呼ばれ、遅れて彼が駆けつけてきた。
「どういうことだ? 何か二人の間にあったのか?!」
開け放した襖から、廊下で祖父の低い声が彼を叱責するのが聞こえた。気配で、彼がうなだれるのがわかる。彼女の休む病室の枕頭では、父と母が言い争っていた。こんなことは鷹宮の家では絶えてないのに。
「横浜の二の舞は嫌ですよ。この前だって、困ったからって厚顔にも大金を無心に現れて…。紫織は耐えきれませんわ!」
「こんなときに持ち出すことじゃない。黙りなさい!」
「こんなときだからこそが、父親なのにおわかりにならない?」
二人から背を向け、薄く目を開けていた紫織には、両親の話す内容がよくわかった。母の言った「横浜」とは、父が二号とその子を囲う別宅だ。ちなみに、祖父には箱根と京都の北嵯峨に同じ種のものがあった。
聞いていたくなかった。他でやってほしい、と泣きたくなった。
じき二人の言い争いは、祖父の一喝で静まった。辞去する際の彼の表情を、紫織はちらりと見た。うつむいて青ざめて、臍を噛んだような苦い顔をしていた。それは、紫織の取った行動を痛々しく気づかい、動揺しているように見えた。しかし、思いがけず背後から袈裟懸けに斬られでもし、「しまった」ともらす無念の色にも見えるのだ。
それからだ。
降って湧いたかの彼の醜いスキャンダル数々は、自分から離れるための手段だったのでは、と合点がいったのは。紫織から愛想尽かしさせるためのものであったとの想像と、「しまった」といった彼のあの表情がぴたりと合わさった。
床上げをしてすぐ、紫織は庭師を使って北島マヤを襲わせた。




     

   パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪