みいちゃん
(1)
 
 
 
約束の時間の少し前に、彼女は部屋を出て階下へ降りた。エントランスを抜け、樹木の茂るアプローチを出、すぐの所で立ち止まる。手の荷物を地面に置いた。
往来へ目を向け、待ち人がまだ現れる気配もないと知ると、斜めに掛けたバッグからケイタイを取り出した。素早く操作し、まずメールのチェックを行い、次いでゲームのアプリを開く。
最近お気に入りのゲームに、彼女の気持ちがちょっと集中する。気持ちのいい秋風が頬をなぜた。ボブの髪が揺れる。
と、そこで、通りからマンションの敷地内に入ってきた一台の車がある。シルバーのそれは、滑らかに彼女の立つ付近まで走り寄った。車が停まったのと、彼女との距離はそれほどない。
車の主が、軽く短くクラクションを鳴らした。
それに、彼女はちらりと顔を上げたが、目当てのものと違うと気づき、すぐに目をケイタイに戻してしまう。もう一度、クラクションが鳴った。
今度は、彼女は顔を上げすらしなかった。
ドアが開く音、車から誰かが出る音。そして、こちらへ向かってくる靴音。連続して続くそれらに、さすがの彼女も動いた。(ケイタイからは顔を上げず)バッグを持ち、場所を移動した。アプローチの開口部の、反対側に移った。
ほどなくして、
「おい」
と呼ぶ声がする。聞こえない訳ではない。ちらりとその人物の着た服も目に入った。それにも彼女は無視を決め込む。興味本位の知らない他人からは距離を置くよう周囲から執拗に言われていたし、彼女自身も徐々に増えてきた、慣れないそんな事象に煩わしさを感じていたからだ。
気取っているの、偉そうだの、彼女の外見からは意外な素気無い対応にあれこれ中傷も受け、それに傷つきもしたが、何かトラブルをしょい込むよりまし…。そんな居直りにも似た風なところに、最近は落ち着きつつあるのだ。
そこへ、肩にぽんと手を置かれ、「マヤ」と知った声が、上から降った。
いきなりの出来事に、彼女はケイタイを握りしめたまま、飛び上がった。ひいっと、喉が驚きに鳴る。
顔を上げれば、隣りに立つのは彼女が待つ彼であった。彼女の反応に、困ったようなそれでも面白がっているような表情だ。
「さっきからいるのに、気づきもしない…。何に夢中になってたんだ?」
「速水さん…!」
だって、と彼女は現れた彼を見て、まだぼんやりしている。普段彼女の知る彼は、ダークスーツしか着ない。チノ・パンツにシャツにセーターを重ねた、今のようなカジュアルななりの彼を、彼女は知らない。
「雰囲気が違ったし…」
「あんな窮屈なものを、休みに着るか」
窮屈と言うが、彼は産着のときからダークスーツを使ったのではないかと思えるくらい、楽々と着こなし、かつ様になっていた。
「…だって、車が違うから…」
そして、いつもの彼は、私用では黒のセダンを使っていた。今日はシルバーで、多分彼女の目からも車種が違う。
「ああ、あれと交換した」
「交換?」
彼女の返しに、彼は「そう」と答え、その手を取った。傍らのバッグも持ってやる。彼女に助手席に乗るように示し、バッグはトランクに詰めた。
助手席に乗り込んだ彼女は、彼が運転席に収まるのを見ながら、
「そんなに簡単に車って、交換できるんですか?」
彼は自分の隣りに確かに座る彼女を横目で見、エンジンをかけた。敷地を出て行く。
きっと彼女の頭では、まるで物々交換のように車が交換される様子が浮かんでいるのだろう。そんなことを、いつものようにおかしく思う。
まあ、遠くもないが近くもない想像に、彼は詳しく答えてやらない。
「あれは、君が『やくざの人みたい』って、散々言ってたろ」
「え、だから変えたの?!」
「何だ、前の『やくざ』もまんざらじゃなかったのか?」
「…そうじゃないけど…。でも、別に変えなくたって…、わたし…」
やや恨めし気にそんなことをもらす彼女の声を、彼はほんのり笑いながら聞いている。彼女の着るニットの丸く空いた胸元に、自分が以前押し付けるように贈った、小さなクローバーがモチーフの華奢なネックレスがあるのを認めた。彼と会う日は、必ず彼女がそれを付けてきてくれているようだった。妙なところで律儀だと思う。
幹線道路に入った車は、車線を縫うように動き、高速道路のインターチェンジに入った。
「あ、速水さん。今、開店したパンケーキさんが見えた。新しくできたアメリカのチェーンのお店、知ってます? 可愛い、おいしそう」
ニュースで見たような聞いたような。彼は彼女へ、「帰りに寄るか?」と訊く。
「はい、うん!」
機嫌のいい声が返ってくる。
今日は、これから伊豆の彼の別荘へ向かう。東京から大した距離でもないが、互いに夕べ遅くまで予定があり、落ち合うのが午後に入ってからになった。
かねてからの約束で、なかなか果たせずにいたそれは、彼女と彼にとっては意味が深い。オフが合い、やっと叶う今になっても、彼にしたって彼女にしても、あまりに意味を込め過ぎて、実感がわかないのが本当のところかもしれない。
 
休憩に、伊豆に近いサービスエリアに入った。平日であるが首都圏から近く、観光地の側では駐車場も、なかなかの入りだ。
車を降り、伸びをした後で彼は彼女の手を取った。彼女は逃げない。恥ずかしげに彼の手の中にちんと収まっている。
照れ隠しか、単なる食欲か。彼女はのぼりに書かれたアイスクリームが食べたいと、言い出した。
財布を出すまでもなく、小銭は煙草を買ったときの釣銭がある。彼は胸のポケットに押し込んだそれで払う。
「ありがとう、ございます…」
さっそく唇にあてがいながら、彼女が礼を言う。
「速水さんは?」
「要らない」
「甘いもの食べた方がいいですよ。疲れにくくなるんだって」
「俺は疲れて見えるか?」
「そうじゃなくて…。ああ、そう! いらいらしにくくもなるって聞きましたよ」
「ふうん、そんなにいらいらしてるのか?」
「もう、そんな意味じゃなくて!」
彼も、敢えて言っているのだ。
彼の言葉に彼女が困り、挙句ぷりぷりする。睨みながら、それでもアイスクリームを舐めるのを止めない、可愛い仕草を心の奥でうっとりと眺めて楽しんでいる。
彼女は、自分の側で手をつなぎながら、皮肉な言葉を口にする彼に、いつもながらのふくれっ面で応じ、半分ほど残したアイスクリームを彼に押し付けた。
「わたし、トイレ行ってきます。速水さんにこれあげます。食べてて下さいね、老化防止に!」
返事も待たずに行ってしまう。
渡されたイチゴのアイスは、どうにも彼の嗜好に合わない。つき合いで、ほんの一口食べてやり、後はごみ箱へ捨てた。
入れ替わりにトイレに行った彼が戻れば、待っているはずの彼女の姿が見えない。目立たない場所に必ず動かないで待つよう言ったのに。
仮にも、『紅天女』の後継者だ。舞台を降りれば、ごく普通の可憐な女の子だが、『紅天女』の本公演が済み、爆発的に知名度が上がった。顔も売れた。目立たず地味な彼女に気づく人間がいても、ちっともおかしくない。
普段から電車で動き、平気で街を歩く。「だって、わたしに誰も気づかないんだもん」。と彼女は周囲がうるさく言っても気にも留めなかった。実際気を揉み心配しても、何も起きない。そんな日々が続けば慣れも出る。
彼は焦って辺りを見回した。そうしながら、ポケットのケイタイを出し、彼女へ鳴らそうと思ったとき、その姿を見つけた。彼から50メートルほどの先に彼女は屈んでいた。何かを見ているようだ。
これにまずほっとした。
急いで駆け寄る。
(まったく、あの子は)
叱るのも飲み込み、何をしていたのかを訊く。彼の声に咎める色があったのに気づいてか、彼女はまずごめんなさい、と謝った。
「急にいなくならないでくれ。心臓に悪いから」
彼女はしゅんと背を小さく丸めるようにした。普段からしつこくくどく、執拗に周りから言われていることを、あっさり失念してしまったことを気まずく思っているのだろう。
それ以上の責めの言葉を告げず、自信で十分反省してほしい。と、彼は彼女の言葉を待った。
屈んだ彼女の前には小さな白い猫がいた。どこから来たのか。ちょっと離れた場所に、つぶれかけたダンボールがあった。あそこにいたのかもしれない。誰かがここに捨てて行ったものと見えた。
生まれてどれほどだろうか。鳴き声も頼りなく、それでも、空腹なのか母親を求めるのか、ひどく鳴いている。
これを見つけて彼女はここまで来てしまったのだ。
「かわいそう…」
彼女の声が潤んで聞こえた。
それに応じず、彼は彼女を促す。腕の時計を見ながら、
「もう一時を過ぎてる。そろそろ出よう」
「でも…」
彼女は立ち上がらず、地面の猫を腕に抱いた。のニットの胸で猫が暴れている。「よしよし」。彼女はあやしながら、猫を抱きそこから離れられずにいる。
捨て猫に執着する彼女の優しさは理解しても、それでどうなるものでもない。彼は少し吐息してから言葉を継いだ。
「マヤ、もう行こう。あんまり抱いていると、行き辛くなるぞ」
彼女は彼を見、少し頷きながらも猫を離そうとはしない。ややもして、
「速水さん…、この子、連れて行っちゃ、駄目?」
うかがうように、彼を見た。
こんなセリフがそろそろ出るのでは、と彼はちょっと訝しんでだところだった。が、それは口にせず、
「気まぐれで連れて行ってどうする? 飼ったとしても、君は一人暮らしだ。稽古や舞台で部屋を空けるときはどうするんだ? 楽屋や撮影先にこれを連れていくのか?」
「それは無理だけど…。でもしばらく預かって、飼ってもらえる人を探したらきっと…」
頼りなげな声の、しかも楽観的過ぎる抗弁に、
「いつまで預かる? 君が留守の間は、やっぱりどうするんだ? ちびちゃん。生き物だぞ、おもちゃじゃない。簡単に同情して、自分のものにするのは優しさじゃないぞ」
「…でも、ここに残したら、この子死んじゃう…!」
小さな声が、怒っていた。彼にではなく、どうしようもできないことにだろう。しばらくして涙声が続く。
彼にもわかる。放っておけば、ほどなく猛禽の餌食か、車にはねられるか、餓死するか…。だからと言って、向こう見ずに引き取るのは無責任だ。
そうやって、やっと観念したのか彼女は、「ごめんね」とつぶやき、地面に猫を下ろした。
「ごめんね…」
軽々にかけた憐憫に、彼女自身が苦しがっているようだった。涙を浮かべた彼女を見下ろし、彼はちょっと心をえぐられるような気分でいた。
彼女と思いが通い三月あまり。その中で、彼女が自分に何かを求めただろうか(アイスは別として)。彼を束縛することをはにかみ、プレゼントは欲しがらず、ただ彼の一番側に寄り添うだけの立場に至れたことを、芯から満足している…。
「ごめんなさい、速水さん…」
ロスを詫びた彼女は立ち上がり、彼のニットをチョンと引いた。もういい、というのだろう。
振り切るように猫から顔をそむける彼女の肩を抱く。首を向け、今度は彼が置き去りになった猫を見た。その側を人が、憐みの目向けたり、または無関心に過ぎていく。
 
『速水さん…、この子、連れて行っちゃ、駄目?』。
 
少し前の彼へ向けた、彼女の言葉。あれは、自分との関係を踏まえた甘えだったろう。彼女が彼へこんなねだりごとをするのは、まず希有なことだった。自分は多分知らない。彼はそう思った。
そして、彼女のこれくらいのわがままも受け入れてやれない自分が、ひどく小さくみっともなく感じた。
彼女にはああ諭したが、後のことは何とかなる。ただ、自分が骨を折ってやればいいだけの話だろう。
「いいよ」
彼の声に、彼女はきょとんと顔を上げた。
「伊豆まで、とりあえず連れて行こう」
「え。だって、速水さん…、いいの?」
驚きに遅れ、嬉しさが彼女の白い頬に上る。きらりと黒目がちの大きな瞳が彼へ見開いた。急な翻意にちょっと不思議そうに。
「そうしたいんだろう?」
「だけど、でも…、いいの?」
「連れておいで。俺だと噛むんじゃないか」
「うん」
彼女はすぐ背後の別れを告げた猫へ屈み、抱き上げた。ひどく嬉しく優しい顔をしている。つきんと胸が痛くなるほど可愛いと思った。こんな容易いことを、なぜためらったのか、彼は自分をおかしく思った。
みーみーと鳴く猫を、彼女は自分のタオルを出して包み、腕に抱いている。そんな彼女を隣りに、
「まず、そいつを入れるケースを調達しよう。君が抱いたままじゃ危ない。他に、エサとか、何か要るだろう」
「本当? 速水さん。あの、ありがとうございます…、嬉しい」
「とりあえず、このインターチェンジで、高速を降りるか…」
伊豆の別荘に着くまでに、付近の街で入用の物を揃えた方が都合がいいだろう。そう考え、彼は車を駐車スペースから出し、高速道出口へ向かう。
「腹は減ってないか? 少し昼飯は遅れるぞ。構わないか?」
「平気。さっきアイスも食べたし。大丈夫です。社長さん」
ちょっとおどけてそんなことを言う。
彼は軽いため息をつきつつ、隣りのごく幸せそうな彼女へ、
「社長さんでも、速水さんでも構わない。君の何も変えなくてもいい。でも、俺のしたことに「ありがとうございます」は止めてくれ」
彼女は猫を抱いたまま、彼へ顔を向けた。その目をちらりと受け、彼は、
「嫌なんだ、それだけ」
「え。あ、はい…」





          


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