紫の人

3

 

 

 

自分の口から婚約の破棄を申し出た直後は、よく覚えていない。紫織自身は何もしなかった。祖父や父が指示を出し、上手く計らったのだろう。
この二人は、紫織をいたわりながらも、もてあますかのように接した。「わがままだ。誰に似たのか」と、言われたこともある。遠回しに、母のせいだと言っているのは知れた。
事情は何であれ、女の側からの一方的な婚約破棄だ。例の真偽も怪しいスキャンダル以外、彼には非はない。更に、紫織が破棄を言い出す少し前に、彼が費用をすべて持ち、新居の用意をしていたことも破談の際の交渉に有利に働いた。
手負いながらも、彼は何とか紫織と鷹宮の家から逃れた。騙された、謀られたとは思うが、どうでもいいと感じた。
心に隙間が空き過ぎ、そこから通る風が、涼しくも切なく、物足りないだけだ。やや放心して暮らす紫織と違い、邸で晴れ晴れとした顔をしたのは、一人母だった。
ときに涙を流す娘へ、
「あんな男、あなたに相応しくない。お母さんはわかっていましたよ。鷹宮の家と、あの汚れた血が混じらないで、本当によかった。そう思いますよ」
意見を述べる母の毅然とした声に、はっとした。紫織はこれまで自分で精いっぱいで、母の気持ちを探ったことが無かった。母は彼を嫌っていたのだ。きっとその素性も何もかも…。鷹宮の家で隙なくいた彼が、それに鈍感でいられた訳がない。
いつからだろう、と考えたが、強くそしていつも落ち着いた母の気持ちは読めなかった。
 
ときを経、車のかすかな揺れに身体を預け、紫織は気づく。
母の彼への嫌悪は最初からだ、と。あの縁談話が起きる、まだ紫織と彼が面識すらない頃、釣り書きと身上調査を読んでからのものではないか。理由など知らない。でも、想像はつく。
破談劇に至る、不快な期間。母の折々の言葉や声に、自分は少しずつ、心も背も別れへ押されてきたのかもしれない。
そこで紫織は空腹を感じた。甘いものを少し食べたい。雨にぬれる車窓から黄色い装飾のドーナツショップが見えた。大衆向けのチェーン店で、紫織は足を踏み入れたこともない。
やや迷い、運転手にその店に入るように告げた。
「お嬢様、よろしいのですか?」
普段にない紫織の命に、運転手はたじろいでいる。「いいの」。
車から降り立ち、少し髪をぬらして店内に入った。制服姿の女子中高生や、子連れの主婦らがドーナツを手に談笑している。紫織も見よう見真似でドーナツを十個と、チャイの代わりにミルクティーを買った。ドーナツは一つを残して包んでもらう。
混んだ中、席を見つけ、座った。渋みの勝ったミルクティーは悪くなかった。ドーナツもおいしい。
ドーナツを熱い紅茶で流し込んだときには、わかっていた。多分、きっと。彼が狙ったのは、紫織ではなく、母だ。娘に大きな影響力を持ち、そして彼を嫌悪している母にこそ、彼はまず破談への布石を打ったのだ。
あのスキャンダルを流し、それを母が見る。見たところでは終わらない。祖父と父がそれらを歯牙にもかけないと、彼は知っていた。だが、母は違う。必ず、どんな形でも、娘の耳に入るように仕向けてくれる。たとえば、使用人を使ってでも…。
今から思えば、あの噂を知るきっかけも、不審だ。娘に関するあんなデリケートな問題で、当の紫織に聞こえるよう、声を荒げて使用人を叱るほど、母ははしたなくも愚かでもない。
聞かせたかったのだ。
そこから、絶対にシナリオは動き出す。
何を犠牲にしてでも。そんなフレーズがふと浮かんだ。ちょっと冷たいあのきれいな彼の顔が目に浮かび、それを払うかのように紫織は立ち上がった。
「お茶のお代りはいかがですか? ただいま特別サービス期間中です」
若い男が紫織に声をかけた。胸に『店長 はざま』とある。この世界は、狭いようでやっぱり狭い。勧めを断り、店を出る。
車に戻ると、前の運転手に、「どうぞ。おいしいわ。帰ったら、皆さんで召し上がって下さいな」とドーナツの包みを差し出した。
恐縮する運転手に紫織は返事を返さなかった。
いつか、彼女に謝ろう、と思った。今日、唐突に彼女に会いに行った衝動は、そこに理由があるのかもしれない。
(あの子に嫉妬していた)
今更、その重さを思う。
己の決めた目的へ、自身の足でしっかり歩む彼女。障害も糧にするような彼女のたくましさは、紫織の母の諦観として冷めた強さではなく、いきいきとまぶしいのだ。比較すらおかしいほど、レベルが違うと感じていた。なのに、実は劣っているのは自分ではないかという嫉妬が、彼の側にいながらじりじりと身を焼いた。
疎ましく嫌いだから、目にしたいのではなく、あの子の素晴らしさを見せつけられるから、見たくないのだ。
そして、そんな彼女には、何を犠牲にしても、彼女を選び続ける彼の献身がある…。
語らずとも、添わずとも、二人はまるで対のようだ。きっと、求め合う当の二人よりそれが紫織にはわかる。
 
いつか。
そう、いつかでいい。自分はきっと彼女へ頭を下げるのだ。ごめんなさい、と。許されなくても。それで彼女を怒らせても。
初めての彼女との対等な接点を持つのだ。
そのとき、初めて終わる気がする。彼女への凝った思いが、そのとき溶け出すだろう。
それが待ち遠しいようでもあり、まだ早いと気持ちが萎れるような気もする。
 
自分に約束はしない。
いつか。
 
 
 
 
 




            

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